Glory −1−
歌手のヒデトが所属している「エンブロイダリー」は、業界では新規参入の小さな会社だ。 その小さな事務所を支えているのは、海棠製薬という大手の製薬会社である。 海棠製薬の社長には四人の子供があり、長男の天、次男の龍は海棠製薬に勤めているが、三男のシュウはピアニストとなった。 末っ子で唯一の娘である樹里はまだ高校生だ。 シュウが芸術家として大きなスランプに陥った時、ピアノへと戻る光を投げかけたのがヒデトであった。 しかし、シュウがピアノへと戻った直後、ヒデトのほうが引退を余儀なくされるような事態になっていた。 傲慢な性格が災いし仕事が極端に減り、その焦りをアルコールで誤魔化し、ヒデトの歌える場所はどこにもない状態だったのだ。 シュウはヒデトが立ち直るのを信じ、エンブロイダリーを設立し、自らが懸命に世話を焼くことによって、歌手として復帰させた。 共倒れになりかねない計画は、シュウの献身によって成功した。 ヒデトもシュウに応えるために必死で努力をして、歌手としてまたトップへと昇り詰めることができた。 エンブロイダリーはヒデトのためだけに設立された事務所であったが、海棠は前々からシュウをマネージメントできる部門を作ろうとしていたこともあり、歌手のヒデト、ピアニストのシュウがいるという、異色の組み合わせのタレントを抱えるプロダクションとなっていた。 そこに「個人事務所は面倒だったから俺も混ぜろ」というピアニストの滝原が加わり、他にも海棠製薬が芸術協賛事業に取り組んでいた経緯から、数人の音楽家を所属させたために、事務所の中ではヒデトのほうが浮いた存在になりつつあった。 ヒデトの復帰も落ち着き、所属タレントも増えた時点から、名目上の社長であった次男の龍はヒデトのチーフマネージャーとなり、新たに社長として芸術協賛事業の部長であった、泉という男が社長となった。 その時に事務所も今までの貸しビルの一室から、海棠製薬本社に近い場所へと移転した。 新しい事務所は、5階建てながらも自社ビルで、レッスンルームも備えられており、音楽事務所としては申し分のないものとなっていた。 「英人さん、大丈夫ですか?」 エンブロイダリーのヒデトに与えられた個室の中で、ヒデトは怒りを抑えるために深呼吸を繰り返し、拳を握りしめて立っていた。 マネージャーの大谷が心配そうにその背中を見つめる。 大谷はヒデトのデビュー時からのマネージャーで、ヒデトがエンブロイダリーに移転した時も一緒に来てくれた。 立ち直る前は酷い仕打ちをしたヒデトを恨むことなく、自分の努力が足らなかったからヒデトが荒れたのだと言ってしまうような、お人好しなマネージャーだが、ヒデトの実力については誰より信頼しており、ファンよりもヒデトを信奉しているようなマネージャーである。 海棠龍はヒデトのチーフマネージャーではあるが、実際には海棠製薬の営業部長も勤めており、マネージャーとして実質的に動いているのは大谷だ。 龍はどちらかというと、ヒデトにオファーされる仕事を選別している、いわゆるプロデューサー的な立場であった。 「……気にしてない」 ヒデトは腹立ちを堪えるように答えたが、大谷はその言葉を鵜呑みにはしてくれなかった。 「龍さんに連絡を取りましょうか」 「止めろよ!」 怒鳴ったヒデトに対して大谷が首を竦めるのを見て、ヒデトは気まずげに顔をそむけた。 「悪い……。駄目だな、俺」 「いえ、私が悪いです……」 ヒデトはソファに座り込み、天井を仰ぎ見て、腕で目元を隠した。 「海棠さんには言うなよ。子供みたいな告げ口するな。俺が我慢していればいいことなんだから」 怒鳴らないように、気にしていないように、穏やかな話し方をするように気をつけたが、かなり無理があるのは自分でも分かっていた。 仕事やレッスンのないときは、なるべく事務所に顔を出すようにしていた。 今日は午後からギターのレッスンに行き、終わってから事務所にやってきた。 事務所のエレベーターを待っていたら、降りてきた男とすれ違った。 名前ははっきり覚えていなかったが、ピアニストだということはわかっていた。 降りる人に場所を譲り、乗り込もうとした背中に声をかけられた。 「君がヒデトっていう歌手だよね」 大谷は早く「閉」のボタンを押せば良かったと後悔した。「開」のボタンを押したまま、次の言葉を待ってしまった。 「そうですが」 「ポップスが音楽だなんて思ってないよね」 言われた意味を一瞬考え込んでしまい、相手に次の言葉を言わせる隙を作ってしまった。 「下らない音の羅列に、この事務所も余分なお金を注ぎ込むよね。ま、シュウ君の税金対策なんだろうけど」 大谷が顔を強張らせて一歩出ようとしたのを止めたのはヒデトだった。慌ててドアを閉じた。 「……英人さん!」 大谷がどうして止めたのだと、詰るように名前を呼んだ。 そのまま部屋まで黙り込んだままやってきたのだった。 龍が顔を出す時間が減って、周りはヒデトを疎んじ始めている。 クラシックこそ本当の音楽で、ポップスなどは音楽ではないという、偏った考え方の音楽家がいるのは知っていたが、この事務所にそんな人間が紛れ込んでいるとは思いもよらなかったのだ。 「繍さんが帰ってくれば……」 「まだ2週間も先だけどな」 ヒデトは苦々しく笑った。 以前、龍が「繍は一年の半分は海外だ」と言い、シュウは「そんなには行かないよ」と反論したが、龍の言葉があながち嘘ではなかったとわかったのはすぐだ。 今は一ヶ月の予定でヨーロッパに行ってしまっている。 帰国はまだまだだ。 二人ともなるべく連絡を取るようにしているが、時差や仕事の都合上、三日に一度喋れればいいほうである。 こんなことがあったなどと、シュウに言えるはずもない。 「離れてるって……こんなことなんだよな」 言えない事が増え、遠慮が先になって、上辺だけの近況報告が続く。 愛してるとは言っても、温もりは伝わらない。 少しずつ……ほんの少しずつ、気持ちまで離れていくようで辛かった。 >>次のページ………… |