HIKARI  −2−



「えっ、キャンセルですか?」
 事務所からの定時連絡に、大谷はスケジュール帳を見ながら、龍に聞き返した。
『あぁ、さっきプロデューサー直々に電話が入った』
 龍からの電話は、来週のヒデトのテレビ番組出演がキャンセルになったというものだった。
 その日の予定を二重線で消しながら、大谷は表情に苦い思いを浮かばせる。
 これで五件目。
 本来ならテレビ局側からのキャンセルの場合、それに見合うだけの次の仕事が内々に提示されるものだが、どこもまだ「次こそは」というだけで、具体的な仕事は入っていない。
 むしろ言外に過去のヒデトのしでかしたドタキャンやら、エスケイプを匂わせられると、強く出られなかった。
『じゃあ、何かあれば連絡して来い』
「わかりました」
 電話を終え、手帳を閉じて、大谷は深い溜め息をついた。
 復帰してからのヒデトは、何もかもが順調すぎるくらいだった。
 どの曲もよく売れて、ランキングでは1位になるし、ヒデトが出ると視聴率も上がると有り難がられた。
 前よりも歌は格段にうまくなり、何よりヒデト自身の素行が良くなった。
 あんなにもマネージャーを困らせたヒデトはもういない。
 大谷は嬉しく思いながらも、物足りないとすら感じてしまうほどだったのだ。
 毎日が忙しい。忙しいが、前の事務所のように無茶な仕事をエンブロイダリーは入れないので、ヒデトに向いた質の良い仕事を、じっくり取り組める。だから忙しいながらも、遣り甲斐を感じているヒデトは、毎日が充実していた。
 もっと仕事をしたい。いい歌を歌いたい。
 そんなヒデトの望みをエンブロイダリーはしっかりサポートしてくれていた。
 何も心配などなかったところへ、ここにきて急に仕事のキャンセルが相次いだ。
「なーんて顔してんだよ? どうした? 腹でも下したか?」
 誰もが見惚れるような凛々しい顔で、ヒデトはさっくりと下品なことを言った。
 収録から戻ってきたのにも気づかなかった自分を恥じ、大谷は慌てて立ち上がった。
「あっ、すみません、英人さん。今飲み物を入れますね。何がいいですか?」
 ヒデトの喉は何よりも大切なもの。最大限のケアを考えて行動する大谷に、ヒデトは笑いながら『水』と答えた。
 繍がどこかから聞いてきたミネラルウォーターが、今のところヒデトのお気に入りだった。
 繍曰く、どこだかのオペラ歌手が愛用しているという秘蔵のものらしい。確かに、歌ったあとにそれを飲むと、さらりと喉を通っていく感覚が気持ちいい。
「何かあったのか? 難しい顔してたぞ」
 下痢だと言ったのはヒデトのギャグだったらしい。今度は真面目な顔をして尋ねてきたので、隠しても仕方ないことだからと、先ほどのキャンセルの件を伝えた。
「……そっか。まぁ、休みになるんなら嬉しいな。その日なら、滝原先生の予定が空いてるだろ? レッスン頼んどいてくれるか?」
「そうですね。わかりました」
 ヒデトが思ったよりもショックを受けていないと分かって、大谷はほっとする。
 以前のヒデトなら、こんな時は相手に文句を言いに行きかねなかった。そしてそのまま喧嘩をしてしまう。
 そのフォローに大谷は走り回らなければいけなかった。
 それが今では、時間が空けばレッスンに行こうとする。
 大谷から見れば、ヒデトの歌はもう完璧の部類に入ると思えるのだが、ヒデトにしてみれば、まだまだなのらしい。
 どれだけ高みを目指すのかと不安になるくらいだ。
「繍さんがオーストリアから戻られるのは、再来週でしたね」
 ピアノのコンサートとコンクールのために渡欧している繍とは、毎日のように連絡を取り合っているヒデトだが、やはり会えないことは寂しいのだろう。
 帰国する話をすると、途端にご機嫌になってしまう。
「俺も繍のコンサート、聞きたかったんだよなぁ」
「繍さんは英人さんの歌を聴きたかったでしょうね」
 お互いの音楽を尊敬し合い、大切にし合う二人の姿を見ているのが大谷は好きだった。
「仕事のキャンセルの件、心配させちまうかなー。ばれないようにできないかな」
 ヒデトの歌を大切にし、仕事に関してはシビアな繍は、このキャンセル続きをどう判断するだろうか。
「エンブロイダリーの社長さんですから、隠し通せる物ではないかと」
「だよなぁ……」
 ただの予定変更、もしくは自分の過去に原因があると思っているヒデトは、このキャンセル続きに関しては、仕方のないことだと諦めている節がある。
 それで納得しようとしているだけかもしれないが、不安に襲われて自信を失くすよりは、前向きになろうと努力しているヒデトを最大限にサポートしようと、大谷は再決意する。
 龍からの電話では、さすがにこれだけ続くのはおかしいからと、何か気づいたことがあれば報告するようにと言われた。龍の方でも、何か他に原因があるのではないかと調査をすると話していた。
 確かに調査も必要だろうが、大谷にとっては、目の前にいる英人が歌いたいように歌える環境というほうが大切だった。
 再び収録に向かったヒデトを送り出してから、レッスン時間の確認のために滝原へと電話をかけた。



***** *** *** *****



 ピアノをおもちゃにするつもりかと訊かれ、繍は滝原の前で棒立ちになった。
 もちろんそんなつもりはない。
 ピアノは大切な存在だった。
 大切で大切で、毎日ピアノのそばで眠りたいくらいだった。
 ただ、誰かに強要されて弾かされるのが嫌だったのだ。
 そんな弾き方をしたくなかった。
 誰もが自分をピアニストへと追い立てているような気がして、それが嫌だった。
 自分の好きなときに、好きなようにピアノを歌わせてあげたい。大切だからこそ、ピアニストという道は避けたくなった。
 けれど……そう思った自分の言動は、確かにピアノをおもちゃと同様にしていると思われるものだったかもしれないと気がついた。
「そんなつもり、ありません」
 そうじゃないんだと分かって欲しかった。
 滝原はふんと笑って、ピアノの蓋を開けた。
 ぽろんぽろんと、たどたどしい指使いで、音を一つずつ拾っていく。
 この人はピアノの先生じゃないんだろうか?
 てっきり自分をピアニストにしたい父親の差し金で派遣されたピアノ教師だと思っていた。
「何の曲が好きだ?」
 滝原はようやく椅子に座り、繍に向かって尋ねた。とてもピアニストとは思えない態度と言葉遣いだと思った。
「ショパンの革命」
 今のところ一番好きな曲を言ってみた。
 毎日、一度は弾く曲だ。
「顔に似合わず、派手な曲が好きなんだな」
 にやりと笑うと滝原の指が鍵盤の上で踊った。
 力強い音が繍を襲った。
 音は一つ一つが繍を襲うように聞こえた。
 圧倒的な圧力を感じる音と曲だった。
 それまで楽しくピアノを弾いてきた繍にとって、その音の渦は驚異的ですらあった。
 飲み込まれる! そう感じて蹲った小さな繍に、滝原は一曲を弾き終えると、音もなく立ち上がり、再び繍の前に立った。
「ピアノ君に何を語りかけた?」
 その時に答えた言葉が、のちのち自分を苦しめることになるとも思わずに、繍はポツリともらした。
「……聴けと……言われた……」
 繍の答えを聞いて滝原は勝ち誇ったように笑った。
「そう、俺はそう思って、お前に聴かせたんだ」
 繍は恐る恐る顔を上げて、自分の前に立つピアニストを見た。
 酷いことを平気で言うと思ったピアニストは、けれど思いのほか優しい笑顔で自分を見ていた。
 力強く鍵盤を叩いて手が差し出される。
 その手に捕まって、小さな繍は立ち上がった。これから過酷な道程が続くとも知らずに……。



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