HIKARI −5−
ヒデトという名前を記憶に刻んで、繍は学校が終わるとすぐにCDショップに駆け込んだ。 けれど今まで流行の歌というものに興味を持たなかった繍は、ヒデトのCDがどこに置かれているのかすらもわからない状態だった。 繍がCDショップに来るのは、クラシック関係のCDか楽譜を買い求める時だけ。しかもそれらもほとんど楽器店で済ませるので、若い人たちの多いCDショップに来たことは、片手で数えるられるほどだ。 まず店内に入り、ぐるりと見渡すが、どこに誰のCDがあるのかもわからなかった。 端から回ってみようかと迷ってウロウロしていると、ふいに店内に繍の心を震わせる歌声が流れ始めた。 弾かれたように繍は顔を上げて、天井を見た。そこにはスピーカーが埋め込まれているだけで、CDなどありはしないと分かっているのに。 「すみません、あの……この曲のCDが欲しいんです。この人の他の曲も全部」 繍は近くを通りかかった店員を呼び止め、曲のありかを示すように天井を指差した。 店員は突然の申し出に驚いたようだったが、特に興味を示すわけでもなく、「こちらです」と言って繍について来いとばかりに歩き始めた。 さっき通り越したばかりの棚に繍を案内して、店員は「ここですね」と手のひらで示して去っていく。 取り残された繍は、「HIDETO」と凝った意匠で描かれたコーナーをじっと見つめた。 マキシシングルが5枚、アルバムが2枚とヒデトらしい歌手のピンナップが2枚、飾られていた。 繍はそこではじめてヒデトの顔を見た。 男から見ても、かっこいいとすぐに言えるような、整った精悍な顔つき。じっとこちらを見つめる瞳の色は、緑色を思わせる深い黒。高い鼻梁と少し大きめの薄い唇は、綺麗な顔に男らしさを加えている。 この唇からあの歌声が……。 繍はじっとヒデトを見つめた。 その深い瞳に、まるで自分が映っているような気がして、思わず視線を外してしまう。 急ぐようにそこに置かれたCDから一種類ずつを取り出して、レジカウンターへと小走りに向かった。 「ありがとうございましたー」 明るい店員に会員カードまで作ってもらい、アルバムの初回特典であるヒデトのロゴ入りのキーホルダーを貰って、CDショップを出た。 急いで家まで帰り、自分の音楽室へと飛び込んだ。焦るようにプレーヤーに先に出たほうのアルバムをセットする。プレイボタンを押して、ドキドキしながら、その歌声を待った……。 ***** *** *** ***** 有澤大吾という新人歌手が何かをできるわけではないと、海棠にはわかっていた。 けれど、彼を売り出すためにヒデトを追い落とそうと、誰かが画策していることは間違いがないだろうとも海棠には判断できた。 ならば誰が?と考えなくとも、その名前とタレント名鑑から引き出した彼の所属事務所名を合わせれば、調査などしなくても、ヒデトを落とそうとしている人物はすぐに見当が付く。 有澤華代。 大御所として演歌界に君臨し、各テレビ局に圧力をかけられる、大物演歌歌手。夫はフリーの広告プロデューサーで、人気も実力も備えていて、この夫婦にたてつけるテレビ局となると無いに等しい。 この夫婦には確かに一人息子がいた。名前までは知らないが、彼女の息子だろう。自分の事務所に所属させ、息子を歌手デビューさせたのだろう。 それだけならヒデトとは何の関係もないはずだ。 ヒデトを落として自分の息子を売り出すという図式にはならないはずだ。 「何故ヒデトに拘る?」 釈然としないように呟いて、海棠は携帯を開いた。 相手は5コールで電話に出た。 『大谷です。……何かありましたか?』 心配うに尋ねる向こうは静かだ。この時間ならヒデトは滝原の元でレッスン中のはずだから、レッスン室から出て電話に出たのだろう。 キャンセルの続いているヒデトだから、海棠からの電話に大谷が緊張しているのもわかる。 「ヒデトには内密で聞きたいんだが、有澤大吾と言われて、何か思いつくことはあるか?」 『有澤大吾ですか? ……さぁ、会ったこともないですが』 少しだけ考えるように名前を繰り返した大谷だが、すぐにそれを否定する。 「では、有澤華代は?」 海棠が出した名前に、大谷は不自然な沈黙を残す。 「何かあったのか?」 『何かあったというほどのことではありません。少し前に、テレビ局ですれ違った時に、聞こえよがしの嫌味を言われただけです』 大谷の報告を聞いて、海棠は眉間に皺を寄せる。 「どんな嫌味を言われたんだ? それに対してヒデトが何かしたのか?」 『ヒデトさんは何もしませんでした。むしろ抗議しようとした私を引き止めたくらいです』 「何を言われた?」 『……芸能界は甘いと……、犯罪者をすぐにカムバックさせるんだからと……』 それに対してヒデトは何もしなかったという。むしろ頭に血を昇らせて抗議に行こうとした大谷を止めたという。 「それはキャンセルが出る前か? 後か?」 海棠の質問に、大谷はしばらく考えてから、『前です』と答えた。 「わかった。とにかく有澤華代と大吾の名前は、しばらくヒデトに伏せていてくれ。それとこれからはそういう細かい状況も必ず報告するように」 『わかりました。申し訳ありませんでした』 まだ何か聞きいこともあるだろう大谷との会話を一方的に打ち切った。 大谷の報告だけなら、有澤華代がヒデトに目をつけたわけがわからない。大吾を売り出すためとはいえ、何故ヒデトなのだろう。 誰かを追い落とすのなら、年代も違うヒデトではなく、もっとキャラも被る他の歌手を狙うはずだろう。 ヒデトが今一番目だっているから? 復帰したばかりのヒデトが一番狙いやすかったから? どれも理由としてはインパクトが弱い。 「繍の録画だ」 はっと気がついて、海棠は繍の借りているマンションへと行くことにした。 繍はヒデトの出る番組全てを録画している。留守中のものは全て予約していく。 つまり、ヒデトがキャンセルされた番組も、今は繍のビデオの中に残っているのである。その中にはヒデトの替わりに有澤大吾が歌っている様子が残されているだろう。 まずは有澤大吾がどのような歌手で、実力はどれくらいで、どのような売り方をしようとしているのか、それを知らなくてはこちらとしても対策の立てようがないと判断する。 車を走らせて繍のマンションへと急いだ。 預かっている合鍵を、弟の許可無く使うことに多少のためらいはあったが、海棠は繍の部屋へと入った。 リビングに置かれている液晶テレビへと向かう。 意気込んでいた海棠だが、リビングのドアを開けて、その場に立ちつくした。 「帰ってくるのは三日後じゃなかったのか?」 「兄さん、どういうこと? どうしてヒデトが出ていないの?」 お互いの質問は問いかけられただけで答えはなく、兄弟は気まずげに相手を探るように見つめあった。 |