HIKARI −4−
『原因と言えるかどうかわかりませんが、気になる噂を聞きました』 海棠へとかかってきた電話は、俳優の晃月からだった。 若手俳優の晃月はドラマや映画の仕事も多いが、一つだけ歌番組の司会も務めている。 晃月はヒデトのことも買ってくれていて、ヒデトのテレビ番組復帰も晃月の司会の歌番組からだった。以来、新曲が出ると必ず出演させてもらい、間にも何度か出させてくれている。 今、ヒデトの残っているテレビ出演の仕事も、後はその歌番組だけとなっている。 海棠は今までの出演の中で、何度か顔を合わせた晃月に、それとなく探りを入れていた。もしかしたら晃月の番組からもキャンセルが入るのではないかと心配してのことだったが、晃月も最近のヒデトのテレビ露出が減っていたのを不思議に感じていたようで、それとなくプロデューサーたちに何かあったのかと聞いてくれたようだ。 「どんな噂でしょうか」 今のヒデトに流れる噂で、危険性があるとすれば、繍のことしかないように思い、海棠は身を引き締めた。 ヒデト自身も繍との関係については必要以上に気を遣い、そんな簡単に第三者にばれるようなことはしていないはずだ。 何しろ繍が日本にいることが少ないし、二人が会っているのは、繍のマンションか例のレッスン場である。外で食事程度はするが、どこも海棠の息がかかっているところばかりで、噂が出るとは思えなかった。 けれどどちらかのファンが見かけたりすることはあるだろうし、噂にならないも言えない。 もちろん男同士という点は、二人が一緒のところを見られても、よほどのシチュエーションでない限り友人で済ませられるし、二人は同じ事務所に所属しているので、一緒にいたとしても不思議ではないと言える。 二人の関係については、賛成も反対も表明はしていない海棠だが、ヒデトも繍も、変なシーンを見られるような、迂闊なことはしていないはずである。 『ある人から圧力がかかっているようです。局の人たちは名前を出したがらないのですが、ヒデト君の替わりにある歌手を出したいと言ってきました。もちろん、断るように言いましたけれど』 番組の看板でもある晃月は、発言権もあるらしく、ヒデトの出演を死守してくれているらしい。 「その歌手の名前をお聞きしてもよろしいでしょうか」 回りくどく聞くのは嫌だった。駆け引きも必要なのかもしれないが、晃月も海棠と似たような性格だと踏んでいるので、単刀直入に聞くことにした。 『さすがに僕からは名前は言えません。ですけど、ヒデト君の替わりに出始めた歌手というのを調査してみて下さい。今はそれしか言えません』 「充分です、ありがとうございます」 海棠は圧力をかけているらしい人物の後ろ姿が見えただけでも有難いと感じた。 『ヒデト君の出演だけは守りますから。来週スタジオで会えるのを楽しみにしているとお伝え下さい』 「本当にありがとうございます」 一体ヒデトの何を気に入ってくれたのかと、海棠なんかは不思議に思うが、事務所にとっては今や晃月が命綱とも言えた。 電話を切って、晃月がくれたヒントを頼りに、海棠は過去の番組を調べ始めた。 ヒデトが出演するはずだった番組に、新しく見える名前。それは〈どうしてこんな簡単なことを見逃していたのか〉と思わせるほど、呆気なく気づいてしまうことだった。 今まではどうすればいいのかと対処法ばかりを考えていたので、それを見落としていたのだろう。 繍がオーストリアから帰国するのも来週だった。録画予約した番組にヒデトが出ていないことを知るのも来週まで引き延ばせる。 それで原因がわからないなどといえば、繍の方が荒れてしまうだろう。 海棠は俄かに頭痛を感じながら、番組表に載っている有澤大吾という名前を、彼がそこにいるように鋭い視線で睨みつけた。 ***** *** *** ***** 繍のピアノは蓋を閉じたまま、眠ったように音を奏でなくなった。 疲れているだけ、休ませてあげようと、最初は気遣っていた周囲の人も、それが二週間を越える頃には焦り始めた。 一日弾かなければ二日遅れる。五日弾かなければ指が硬くなる。そう謂われる世界で、いくら天才と騒がれた少年であっても、ピアノに触れない日が続けば、諦めと呆れとが入り混じった溜め息をつく。 かといって、十代も半ばを過ぎた少年に、無理にピアノを弾かせることもできず、いろんな人の様々な説得は、繍の前を通り過ぎていくだけだった。 無為に流れていく時間が一ヶ月を数える頃、誰もがもう諦めた。 戻ってきたとしても、彼が以前のようにピアノを弾けることはないだろうと。 ピアノを見ないように、膝を抱えて背けるように、繍はピアノを忘れようとした。 楽しくない。ピアノは歌ってくれない。 繍の気分は沈みきり、重い心を引きずって、学校へ通っていた。 コンクールがあったり、演奏活動の時には学校を休まなければならない。普通科の高校では公休や補講などの配慮をしてもらえないと、進学を反対されたが、高校だけは普通に行きたいと、無理を押し通した。 元々コンクールも、コンサートにも興味のない繍だったので、真面目に通い、出席日数にも心配はなかった。 「やーだー!」 昼休みの時間、教室のうしろで女子生徒たちが騒いでいた。 MDプレーヤーを持ち込んで、グループでダンスとコーラスの練習をしているようだった。路上ライブのアカペラでテレビ出演を目指すのだと息巻いている。 男子生徒がそれを囃し立てて、観客を交えてのお祭り状態だった。 賑やかなのは気にならないのだが、MDプレーヤーから流れる流行しているらしい歌は、繍にとっては騒音のような不快感を齎す。 余程の音感でなければ聞き逃してしまうような微妙なズレ。大きな声を出せば、声量があると勘違いしている歌声は、自分の喉の方が痛くなるような気がした。 それを彼女たちは、とてもいい歌だと褒め称え、一緒になって歌いだす。まるで不協和音が押し寄せてくるようだった。 聞いていられず、繍は席を立って教室を出ようとした。 「あー、これこれ、ヒデトの新曲!」 女の子の一人が黄色い声を出した。 「ヒデト、ほんっと、かっこいいよね!」 その騒ぎ振りから、今まで以上に下手な歌が流れてくると思った。 MDプレーヤーからはポップな調子の前奏が流れ始める。 教室から一歩を踏み出した繍は、流れてきた歌声に、ふと足を止めた。 MDプレーヤーなので音質は悪かった。しかも彼女たちが騒ぎながらなので、聴き取り難い。 けれどその声は繍の足を止めさせた。 澄んだ歌声は正確に音を捉え、喉を震わせる誤魔化した歌い方ではなく、身体から声が響いてくるようだった。 何より、その声が繍の耳にとても心地好く響いた。 もっとちゃんと聞きたくて、思わずMDプレーヤーの前に駆け寄った。 「海棠君? どうしたの?」 あまりに真剣にプレーヤーを握りしめるように取り付いたものだから、皆は騒ぐのをやめて繍の背中を見た。だから余計に綺麗にその歌が聴けた。 「これ、……この歌を歌ってるの、誰って?」 まるでそこに歌手がいるように視線を外さぬまま、繍は尋ねた。 「ヒデトよ」 邪魔をされた生徒が不愉快そうにだが教えてくれた。 「何ビテトっていう人?」 「ヒデトはヒデトよ。名前だけ」 そんなことも知らないの? と失笑が起こったが、繍の耳にはもう、ヒデトの歌しか聞こえていなかった。 |