HIKARI  −1−



 歩き始めたばかりの子供は、母親の手から床に降ろされると、両手を突き出すようにバランスをとりながら、よちよちとピアノに向かって歩き始めた。
「繍くん、どこへいくのー?」
 母親が微笑みながら、その後を追う。子供が転んでもすぐに抱きとめられるように。
 子供はピアノの椅子に手を着き、もう片方の手を伸ばせるだけ伸ばして、鍵盤に触れようとする。
 ぎりぎりで届いた指先が、ポロンと優しい音を響かせる。
「あー、あー」
「うふふ、歌っているつもりなのかしら」
 まだ喋れない子供は、ポロンポロンと指先でピアノに触れ、愛らしい声を出す。
「繍くんはピアノが好きなのねー」
 母親はあまりピアノが得意ではなかった。
 小さな頃から習わせられて、ある程度は弾けるようになったものの、嗜む程度の腕に落ち着いてしまっている。
 それでも嫁入り道具にと自分のピアノを持たせてもらった。
 子供に弾いて聞かせるのはいつも、童謡や子守唄がほとんどだ。
 長男の天や次男の龍、長女の樹里はピアノにあまり興味を示さなかった。
 それなのに、この歩き始めたばかりの繍が、おもちゃの車や積み木よりも興味を示したのがピアノだった。
 母親は微笑みながら、繍を膝に抱いてピアノの前に座った。
 繍は喚起の声を上げて、ピアノを叩く。
 子供は闇雲に鍵盤をハンバン叩くのではなく、ポロンポロンとでたらめではあるが音を一つずつ辿っていく。
「まぁ、素質があるのかしら。繍くん、ピアノを弾けるようになりたい?」
 母親が尋ねると、膝の上の子供は手をパチパチと叩いた。

 はじめてピアノを習ったのは、3歳の誕生日だった。
 家にピアノの先生がやってきた。
 若い女性のピアノ教師は、母親が昔習っていたピアノ講師の知り合いだった。
 彼女は繍が5歳になる前に、自分の音大の教師を紹介した。
 自分ではこの先、繍の才能を引き出せないと感じたからだと語った。
 音大の教師は半信半疑でやってきたが、わずか5歳の繍の才能に目を見張った。
 是非自分に預けてくれと請われ、母親は戸惑った。
 繍はまだ5歳である。確かにピアノが好きで、上手に弾くとは思っていたが、そんな才能があるとは思えない。
 まして、この年からピアノ漬けで過ごさせることにも抵抗があった。
「普通に教えていただけるだけでいいんですけれど」
 母親が申し訳なさそうに話すと、音大の教師は信じられないと首を振った。
「ピアニストになさるおつもりはないんですか?」
「この子が大きくなってそう望めば……」
 それからでは遅いのだと教師は力説した。
 最悪10歳までには決めるようにと言われ、母親ははぁと生返事をする。
 その横で繍は楽しそうにピアノを弾いている。なんの屈託もなさそうに。
 指が届かない和音のところに来ると、ちょっとむっとしたように鍵盤を見つめ、一つの音を外して弾き続ける。
「お母様、この曲がだいたい普通で小学校卒業の子が弾く曲だとご存知ですか?」
 それはわかるような気がした。自分がこのあたりで才能の限界を感じ、ポピュラーピアノを選択したのだ。
「和音が弾けるようになり、足がペダルに届くようになったときが恐ろしいです」
 率直な感想を残し、その教師は繍の足がペダルに届くようになったとき、繍の指導を自分の教授に委ねたのだった。

「ピアニストにはなりたくない」
 最悪ここまでには決めるようにといわれた10歳で、繍は両親にきっぱりと言い切った。
 その頃には繍についている二人のピアノ講師だけでなく、誰もが繍はピアニストへの道を歩くものと思い込んでいた。
 そこへの爆弾発言とも言える重い一言だった。
 けれど両親は慌てることなく、周りの慰留も振り切って、繍のピアノ講師二人を辞めさせた。
 ピアノを習わなくなった繍だが、毎日ピアノの前に座っていた。
 あまりにも天才と騒がれたことが繍の重荷になったのかと、まだピアノを愛している繍に、母親は一人の男性を家に招いた。
「ピアノは君に何を語りかける?」
 滝原と名乗った壮年のピアニストは、まだ小学生の繍に対して、難しすぎる質問を放った。
 答えられずにいる繍に向かって、滝原はなおも言った。
「君は、そのピアノをただのおもちゃにするつもりか?」



***** *** *** *****



 通路を譲り、「おはようございます」と頭を下げたヒデトを、その女性は完全に無視をした。
 ヒデトはその無視にも耐え、テレビ局の重役やらプロデューサーたちお付きをゾロゾロと従えた彼女が通り過ぎるまで、静かに頭を下げ続けた。
 芸名を有澤華代といい、大物演歌歌手として歌唱力も名声もトップに登りつめ、業界の中で君臨している彼女に逆らえる業界人はいないだろう。
 きつい香水の香りがヒデトの前を通り過ぎる。
 ヒデトが頭を戻そうとした時、その声は辺りを憚らず聞こえてきた。
「まったく、芸能界も甘いわね。ちょっと顔がいいからって、犯罪者をカムバックさせるなんて。私から言わせれば、声を張り上げているだけの下手くそなのに」
 聞こえよがしの声に、ぎゅっと手を握りしめたのはヒデトではなく、マネージャーの大谷の方だった。
 ヒデトのこととなると冷静さを欠き、抗議の声を上げようと一歩を出しかけた大谷を引きとめたのは他ならぬヒデトだった。
「止せ」
「でもっ、ヒデトさんっ。ヒデトさんは犯罪者なんかじゃありません」
 涙でも流しそうな大谷を、ヒデトが苦笑しながら宥める。
「そんなこと抗議にいったら、あの人はこう言うぞ。『あら、私は貴方の名前など出していませんよ。それとも心当たりがおありなのかしら?』ってな。沈黙は金なり。今は耐えるしかないよ」
 ヒデトに窘められて、大谷はしゅんとして項垂れた。
 ヒデトは彼女を怒らせた記憶などはないが、過去のヒデトはとても褒められた経歴ではないことは自覚している。
「すみません、私が冷静になせなければならないのに」
「いいって。お前がいてくれるから、俺は前の失敗はしちゃいけないって、思えるんだから。だから、今のお前を引き止めたのは、お前自身なんだよ。ありがとうな」
「ヒデトさんっ」
 感激して目がウルウルになる大谷の肩を叩いて、ヒデトは自分の出演する番組のスタジオに向かって歩き始めた。
 その後ろ姿を有澤華代が睨みつけていることなど、二人は知らなかった。



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