ひとつのひかり −11−
突然ドアを開けたシュウは、驚いた顔でヒデトを見ていた。 「な、なんだよ」 シュウは口を開けて、何かを言いかけてやめる。 「どうしたんだよ」 歌を聞かれたのかと体裁が悪くなって、ヒデトはぷいと横を向いた。 「もう、……一度」 シュウの声が震えていた。 「もう一度? もう一度、なんだよ?」 「もう一度、歌って……」 シュウの方からヒデトに何かを要求するのははじめてではないだろうか。 そのはじめてのことに、ヒデトはうろたえた。 「駄目だ。声が全然出ない。とても人に聞かせられるもんじゃない」 ヒデトの拒否に、シュウは部屋の中に入ってきた。 床に座り込むヒデトの前に、シュウも座り込んだ。ヒデトの膝にそっと手を置く。 「歌って……、俺しか聞いてない」 膝に置かれたシュウの手が小刻みに震えているのがわかった。何故震えているのか、その理由がわからず、ヒデトはごくりと息を飲んだ。 「聞きたい……のか?」 イエスと言って欲しい。シュウが聞きたいと言ってくれるのなら歌える。 「聞きたい」 いつもの真っ直ぐな、いや、いつもよりさらに強い輝きを持って、シュウはヒデトを見つめていた。 その瞳が今はヒデトの世界のすべてになっていた。だから信じることができた。 おべっかや、煽てではない、ご機嫌をとるためでもない、真実の願いだとわかる。 そしてどんなに下手でも、今のヒデトを笑うこともないと、安心することができる。 ヒデトは今歌っていた歌を、ゆっくり歌った。実際の歌よりはるかに遅いリズムで。 シュウは食い入るように、ヒデトの口元を見つめ、一音ももらすまいと耳を澄ましていた。 観客が一人というのもはじめてなら、こんな近くで聞かれるのもはじめての経験だった。けれど不快ではなかった。 むしろ落ち着いて、心地好く歌うことができた。 音程は何度も外れたし、声だってまともに出なかった。 それでもシュウは最後まで、ヒデトを喜ばせる観客だった。 最後まで歌うと、ヒデトは苦笑いをした。 「下手だろ。とても聞いちゃいられないよな」 自嘲気味にいうと、シュウは激しく首を振って、そして……にっこり笑った。 いつも無表情だったシュウが微笑んだことに、まず驚いた。 そしてその綺麗さに息を呑む。 「……あり…がとう」 シュウはヒデトの膝に頬を寄せて、本当に嬉しそうに、目を閉じてお礼を言う。 「どうしてお前が……。礼を言うなら俺のほうだろ? 聞いてくれてありがとう」 顔を上げたシュウが、ヒデトを見た。目が赤くなっているのは、泣いていたのだろうかとドキッとする。 「ううん。もう一度歌ってくれて……嬉しい」 それは本心。シュウの疑いようのない真実の心。 そんな風に言われたことにヒデトは驚愕する。 「礼なんて……、言われたらどうしていいのか、わからん……」 「もっと歌って。もっと」 シュウの願いにヒデトは戸惑った。 もうまともに歌わなくなってどれくらいだろう。仕事をしていた時だって、いい加減な歌い方をしていた。声も適当に出していた。どんな声だって、マイクが拾ってくれるし、酷い時には口パクで誤魔化していた。 酒びたりの日々には茶化して、咽を潰すような歌い方をした。ヒデトが立って、口を動かしていれば、歌などなくても、それでみんなは歓声をあげたのだ。 「歌えない。……俺は……お前の聞きたいような歌を歌えない」 ヒデトは苦い顔で横を向いた。 「歌を……歌いたくない?」 不安そうなシュウの声。 「歌いたい。今、ものすごく歌いたい。けど、駄目だ。歌になんて、ならない」 長い一日、すべてなくした果てに残ったもの。 歌。 あんなに粗末にしてきたのに、それでも歌がヒデトの心を震わせた。 「……こっち。……きて」 シュウは立ち上がり、ヒデトの手を引っ張った。 「……なに? ……外に出るのか?」 急にヒデトは怖くなった。外に出るのは怖い。今、ここから出されたら、自分の居場所はなくなると不安になる。 「ごめん。……外じゃないんだ」 シュウはヒデトの腕を引っ張って、寝室を出て、廊下を曲がった。 玄関の脇、電子錠のドアの前に、二人は立った。 8桁の番号を押せば、開くはずだが、もちろんヒデトはその番号を知らない。 「誕生日を入力して」 その言葉に、ヒデトはシュウの顔を不思議そうに見た。 「貴方の誕生日を西暦から入れるんだ」 不思議な気持ちのまま、ヒデトは自分の誕生日を19xx0229と押した。 ピピッという電子音のあと、かちりと秘めやかな音が響いた。 震えそうになる手で、緊張しながら、ヒデトはドアを押した。 想像していたよりも重いドアは、しかし音もたてずに、内側に開いていった。 一歩を踏み出して、ヒデトは驚きのあまり立ちすくんだ。 広い部屋だった。20畳はあるかと思うほどのフローリングの部屋。三方の高い位置に明かり取りの細長い窓がある。窓からの明かりは日光を部屋に落とさず、明かりだけを室内に届けている。 それは部屋の中央に置かれたグランドピアノを守るためだろう。 明るく眩しい部屋だが、直射日光は部屋の中には入らないのだ。他の部屋と同じように、その窓には鉄格子がはめ込まれていて、それだけが場違いだったが。 いや、場違いなのはヒデトもだろう。こんな場所には、自分こそが最も似合わない。 「見て、……これ」 部屋の一角に立てかけられていたものに、ヒデトはもうこれ以上は驚くことはないと思っていたのに、さらに驚かされる。 「これっ……!」 ヒデトは駆け寄って、それを持ち上げた。 手に馴染む重さと形。見覚えのある傷と、所有のサイン。 「俺のギター……」 久しぶりの対面に、ヒデトはそれを抱きしめた。 突然、室内にピアノの音が響いた。 白と黒と鍵盤の上を、シュウの細く長い指が奔放に動き回っていた。 すべての音を確かめるように低音から高音へ駆け上り、高音から低音へ駆け下りる。 シュウは柔らかく頷いて、一つの曲を弾き始めた。 そのメロディーにヒデトは身体を硬くする。 甘く切なく響くその曲は、ヒデトのアルバムに収められた、ヒデト唯一のバラードだった。 |