ひとつのひかり  −10−



 一日が長い。
 何もしない。ベッドを背に床に座り込む毎日。
 何もしたくない。何もすることがない。
 朝、目が覚める。シュウが起こしにくるから。
 昼ご飯を食べる。シュウが運んでくるから。
 夜は風呂に入り、ご飯を食べて寝る。
 もうシュウを抱くこともしない。シュウが出て行ったら困るから。
 だから一日が長い。
 窓から差し込むストライプの影が、部屋の中を横切っていく。その向きで一日の長さを測る。
 影が真っ直ぐになる頃、シュウが昼食を持ってやってくる。
 影が闇に溶ける頃、シュウが電気をつけにやってくる。
 それ以外はずっと座っている。座っている。塑像のように。
 髪も伸びた。茶色い髪の内側に、黒い髪が伸びてきていた。昔なら許せないそんなことも、気にならなくなっていた。
 膿むような一日の長さ。その中にいるのがふさわしいのかもしれなかった。
 ここは静かだった。
 車の音、街の音。人の声。ざわめき。何も聞こえなかった。
 窓の外は緑しか見えない。
 山の中に建てられた一軒家なのかもしれない。
 ここは世界自体が取り残されているのかもしれない。
 世間の速度もここでは無縁だった。
 分単位で移動し、どこの局かわからないまま歌い、衣装のまま次のステージへ。眠るのは移動の車の中。
 あの時に使い果たした時間を、今取り戻しているのかもしれなかった。
 目の前で縦長の影は、さっきから動いていないように思えた。まだまだこれから、一日はうんざりするほど長いのだ。
 こと、と指先が床に触れた音がやけに響いた。
 ことり、ともう一度床を弾いた。
 こと、と、こと、と。
 たったそれだけの『音』がヒデトの心臓を震わせた。
 音と音が繋がって、拍を刻み、リズムを作る。
 こと、と、ことり、ことり。
 これはなんだろう……。
 胸に響く『音』
 こと、と、と、と、と。
 早く打てば胸が高鳴る。
 ことり、…、ことり、…、ことり。
 ゆっくり打てば、気持ちが落ち着いた。
 こと、こと、こと、こと。
 四拍子。懐かしい感じ。
 こと、と、と、こと、と、と。
 三拍子。身体が揺れる。
 こと、とん、こと、とん。
 二拍子。足が動こうとする。
 と、と、とん、と、と、とん。
 たん、た、た、たん。たん、た、た、たん。
 エイトビート。ヒデトがよく歌っていた歌だ。
 右手も左手も、右足も左足も。リズムを打っていた。
 これはなんだろう。
 胸が熱くなる。咽の奥が痛い。
 はじめて歌った歌はなんだっただろう。もう思い出せない。
 けれどはじめて人前で歌った歌は思い出せる。
 誰もが知っている歌だ。とても流行って、みんなが歌っていた。だから自分も歌った。
 それが思いもかけず褒めてもらえた。褒めてもらえたことが嬉しくて、得意になって、何度も歌った。
 歌を歌うのが楽しかった。楽しくて楽しくて、歌が好きだった。
 あの時の気持ちはどこへいったのだろう。
 多分、それが、ヒデトが最初に捨てたものなのだ。
 一番捨ててはならなかったものなのに。
「あー、あ、あ」
 声を出してみた。掠れた声しか出なかった。
 観客がいるわけではない。だからいい。自分の歌いたい歌を歌えばいい。
『お気に入りの ミュールをはいて キミははにかみながら
  オレの前を 振り向き 振り返り 飛び跳ねる 』
 ヒデトは自分のでビュー曲を口ずさんだ。
 声は出ないし、音は響かないし、息も続かないし、悲惨だった。
 けれど、歌いたかった。歌っていたかった。
 誰のためでもない、自分のために。自分のためだけに。
 歌を歌える自分が嬉しかった。
 パタパタと廊下を駆けてくる音がした。バタンとノックもなしにドアが開いた。
 シュウにしては珍しい無作法だった。
 突然のシュウの出現に、ヒデトは歌を止めた。
 シュウは驚いた顔で、目をいっぱいに見開いて、ヒデトを見ていた。



……次のページ……