HIKARI −7−
姉の樹里に連れて来てもらったコンサート会場は、数千人の若い女性で埋まっていた。 ホールに入る前からオリジナルやコンサート限定のグッズを売る公式ショップがテントで並び、ファンたちはそれぞれに大きな袋を抱えている。 その袋の中身を見せ合い、または取り出して、どのように使うのかを話し合っている。 手作りの応援団扇や、ペンライトの点燈具合を確かめているファンたちは、奇抜だったり際どい衣装を身につけている。 みんな笑顔で頬が上気し、コンサートが始まる前から、彼女たちは既に軽い興奮状態に陥っているように見えた。 クラシックのコンサートではありえない光景に、繍は驚きで身を固くしながら、その光景を眺めていた。 「驚いた? ピアニストの繍君には刺激的過ぎるかしら?」 少しばかり馬鹿にしたように、樹里は弟を見た。 「でも驚くのはまだ早いわよ」 その言葉に首を傾げた繍だったが、意味はすぐにわかることになる。 コンサート開始がアナウンスされ、場内が暗くなった途端、観客は総立ちになり、嬌声でホールは満たされた。 ヒデトがステージに現われた途端、悲鳴とも言えるほどの叫び声で、何も聞こえなくなった。 音楽が始まってもそれは消えず、ヒデトが歌い始めると少しは低くなったが、彼を呼ぶ声は止まることなく、あちこちから上がった。 ヒデトに振り向いてほしい一心の叫びだろうが、それではヒデトの歌など全く聞いていないだろうと思われた。 繍たちは一階席のやや左側の中央あたりの列にいたが、まるでファンたちの手が波のように見え、人の波に溺れているような感覚に陥った。 いつもこんな風なのかと樹里に尋ねたが、もちろん繍の声は音楽と喚声で全く聞こえないようだった。 樹里も叫びはしないものの、ショップで売られていた今回のコンサート限定のバトンをリズムに合わせて振り上げていた。 陸上競技用のバトンよりは少し細いものの、形状は同じで、両端に煌めくスパンコールが散りばめられている。そして胴体部分にはヒデトのロゴとコンサートのテーマがプリントされている。 ヒデトの歌すらろくに聞こえていない状況に、繍は動揺してしまう。もし自分が舞台でピアノを弾いていて、誰も聞こうとせずに大きな声で叫んでいたら、弾こうという気持ちが失せてしまう。 そう思ってステージを見たが、ヒデトは慣れてしまっているのか、音楽にのって歌っている。 何……これ……。 繍はうるさいほどの声援と音楽も忘れて、舞台上のヒデトを見つめた。 歌声はほとんど聞こえない。 舞台を右に左に走るように移動し、ファンを煽るようにアクションを起こす。ヒデトが近づいたサイドの客は声を限りと叫ぶ。 「もっともっとー!」 ヒデトは声を出せとばかりに、マイクに向かう。 顔は笑ってる。テンションも最高潮だ。 けれど、繍には彼が楽しそうには見えなかった。 辛そうで、声も良い状態とは言えない。 騒音すら全く消えてしまったように、繍はぽつんとホールの真ん中で立ち尽くした。 ***** *** *** ***** レッスン場にはピアノの音と、ヒデトの歌声だけが響いていた。 邪魔をしないようにとそっと室内に入った繍は、いち早く気づいた大谷に、壁際の椅子へと手招きされた。 レッスンに集中しているためか、滝原もヒデトもこちらには気づいていないようだった。防音の二重扉は、内側のドアを開けただけでは、空気の波が起きず、人の出入りはわからない。 ヒデトの声にはハリがあった。よく伸びる歌声は朗々と響き渡る。 耳を澄まして目を閉じると、いつも同じ光景が浮かぶ。 淡い七色の光のシャワー。プチプチと身体で弾けて飛ぶ。痛くはない。暖かで優しい気持ちになれる歌声。 良かった……。 その声を聞きながら、繍は心の中で安堵の感想をもらした。 ここに来るまでは不安でいっぱいだった。 次々と入ったキャンセル。歌えない現実に、ヒデトが荒れているのではないかと心配していた。 その心配が杞憂だったことを知り、繍はほっとして、ヒデトの歌声に聞き入った。 海の中で光に包まれているように漂っている気分でいると、突然歌声は途切れ、自分の名前を呼ばれた。 「繍! 早く帰ってきたんだな。教えてくれれば迎えに行ったのに!」 嬉しそうな声に目を開くと、近づいてくるヒデトの姿が目に入った。 「ただいま。突然決めちゃったから、驚かせようかなと思って」 「驚くさ。あと三日は会えないと思ってたんだからさ」 滝原や大谷がいなければ抱きしめるという勢いだった。 「もう終わり? 俺、邪魔をしたんじゃない?」 「今日は臨時のレッスンだったからさ。それももう終わりさ。な、先生」 ヒデトが振り替えると、滝原も笑いながら楽譜を閉じたところだった。 「あぁ、いつもより集中しておったからな。十分すぎるほどだ」 「ほら、な?」 笑うヒデトに焦りは感じられなかった。それでようやく繍も笑うことができた。 「繍は? 今日の予定は? レッスンとかあるのか?」 期待いっぱいの目で聞かれて、繍は笑いながら首を振った。 「さすがに今日は休む。指馴らしだけはもう済んでいるから」 「そっか、じゃあ、食事に行こうか。一緒に食べよう」 「うん、でも……」 少し迷ったように目を泳がせた繍に、ヒデトは何か気づいたように、頭を掻いた。 「あ、俺さ、今はあまり仕事がないんだよ。ちょっとキャンセルが入っちゃって」 軽く笑ってたいしたことがないように報告する。 「でもさ、明日はちゃんと出るから。明日はちゃんと歌う」 「英人……」 なんでもないように言うヒデトを、繍はじっと見つめる。 「大丈夫。俺は頑張れるから、心配すんな。って、もうみんなに心配かけちゃってるんだけどな」 ヒデトは肩を竦めて滝原と大谷を見た。 「俺は何度でも立ち直れる。繍がいてくれるならさ。繍が聞いてくれるなら」 その言葉を聞いて、繍は涙をこぼしそうになった。 今なら兄の言った意味がわかった。 自分が何もかも捨てるようなことをしても、ヒデトは喜ばない。 ヒデトを立ち直らせたのは自分だという間違った自負。 きっかけを作り、道筋はつけたが、そこを歩いたのはヒデトに他ならない。 「ごめんね、英人」 「謝るのは俺のほうだよ。繍のビデオ、無駄にしちゃったよな。ごめん」 「英人が悪いんじゃない」 「でもきっと俺に原因があるんだよ。俺はそれだけのことをしてきたから。まだ贖罪はできていなかったってことだな」 覚悟を決めたように言うヒデトに、繍は首を振るだけしかできなかった。 翌日、繍はヒデトについてテレビ局に入った。 邪魔にならないように控え室でじっとしていた。ヒデトの歌の時だけスタジオの隅に行かせてもらうつもりだった。控え室にはスタジオを映したモニターがあった。 その小さな画面ではヒデトがチラチラと映るだけで、よくは見えなかった。 廊下を行き過ぎる人の足音、話し声。色んな雑音が聞こえてきた。 ぼんやりと待っていると、聞きたくなくても聞こえてしまう。聞き耳を立てていたのではなかった。ただヒデトの名前が出たので、どうしたのだろうかとドアに近づいたのだ。 「どうしてこの番組だけは手が回らなかったの?」 「有澤さん、聞こえますよ」 女性の刺々しい声と、それを宥める気の弱そうな男性の声。 「大丈夫よ。こいつは今スタジオ。誰もいないわよ」 繍は今にもドアを開けられるのではないかと緊張した。開けられたとしても向こうが悪いのだが、秘密の会話を聞いてしまった後ろめたさは拭えない。 「本当に忌々しいったら。しぶとくカムバックするだけじゃなくて、いい曲までもらって。一体いくら積んだのかしら」 「事務所の違約金から、曲の代金まで彼に払えるとは思えません。実家もそう裕福ではないようですし」 「誰がそんな報告をしろと言ったの。お前はこいつを阻止するのよ。もっとしっかりなさい」 「有澤さん、誰かに聞かれたりしたら……」 「平気よ。今までにも全部邪魔をするのに、私の力を使ったでしょう。今更隠しても仕方ないわよ」 声は次第に遠ざかっていった。 けれども繍はその場所から動けなかった。 「有澤華代……。……ヒデト……ごめん。俺のせいだ……」 |