HIKARI  −3−



 繍のピアノは彼が中学生を迎える頃には、既に音楽界ではかなりの注目を浴びるほどになっていた。
 本人が望まないにもかかわらず、彼の将来に対する期待は膨らんでいく一方だった。
 どこのコンクールにも出れると滝原は太鼓判を押したが、本人は日本のみならず、海外でのコンクールへの出場も、頑なに拒んでいた。
 出場すれば史上最年少での受賞も夢ではなかっただろうが、こればかりは本人が出たいと思ってピアノの前に座らなければ、演奏として成り立たないために、周りはひたすらに説得するしかなかったが、本人は頑として首を縦に振らなかった。
 どうしてそこまで拒絶するのかと聞いても、弾きたくないの一点張りで、あまりの頑迷さに誰もが残念がりながらも、諦めるしかない状態だった。
 繍はただピアノが好きだっただけだ。
 その音色が自分の指で色んな表情を見せてくれるのが楽しかっただけだ。
 誰かがその音を決めたり、決められた通りに弾くことが嫌だった。そしてそれで優劣をつけられることも。
 父親に連れられて出かけるとピアノを弾かされるのも嫌だった。
 その場にいる人は確かに繍のピアノを褒めてくれるが、一曲を退屈することなく聴いているとはとても思えなかった。
 だんだんと出かけることを億劫がり、人に聴かせることを嫌がるようになった。
 滝原の指導は厳しかったが、それはピアノに対することばかりで、繍に対してコンクールに出ろとか、人前で弾けと強要することはなかったので、繍は滝原のレッスンだけを受けるようになっていた。
 しかしそれを危惧する者が増えていくようになった。
 ピアノ界の至宝を独り占めするなと、滝原に対する風当たりも強くなっていく。
 滝原はそれを気にするような性格ではなかったが、圧力は多方面からかかるようになっていった。
 繍に自由にピアノを弾かせてやりたい。
 ただ単純な願いは誰の胸にもあったはずだが、一日も早く世界的に名前を広めたいという欲望は、じわりじわりと繍の周りを締め付け始めていた。
 その圧力は全く音楽とは関係のない場所、両親や教師たちから絡め取ろうとしていた。
 そしてまだ精神的には未成熟な繍を……苦しめ始めた。
 ただ、ピアノを弾きたいだけ……。
 しかし、聞かせろという要求は高まり、繍は……鍵盤に触れることができなくなっていった。



***** *** *** *****



 ヒデトのテレビ番組出演のキャンセルは、やがて深刻な事態へとなりつつあった。
 代わりのスケジュールを入れようと、出演交渉をしても、いい顔をされない。
 テレビ出演がなくても、ヒデトの知名度が下がるわけではないとは言っても、テレビに映る回数が減れば、人の認識は薄らいでいく。
 ヒデトは間もなく新曲をリリースする予定だった。
 新曲の発売に合わせて、歌番組には出演させたい。ファンなら新曲が出れば、テレビの露出がなくても買ってくれるだろうが、より多くの人に知ってもらうには、やはりテレビで流れることが優先される。
 復帰直後のように、海棠も大谷も新曲のプロモーションのために出演交渉を重ねたが、どこにもやんわりと断られた。
 あの当時ならヒデトの素行が悪くてという理由も考えられたが、今のヒデトの一生懸命さは誰もが評価をし直してくれていたので、それが原因とは思えなかった。
 他に断られるような新しいトラブルもなく、海棠でさえも首を傾げるような状態だった。
 テレビだけだと思っていたが、それはやがて、じわりじわりと他の方面にも広がっていった。
 ラジオもゲスト出演についてはキャンセルが入るようになった。
 CM契約も次期更新について難色を示されては、海棠も本格的に調査に乗り出すしかなかった。
「俺、結構嫌な奴だったもんなぁ」
 暇になったスケジュールの中で、レッスンがいっぱい詰め込めると、虚勢を張っていたヒデトも、歌わせてもらえる場所が減っていくことは辛かった。
 その原因をヒデトは自分の中に見つけようとしていた。
 それで自分を納得させようとしていたのかもしれない。
「英人さん……」
「大丈夫。イベントだって、コンサートだって、色々あるんだから。ちゃんと仕事するって。大谷に心配はかけないからさ」
 笑うヒデトに、大谷は泣き出しそうな顔で首を振る。
「なんだよー。俺にサボってほしいのか? お前って、俺を見つけるの、うまかったもんなー」
「それは、英人さんが、見つけられるところにいてくれたからですよ!」
「はー?」
 何でそうなるとばかりに、ヒデトは驚いて声を上げた。
「英人さんはいつだって、ちゃんと歌える場所では歌ってくれてました。逃げ出すのは……英人さんをちゃんと歌わせてくれない仕事ばかりでした。……そんな仕事ばかりを取ってくる事務所が、私は……」
「いいよ、大谷。ごめん。それ以上言うな」
 ヒデトは慌てて大谷を止めた。
「でも……!」
「仕事は仕事。サボったのは俺で、そんな奴にいい仕事が来なくなるのは当たり前だから」
「英人さん……」
「ほら、行こうぜ。今からギターのレッスンだろう。せめて繍に聴かせられる腕にならないとな」
 しんみりとなりそうな気配に、ヒデトは急いで立ち上がった。
「なぁ……」
 大谷を急かしながら、ヒデトは戸口で心配そうに振り返った。
「なんですか?」
「これって、繍に心配をかけるよな?」
 間もなく帰国する繍に、あまり自分のことで心配をかけたくない。
 日本にいない間のヒデトの出演番組をDVDに撮りためて、飽きずに繰り返し見る繍。隣にヒデトがいても、テレビを見る繍に、ヒデトは嬉しい反面、せっかく一緒にいられる時間は本物を見て欲しいと、自分にやきもちを妬く羽目になる。
 そんな繍はもちろんヒデトのスケジュールを把握している。
「えぇ……、そうですね」
「何とか隠せないかな?」
 大谷は困ったように俯いた。
「無理だと……思います」
 予想できた答えに、ヒデトは天井を振り仰いだ。
「謝るしかないよなぁ」
「英人さんの責任じゃありません」
 力説する大谷の肩をぽんぽんと叩いて、ヒデトは事務所を後にした。

 出て行く二人とは入れ替わりに、海棠が事務所へとやってきた。
 エンブロイダリーの社長は繍だったが、実質的に指揮をとっているのは海棠だった。
 所属しているタレントはヒデトと繍のみである。
 ヒデトのレコーディングやプロモーションに関しては、海棠側が信用のおける代理店に依頼しているので、芸能プロとしては、エンブロイダリーはのんびりとしているほうだと言ってもよかった。
 ヒデトが復帰を果たして、活動が軌道に乗ってからは、何の心配もなくここまでやってこれた。
 それがここにきてのトラブルである。
 しかも原因は全くわからないという難問であった。
 海棠も色々と調べてはいたが、どこも曖昧に言葉を濁すだけだ。
 そしてまだヒデトには伝えていないが、今日も一件のキャンセルがあった。
 海棠の心配していることは、仕事のないことよりも、それによってヒデトが荒れるのではないかということだ。
 大谷は心配ないと断言しているが、一度落ちた人間は、簡単に転ぶと海棠は思っている。今までは芸能界ではなく、父親の会社で勤めていた海棠はそんな人間を何人も見てきた。
 二度落ちた者は救えない。けれどそれを繍は認めないだろう。
 一緒に弟は落としたくない。
 ならば自分はどうすべきかと、海棠は考え込む。
 眉間に皺を寄せ、電話をかけようと手を伸ばした先で、それが先に鳴り始めた。
「エンブロイダリーです」
 海棠が名乗るのを待ちかねて、相手は名前も告げずに用件を話し始めた。
 その内容に海棠の眉間の皺はより深くなっていった。



……次のページへ……