ひとつのひかり −1−
壁に埋め込まれた照明は赤や青、黄色のフィルムを透過した鈍い色で、それらが不規則に並び、毒々しい光でそう広くはない室内を、混ざり合って、斑に淫靡に染めていた。 そのインモラルな光の海の底にはいくつかのテーブルとソファーが置かれ、ソファーごとに数名の人間が蠢いていた。 煙草や酒、そしてそれらに混じる、ある独特の匂い。 目を凝らしてみると、ソファーにしどけなく座っている人間たちは、互いに絡み合い、あられもない姿を曝しているが、それを気にしている様子はない。 目の焦点は合っておらず、口はだらしなく開き、呆けたような笑顔をあらぬ方向へ向けている。弛緩しきった表情は、酒の力だけではなく、この匂いの元に理性を奪われていることを物語っている。 さすがのヒデトも一歩を踏み込むのを躊躇った。 ここに入れば、もう戻れない。 もう正常な、あの輝かしい光の中へは戻れない。 そう考えて、すぐに自分の甘さを笑った。 ここに踏み込まなくても戻れないじゃないか。自分はもう、あの『ヒデト』ではない。 17歳で華々しくデビューしてから栄光と転落の5年間だった。もう、ここから先は堕ちようもない。 どこへ行くにもファンや追っかけに囲まれ、歓声とも嬌声ともつかぬ叫びと強烈なライトを一身に浴びて歌っていたスターのヒデトはもういない。 傲慢な態度、気分次第で仕事を放棄し、気に入らない相手には暴言を吐き、自分の天下のように振舞った。 トップスターであるからこそ見逃してもらえていたその態度は、仕事を疎かにし、売れなくなっていき、気づいた時には自分を歌わせてくれる場所はどこにもなくなっていた。 スターとして輝けない自分を認められず、自分の力で手に入れたわけではない整った美麗な容姿と、早くも過去の栄光になってしまった『ヒデト』というネームバリューだけで、酒を飲ませてくれるところを渡り歩き、酒に溺れて、自分を捨てていった。 そして辿り着いたのがここ、ここにくれば天国に行けるという、誰かの甘く、妖しい囁きだった。 『ヒデトならみんな大歓迎よ』 誰が言ったのかももう覚えていない。そんな言葉に、自分はまだ歓声とともに受け入れてもらえるのかもという甘い期待を持ってやってきた。 だが、そんな歓声が起こるわけもなかった。 何を期待していたのだとヒデトは自分を嘲笑った。 甘い酸えた匂い。どこを見ているのかわからない視線。乱れた光の中に浮かんでいる白い肢体は、生気という匂いを消している。 「どうしたの? ヒデトともあろう人が、怖いの?」 耳元でくすっと笑われると、途端にかっとした。 「バカなことを言うな」 不必要な強がりを口にして、ヒデトは室内へ、禍々しい光の中へと一歩を踏み出した。 その一歩を踏み降ろすより早く、うしろから腕を掴まれて引っ張られ、ヒデトはよろけながらもなんとか踏みとどまった。 酒に浸りきった身体が転ばなかったのは、ただヒデトを引っ張る力が強かったからだ。 「何をしやがる!」 捕まれた腕を振り払うようにうしろを振り返った。ヒデトは自分をここに連れてきた女が引っ張ったのだと思っていた。 だが、ヒデトの腕を掴んでいたのは、ヒデトの見知らぬ男だった。ヒデトを連れてきた女が驚きながら、その男を見上げていた。 かなりの長身。180近いヒデトよりも、まだ数センチは高く見えた。 こんな薄暗い室内だというのに、黒いサングラスをかけている。 年の頃は20代後半。高い鼻梁と薄い唇。余分なものを削ぎ落とした彫りの深い容貌。サングラス越しにでも、いい男だというのはわかった。 「誰だよ、お前。気安く触るな」 ヒデトが睨んでやると、男は冷酷そうな唇に、嫌な笑いを浮かべた。 「落ちぶれていても、プライドだけはあるんだな」 「なんだと……」 「その酒に浸したような頭でも少しはわかるだろう。ここは駄目だ。戻れなくなるぞ」 男はヒデトが最初に思ったことを言葉にした。他人に言われると、ますます抜き差しならないと思ってしまうが、それでも本来の気性が反抗してしまう。 「てめえに関係ないだろう」 「それが関係あるんだな。嘆かわしいことに、お前のマネージャーだから」 「はぁ?」 ヒデトは笑った。自分のマネージャーはどこのボンボンだと思わせるようなひ弱で、外見通りの頼りない冴えない男である。 今も、最後の……ヒデトが知る限りにおいて、本当に最後の……仕事を放り出してきたヒデトを、必死で探し回っている頃だろう。 目の前にいるようなまるで本人がモデルのような眉目秀麗を絵に描いたような男ではない。 「とにかくここはヤバイ。帰るぞ」 「何よ、あんた」 男は女の抗議を無視して、ヒデトを無理矢理引っ張っていく。 「やめろよ、てめえ。俺はお前なんてしらねーぞ!」 表に停めた車までヒデトを引っ張ってきた男は、煩わしそうにヒデトの鳩尾に拳を叩き込んだ。 「てめえ……」 ヒデトはブラックアウトする視界の中で、自分がその車に押し込まれるのを感じた。 逃げなきゃ駄目だ……。 そう思うのに、身体は動かない。 意識が闇に沈む中、柔らかくて暖かいものが頬に触れた。それが何かわからぬうちに、ヒデトはとうとう意識を手放した。 淡い光の泡が、ふわりふわりと広がっていく。 辺りは網膜を焼くような白。 白い光の中で、淡い光の虹の中にいる。 こんな綺麗な場所は……知らない。 ……天使が歌ってる……。 囁くような、優しい歌声が、遠くから聞こえる。 誰が歌っているのだろう? 心にゆるりと沁みこんでくるような、心を暖かくしてくれるような、美しい歌声だった。 ああ、天使が歌っているのかもしれない。 まだ夢の中にいるような気分だった。 ヒデトはゆっくり意識を取り戻していく。 清潔な糊の効いたシーツ。長い間見たこともないような爽やかな光。 ここは自分の部屋ではない。 ぼんやりとそんなことを考えながら、ヒデトは聞こえてくる歌声に耳を澄ました。 聴いたことのない歌だ。 この歌があんな綺麗な夢をみさせたのだろう。 身体を起こそうとして、頭と鳩尾が痛むのに気がついた。 「っく……、くそう」 呻いたヒデトの声に、歌声はぴたりと止んだ。 ヒデトはその声が聞こえなくなったことが残念だった。もっと聞いていたかった。 突然、部屋のドアが開く。 切り取られたドアの空間に見知らぬ少年が立っていた。 「お前、誰だ。……ここは、どこだ」 ヒデトは鳩尾を押さえながら、少年を睨みつけた。 |