HIKARI  −9−



 歌を歌わなくなった歌手。
 次第に彼はテレビから遠ざかっていった。
 季節は変わり、繍のピアノはヒデトの歌だけを繰り返す。
 予定されていた番組を「急病」で出ないことも多くなり、ヒデトはその姿を見せなくなった。
 悪い噂だけが週刊誌を通して繍の目に入る。
 荒れていく彼を止められない。
 ハラハラとしながらも、止めてくれと願うことしかできない。
 歌ってよ、歌ってよと、ひたすらに願いながらピアノを弾くことしかできなかった。
 再びピアノを弾き始めた繍もまた、周りに流され始めていた。
 自分の望みとは離れたところで、リサイタルの話が進み、コンクールやレコーディングのオファーも多く入るようになった。
 繍の気が変わらぬうちに、レールに乗せてしまえという思惑が働いているに他ならなかった。
 ……嫌だ。
 そう一言告げるのは簡単だった。
 けれどそんな素振りを見せるだけで、皆は焦り、壊れ物を扱うように気遣われると、申し訳なくなってしまう。
 今はピアノを弾くことはそれほど嫌じゃない。
 もちろん好きなのだ。自分にはピアノがすべてと思えるほどに。
 けれどそれと同じくらいに、ヒデトの歌が大切だった。
 彼の歌を、生の歌を、本気の生の歌声を聴きたい。
 ピアノから逃げ出し、暗闇の中で俯いていた自分に、一つの灯りで導いてくれた歌声。
 彼に……本気の歌声を取り戻してほしい……。
 それとももう、彼は忘れてしまったんだろうか……。
「これ、あげるわ」
 ある日、樹里が渡してくれたのは、一枚のチケットだった。
「何? これ」
 端が擦り切れたような、手製のチケット。
「行けばわかるわ。私はもう行かないから、今でもヒデトを信じてる繍にあげるの」
 思わせぶりな言葉に、繍はチケットをまじまじと見つめる。
「これに行けば、繍に会える……の?」
「それはね、繍がデビュー前からのファン用のシークレットライブチケットなの。友達が持っていたんだけど、その子ももうヒデトは駄目って言うんで、私にくれたのよ。私ももうヒデトには見切りをつけたわ。でも繍はまだヒデトを信じるでしょう? でも、彼が来るかどうかはわからないわよ。この所、ドタキャンばかりでしょ。きっと来ない。ファンの集まりも最悪だと思うよ」
 それでも繍は行くつもりになっていた。
 彼が一曲でもいい、歌ってくれれば……。
 繍はそのチケットを大事に財布の奥へとしまいこんだ。



***** *** *** *****



「なんか、今までとは毛色の違う番組だよな?」
 少し大人向きの、音楽は音楽でも、リスニング中心の良質で落ち着いた音楽番組ばかりだ。
 地上波、衛星波、ケーブルと放送の種類は違うが、どれも歌を大切にする歌手ならば出てみたいと思う番組だ。
 ヒデトのような流行にのった、ポップス歌手が出ることのほうが珍しい。
「そうですね。でも、こんな番組の方が英人さんには合っているように思いますよ。英人さんの歌唱力が、色んな人に認められているってことですよね!」
 大谷は感動極まった様子で拳を握り締める。
 その姿にヒデトはクスッと笑う。自分より喜んで意気込んでいる大谷を見ていると嬉しくなる。
 いつも自分の背中を泣き出しそうな目で見ていた大谷。
 こいつを二度と裏切らない、喜ばせてやると誓ったから、大谷が喜んで笑っている顔を見られるのは嬉しい。
 早く繍にも知らせてやりたいと思いながら、ヒデトは顔を曇らせる。
 あの控え室から突然繍が消えてから、ほとんど会えない日が続いている。
 電話も何度かに一度、通じるか通じないかという頻度である。
 テレビに出られると報告したら、繍は喜んでくれた。けれどそれは、驚きというよりも、安心したような喜び方だったことが気になった。
 会いたいというと、繍は『ごめんなさい』と謝った。
『急なレコーディングが入っちゃったんだ。どうしても断れなくて……。もう少しかかりそうなんだ』
 寂しそうな声に、ヒデトまで心が痛む気がした。
「そうか……仕方ないよな。そのCD、俺も買うよ」
 ヒデトの申し出に繍はおかしそうに笑った。
『買わなくていいよ。俺がプレゼントする。英人だって、俺にCDをくれるでしょ?』
「繍に貰う方には、繍にサインを入れてもらって、大切に保管する。自分が買ったほうをいつも聴くんだよ。ツアー先にも持って行くんだぞ。繍も一緒にいてくれるような気持ちになれるから」
 ヒデトの打ち明け話に、繍は『俺も』と告白した。
 同じことをしているのだと思うと嬉しい。
 他人が聞けば「けっ」と言いたくなるような、二人のデレデレな会話だが、恋人同士の会話に割り込むほうが野暮というものだろう。
 せめて、一緒の部屋で眠るだけでもできないものだろうかと考えてみるが、自分の仕事は時間が不規則だし、繍のレッスンの邪魔をしかねないと思うと、それを言い出せずにいる。
「無理するなよ」
『英人もね』
 おやすみと言い合って、そっと通話を終わらせる。
 回線が切れたことを確かめると、ヒデトは派手な溜め息をついた。
 繍が日本にいるのに、思うように会えない。それは二人が恋人同士になってからはじめてのことだった。
 会えない時は、繍は海外にいた。だから我慢できたと言っていい。
 すぐ傍に、会える距離にいるのに、会えないことがこんなに辛いとは思わなかった。
「俺って、真面目に人を好きになったの、もしかしてこれがはじめてかも」
 ヒデトは溜め息の後に自嘲気味に笑う。
「やな奴だったよな……ほんと」
 せめて謝ることができたなら……と考えて、それはあまりにも自分勝手で、自己満足な方法だと気がついた。
 謝ったところで、気が済むのは自分だけだ。
「まだやな奴だよな……」
 暗く笑って、ヒデトは目を閉じた。

 会えない日々に疲れながらも、ヒデトは新しく入った仕事に真面目に取り組んでいた。
 音楽番組は公開録画形式で、音響設備のかなり良いホールを貸しきって行われる。
 そのため、前日に別のスタジオでリハーサルをし、当日も二回のリハーサルをしなくてはならなかった。
 それでも繍と滝原のレッスンのおかげで、音響設備に負けないだけの声を出せることができ、生のバックバンドの人たちにも、素晴らしい声量ですねと褒めてもらえた。
 あとは本番だけ。客席に招待客が入っていく様子をモニターで眺めていると、目の前に一人の女性が立った。
「おはようございます」
 彼女が今日ここに来る予定はなかったはずだと思いながらも、ヒデトは有澤華代に神妙に挨拶をした。
 彼女は若い男性を一人連れている。いつもなら取り巻きのように数人の付き人やスタッフを引き連れているはずなのに、今日はその男性だけだ。
 いつものように無視してくれればいいのにと願うヒデトと、ハラハラしながら早く行って下さいと願う大谷。
 けれどその願いも虚しく、有澤は蔑むように笑った。
「金? 色?」
「え?」
 何を言われたのかわからなかった。思わず問い返してしまった。
「どうやってシュウ・カイドウを専属にしているの? 独り占めなんて、ずるいんじゃないの?」
「あの……仰っている意味が……わかりません」
 ぐらりと床が揺れたような衝撃を感じながらも、ヒデトは動揺を見せまいと歯を食いしばった。



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