HIKARI −8−
「繍、お待たせ。本番まではもう暇……、あれ?」 そう広くはない控え室の中で、ヒデトは繍を探して首を巡らせた。けれど、その細い身体は見つからない。 「繍?」 隠れるところなどないのだから、姿が見えなければ、呼んでも返事などあるはずがない。 けれどヒデトは急速に広がっていく不安を抱えて、繍の名前を呼んだ。 「何か買い物に行かれたんでしょうか? トイレとか?」 何度も名前を呼んだのに、いなくなってしまった繍。 そう遠くはない記憶に、ヒデトは不安でいたたまれなくなる。そんなヒデトを宥めるように、大谷が落ち着いた声で鏡の前へと進んだ。 「あ、繍さんからのメッセージです」 鏡の前に置かれていた紙に、短い文章が書かれていた。 『英人へ。 ごめんなさい。急用ができたので、先に帰ります。 テレビを楽しみにしています。』 「え? なんで?」 「……さぁ」 ヒデトも大谷も、繍が今夜ここに来ることを非常に楽しみにしていたことを知っている。 ましてや繍にヒデト以上に大切な急用というのが思いつかない。 二人で首を捻っているところへ、大谷の携帯に電話が入った。 「あ、海棠さんです」 海棠から収録中に電話が入るというのはかなり珍しい部類に入る。 繍が帰ってしまい、海棠からの珍しい電話に、ヒデトは少しばかり不機嫌な顔つきになる。 「はい……。はい、……え、はい」 海棠からは何か指示が出ているらしく、大谷は頷くばかりの返事をしている。 これでは内容が何なのか、全くわからない。 「わかりました。はい、では」 結局そのまま電話は切られてしまった。 「海棠さん、なんだって?」 「はい。新しい仕事が入ったので、スケジュールの確認と調整です」 「調整って、今は真っ白なんだから、どんな仕事でも入れられるじゃないか」 張り切る大谷にヒデトは呆れたように言う。それでも仕事が入ったのなら、繍が喜んでくれるのではないかと、そちらのほうが嬉しい。ここに繍がいればよかったのにと思う。 「忙しくなりますよ、英人さん」 「はいはい。頑張るよ」 ヒデトはあまり本気にせずに生返事をした。仕事をキャンセルされ続けた理由は過去の自分にあり、それが原因ならば、それほどたくさんの仕事が入るとは思えなかったからだ。 「英人さんの健康管理も今まで以上に頑張りますよー」 ヒデトは肩を竦めてやり過ごし、自分の携帯を鞄から取り出した。かける相手はもちろん繍だ。 メモリーダイヤルで呼び出してみるが、繍の携帯はいきなり留守番電話へと切り替わった。 電波が届かないか、電源が切られているか……。 アナウンスを聞きながらヒデトは携帯の画面を見つめる。 「歌うしかないか」 一生懸命、繍に届くように。 そう呟いたところへ本番前の召集がかかった。 ***** *** *** ***** コンサートホールから出ても、まだ耳鳴りがしているような気分だった。 周りのファンはまだ浮き足立っているように見えたが、繍の気持ちは冷め切っていた。 あれがコンサートだなんて。 生の歌声はほとんど聞こえなかった。ヒデトの名前を絶叫するファンの声だけが残っているような感じだった。 「かっこよかったでしょ? 生のヒデト」 樹里はとても楽しそうだ。 「…………うん」 心の中では「あれが?」という気持ちだった。 女の子から見ればかっこいいのだろうか。 確かに華やかな衣装を着て、ヘアやメイクもきめて、ファンの視線を釘付けにしていた。 けれど……。でも……。 「今日の歌は……よくなかったよね」 これくらいの本音は言ってみたい。 「うたー? 歌なんてさ、CDを聞いていればいいじゃない。今日はヒデトを見に行ったんだから」 そんなものなのかと納得してしまう。 彼女たちは生のヒデトを見に行ったのだ。ヒデトとホールの中で同じ空気を作っていられればいいのだ。 でも、それは……? 「それじゃあ、ヒデトは歌わなくてもいいの?」 「いいのよー。ヒデトはかっこよければ」 あんなに歌がうまいのに……。 ステージで輝いていた彼。 けれど彼は楽しそうじゃなかった。 どこか投げやりに見えた。 歌をファンに認めてもらえない彼が、繍には煌びやかなステージの上でとても孤独に見えた。 繍はそれからもヒデトがテレビに出るとわかればチャンネルを合わせた。 人気のあるヒデトをテレビで探すのはそれほど苦労はしなかった。 繍は彼の歌が聴きたかった。だから、必死で彼を追い求めた。 樹里の言うように歌を聴きたいのならばCDを聞けばいいというものではない。CDからは当然のことだが、同じ歌声しか聞こえてこない。 歌い手の感情、心情、コンディションや歌に対する気持ちまでがわかるのは、生の歌い声だと繍は思っている。 ピアノがいつも同じ音質ではないように、ピアノ以上に生の歌声はその人の体調によって変わるものだ。 だからこそ繍は彼の歌声が聞きたかった。 ヒデトが紡ぎだす七色の光の泡に浸りたかった。 けれどテレビに出るヒデトは、ほとんど歌を歌わなかった。 楽しそうなエピソードを話し、時には失敗談や裏話で馬鹿笑いをし、その場を盛り上げている。その笑いの褒美のように、短く歌を流すだけである。プロモーションビデオだけという時もあった。 見ていてイライラした。 もっと彼に歌を! きちんとした音響とセットこそが彼を輝かせるのに。 そう思うと歯がゆかった。 「嫌なら歌わなくてもいいのに」 繍が彼を追えば追うほどに、ヒデトは荒れていくように思えて悲しかった。 最近ではプロモーションビデオが多く、実際に歌っていても、口を動かしているだけというのがありありとわかるほどだった。 「オペラハウスの歌手じゃないのに、彼は」 今日は喉の調子が良くないからと、舞台をキャンセルして許されるほどの歌手ではないと、樹里のからかいに繍は唇を尖らせた。 もはや彼の歌らしい歌が聞けるのは、CDの中だけだった。 音楽室にこもってヒデトの歌をかける。 目を閉じていると、七色のシャワーが降り注いでくる。 泣きたくなってくる。 彼にはもう、こんなふうに歌えるところはないのだろうか。 歌わせてあげたい。彼に……。 自由に、歌いたいように、心から楽しく、歌を愛せるように……。 繍は長く閉じていたピアノの蓋を開けた。 白い鍵盤の上に指を乗せる。 楽譜は必要なかった。彼の歌なら、頭の中ですべて音符が勝手に踊りだす。 指が鍵盤の上を滑り始めた。 ヒデトの歌声は聞こえない。けれど、繍の心の中では彼が歌っていた。 久しぶりに弾いたピアノのメロディーは、繍の怒りと悲しみを表わし、そしてそれはすぐに悲しみに変わっていった。 「貴方はもう、歌いたくないの?」 涙を流しながら、繍はピアノを弾いていた。 ヒデトの歌はもう、誰の耳にも明らかなほどに荒れていった……。 |