最悪の気分で迎えた二日目。
 グラススキーに出かけるみんなを見送って、春日は部屋でふて寝を決めこんでいた。二日酔いのため頭痛がひどく、自分の吐く息で人を酔わせられるような気さえする。
 フロントで貰った薬を飲んで、昼すぎまで眠ると、ようやく人心地ついてきた。風呂に浸かってさっぱりすると、スキーにいけばよかったと思う自分を、現金な奴だと笑う。
 仲間たちは夕飯まで帰ってこないのだろう。かなり迷った末に、春日は慎吾に、昨日のことを謝っておこうと決めた。慎吾に冷たくされて、もうここへ来ることはないだろうと思ったから、去りぎわぐらい、きちんとさよならをしたかった。
 散歩がてらという名目をつけて、春日はゆっくり温室の周りを巡る。正八角形の温室は、中心部を円のように取り巻く径を作り、熱帯の花々を競わせている。
 わざわざ遠回りして、入り口から一番遠い角を回ろうとしたとき、春日の目の端に、それは映った。
 ちょうど陽が半分沈み、辺りを薄闇に染めていく頃。温室のガラスも紫色に染まっている。
 …………蝶?
 まさか、温室の中に蝶がいる?
 長く尖った葉の向こうで、蝶がひらひらと舞っているように見えた。
 温室の中に蝶がいたとしても、不思議ではないかもしれない。でも、今までに何度か温室の中に入っているが、蝶など見たことはなかった。それに、こんな夕暮に蝶が?
 まさかと思いながら、春日はガラスに顔を近づけ、そっと中の様子をうかがった。
 じっと目を凝らすと、白い蝶だとばかり思っていたものの正体が、はっきりと見えてくる。
 慎吾が植物の根元に座り、何かを語りかけている。慎吾の両手が、薄闇の中、艶やかに翻る。
 慎吾の両手が蝶に見えたのはいい。それはいい。
 だとすると自分があの夜見たものは?
 あの綺麗な両手を見たんじゃなかったか? それは一体何を意味するのだろう?
 慎吾は目に見えない、温室の向こうにある空に向かって、語りかけていた。
 手話をもっと勉強してくればよかったと後悔した。手話の本を買っただけでは、実践に何の役にもたたないと痛感する。
 慎吾の表情から、彼が今、自分の心の中にある、つらい思いを吐き出しているのだと察することができる。だが、ほとんど意味がわからない。
 自分のことを醜いといった慎吾。
 何を根拠にそういったのだろう。
 遭難の夜に見た蝶と、今目の前に見ている蝶とは、同じじゃないのだろうか。だとすれば、それは何を意味する?
 心臓がガンガンと大きな音をたてている。
 昨日感じた違和感が、それではっきりするのではないか?
 慎吾が描いた絵と、真理子だけが知っていたこの少年のこと。
 春日は逸る気持ちを苦労して押さえ、入り口に回り、深呼吸してからドアを開けた。
 慎吾がはっと息を詰めるのがわかった。室内の電気を探してつけてやる。
「見つけた」
 慎吾が木陰から姿を見せると、春日は呟くように、慎吾に言う。
「見つけたよ、慎吾。俺を助けてくれたのは、本当は慎吾なんだろ?」
「春日くん!」
 慎吾に歩み寄ろうとする春日を、真理子の鋭い声が引き止めた。
「春日くん、もう食事の時間よ」
 いつ戻ってきたのか、真理子が入り口に立ち、春日を必死の形相で見つめている。
「先に食べててくれないかな。大切な話があるんだ」
 それでも真理子は動かなかった。
「早く行きましょうよ。最後の夜なのよ? 乾杯しようって、みんな待ってるわ」
「昨日もしたじゃないか。いいよ、俺は」
 春日は慎吾に背を向けていて気づかなかったが、慎吾は真理子の口の動きを読み取ったのだろう。春日の横を擦り抜け、温室を出ていこうとした。
「待って、話があるんだ」
 慎吾の腕をつかみ、彼を引き止めた。
「どうしてその子にそんなにかまうの?」
「きみこそ、どうして慎吾の耳のこと、知ってたんだ? 他の奴らは知らなかったのに」
 さぐるように睨み合う二人。慎吾は春日の腕から逃げ出そうともがいている。だが、彼は逃がすまいと手に力をこめる。
「大島さん、もしかして、慎吾に何か言ったか? 昨日から慎吾は、きみを見ると逃げ出そうとする。きみとは、面識もないはずなのに」
 問い詰められて、真理子は顔を背け、唇を強く噛んだ。しばらくそうしていたが、春日が一歩踏み出すと、急に目を閉じ、辛そうに表情を歪ませた。
「私は、春日くんがその子に対して優しくする気持ち、わからないの。どうして会社を遅刻してまで、その子を見送ったりしたの?」
「見てたのか?」
「ええ。一度電車を乗り継いだでしょ? すれ違ったのよ。とてもびっくりしたわ。春日くんを追ってくるなんて、思いもしなかったから」
 慎吾は真理子の言っていることを読み取れないようだった。不安気に春日と真理子を見比べ、それでもまだ逃げ出そうとする。
「あのあとすぐ手紙を書いたの。これ以上、春日くんの同情を引く真似はよしてって」
「何だって!」
 春日の叫びが慎吾にも伝わったのか、びくりと身体を震わせる。真理子はもう駄目だというように、目を閉じて、彼の怒気を拒否しているようだ。
「同情じゃないって言えるの?」
 春日は慎吾を振り返った。
「俺が同情でここへ来たと思ったのか?」
 慎吾は怯えきっているのか、目を大きく見開いたまま、返事をしようとしなかった。
「彼女がどんな手紙を出したのか詳しく知らないけれど、俺は自分の意志でここに来た。慎吾に会いたかったからだ。慎吾が東京で残したメッセージをもう一度確かめたくて、それに返事をしたくてやってきた。同情なんかじゃない」
「絶対だって、言い切れるの?」
 真理子は震える声で訊く。彼女自身、春日の答えを、知りながら。
「同情じゃないって、断言できる」
 春日は慎吾に口元を見せながら話す。
「慎吾と言葉を交わすのに、不自由だと思ったことはない。むしろ楽しかった。慎吾が書いて俺を見て、俺が書いて慎吾を見る。そんな豊かで贅沢な会話、俺は今まで慎吾としかしたことがないよ。もっと、もっと、言葉を交わしたい。もっと慎吾のことを知りたいんだ」
 慎吾は弱々しく首を振った。どうすれば信じてもらえるのだろう。
 すると、慎吾がつかまれていないほうの手を伸ばし、自分をつかむ春日の腕に、指で文字をなぞり始めた。
『ぼくはみにくいから』
 そんな文字を綴る慎吾の手を、春日はついつかんでしまう。思わず両手で慎吾をおさえこむ形になってしまう。
「どうして、醜いなんて思う?」
 両手を束縛されて、慎吾は文字を綴れなくなってしまう。
「どうしてそんなことを思うのか、逃げずに教えてくれるか?」
 相手が頷いたので、春日は両手を離してやる。細い手首が赤くなり、かなり痛そうだ。
「ごめんな」
 謝りながら、地面に落ちたスケッチブックを渡してやる。慎吾は新しいページを開いて書き始める。
『その人が春日さんの近くにいると、とても嫌なものが心の中にできてしまう。その人がいなければいいのにと思ってしまう。だからそんなとき、僕はとても醜い姿をしているんです。その醜い姿を、春日さんに見られたくない。』
 春日はそれを読むと、素早く閉じてやった。真理子の目には触れないように。
「慎吾は醜くなんかない。俺はそんな慎吾も見ていたい。あとでその答を教えるから、俺を信じてて」
 慎吾は小さく頷いた。
「それより、二人にもう一つだけ、確かめたいことがある」
 春日は落ち着いて二人を交互に見てから、話し始める。
「俺は見たんだ。意識が朦朧としていたとき、慎吾の手話を。それを蝶だと間違えたんだ。違うか?」
 真理子は既に予測していたのか、諦めた表情で春日を見ている。
「慎吾、あの夜、ゲレンデにいただろ? 帰ったのは俺より後か? 先か?」
 慎吾は驚いて、春日を凝視している。
「どっちか俺に教えてくれよ。俺を助けたのは、本当は、慎吾なんだろ?」
「だったらどうだっていうの? 貴方は私が助けたと思っていたときから既に、その子を選んでいたじゃない。男の子なのに!」
 それが答えなのか。春日はようやく気持ちの落ち着ける場所に辿り着いたような、到達感を味わっていた。
 真理子に感謝にする気持ちの裏側に、常に慎吾の存在を意識していた。あの夜のことを思えば、真理子のことより、まず慎吾を思い出していた。その原因は、混濁の中に落ちる寸前、春日の魂が慎吾をとらえていたからだ。
「きみには感謝してる。本当に感謝しているんだ。だけど」
「感謝以上の気持ちは持てないのね?」
 真理子はひとすじ涙をこぼした。
「ごめん」
「謝ってもらわなくてもいいわ。春日くんを助けだしたのは、間違いなく、その子なんだもの」





 真理子は涙を見せはしたものの、比較的落ち着いた様子で話し始めた。それは当事者でありながら春日の知らない、真理子と慎吾だけが知る、衝撃の事実だった。
 春日が戻らず、みんなは必死の捜索を始める。真理子たち女性はホテルに待機するようにいわれていたが、いてもたってもいられず、一人抜け出し、ゲレンデへの道をたどり始める。
 何人もの行き交った足跡は見られたが、他に何も手がかりがないと思ったとき、森の奥に、揺れる人影を見つける。
 誰かが、何か大きなものを、引きずってきているようだ。
「誰? 誰かいるの?」
 懐中電灯を向けると、光の中に浮かびあがった人は、しきりに両手を振り回しているように見える。何をしているのかわからず、一生懸命彼が差す足元を照らしたとき、見覚えのあるスキーウェアが光る。
「春日くん!」
 駆け寄ると、春日はぐったりしているが、命に別状はない様子だ。
「誰か呼んできて!」
 春日を引きずってきた人は、意外なことにとても若い。真理子の叫びが聞こえなかったのか、またしきりに両手を動かしている。
「聞こえないの?」
 真理子の問いに頷く。聞こえなくても、こちらのいうことは理解しているようだ。
「誰か、呼んでこれる?」
 頷いて走り去る背中を見送って、真理子はどうしようか迷う。
 立っているだけで、足元から凍ってくるような感じがする。既に両手の感覚も怪しくなっている。
 雪の上に横たえられた春日のことが気になる。このままでは身体が冷えていく一方なのではないか。
 先程の少年が人を呼んで戻ってくるまでに、どれほど時間がかかるかわからない。
 真理子は意を決して、春日の脇に手を差し入れ、頭のほうから、彼をひっぱる。春日の重さのためか、雪の抵抗のためか、なかなか進まない。しまいには汗をかきながら、彼を引きずっていく。喋ることもできずに荒い息を繰り返し、とにかく必死で運ぶ。
 もう限界だと思ったとき、人の呼ぶ声がする。
「ここよー!」
 ……そして真理子はヒロインになった。





「きみも、俺を助けてくれたんだ。それは間違いないよ」
 春日は一人の人にとらわれて、真理子の努力も顧みなかった自分を恥じた。
「もう、いいわよ。正々堂々と勝負をしなかった私が悪いんだもの。春日くんが入院していたとき、毎日その子がお見舞いにきていたと聞いて、とても恐かったの。助けだしたのが私じゃないってばらされるんじゃないかって。その子が東京に出てきたのを見たときも、まさかそんな行動力があるとは思わなかったから焦ったわ。その子、唇の動きでこっちの言ってること、わかるのよね?」
 春日が「ああ」と返事をすると、真理子は慎吾の前に立って話し始める。
「さっき、自分のこと醜いって書いたのでしょう? それはね、嫉妬っていう感情なの。私も貴方に嫉妬したのよ。だからあんな手紙を書いたの。でも、私は貴方に謝らないわ。春日くんにとって、貴方の嫉妬は少しも醜くないの。どうしてだかは、自分で訊いてね。私の嫉妬は彼にとって迷惑なだけなの。だから私のほうこそ醜いのよ。そんな自分はもう嫌。応援はしないけど邪魔もしないから、幸せになってね」
 真理子はそれだけを言うと、温室から出ていった。なるほど、温室の中にいると、一瞬冷ややかな空気が流れ、出入りがあったことはよくわかる。
 慎吾は茫然と真理子を見送っていたが、背後から肩をつかまれ振り向く。
「何か彼女に全部言われてしまったような感じがするけれど、俺も慎吾を醜いなんて思ってない。それはね、慎吾を好きだから、慎吾が彼女に対して嫉妬してくれたんなら、嬉しいと思う」
 慎吾はスケッチブックを開いた。
『僕はいつも聞くことのできる耳がほしいと思っていました。春日さんと出会って、あなたの声を聴きたいと切望しました。僕はそれを望むだけなら許されると思っていたんです。なのに、春日さんがあの人と一緒にいるのだと思うと、もうこの耳が聞こえなくていいから、あなたの心がほしいと思ったんです。今までのただ一つの望みと引き換えなら許されてもいいじゃないかって。それが許されないのを恨んだんです。自分勝手で、醜い欲望ばかりが出てくる。こんな僕は恐い。あなたに見られたくない。』
 長い告白を、春日は一文字も洩らさぬようにかみしめる。
 これほどまでに胸に痛い告白をかつて聞いたことがあっただろうか。
 同情なんかではなく、悩まなくてもいいことで自分を苦しめる慎吾が可哀想になる。それ以上に、この純粋な魂が愛しくてたまらない。
「慎吾は醜くなんかない。俺なんて、慎吾が望む当たり前のこと以上に、もっと物欲的で、自分の心が足りないのを見ぬふりをして、満たされないことに不満を感じてる愚か者だ」
 でも、と書きかけるのを、紙の上に手を乗せてやめさせる。
「だったら、どうして、俺を助けたことを教えなかった? 手紙が来ていたって、慎吾は彼女より優位に立てたんだよ?」
『僕は男で、あの人は女で、それだけでもう負けだと思いました。それに、どちらが助けたかなんて、僕にはどっちでもよかったんです。入院してしまった春日さんと話せるようになったから。』
「男とか女とか、それはもう考えるのはよそう。慎吾は俺を見つけてくれたし、俺も慎吾を好きだから。性別は勝ち負けじゃないって、俺も気がついた」
 春日は興奮する気持ちを必死で落ち着かせるよう努力した。怒鳴りたくなるのを堪え、慎吾が読み取りやすいように、丁寧に話すように心がける。
 いま慎吾をつかまえなければ、二度とつかまえられないと、それだけはよくわかった。
 たとえつかまえられなかっとしても、慎吾の気持ちに根づきつつある、自分を厭う気持ちだけは、絶対に消してやらなければならない。それは自分の義務でもあると思った。
「どちらが俺を助けてくれたか、彼女はそれを隠そうとして、慎吾はどっちでもいいという。きみは自分を誉めてやるべきだ」
『誉められることなんて、僕には何一つないんです。春日さんを助けるのが前後したというだけで、僕とあの人は同じことをしたんですから。』 
 春日は心の中に優しい燈火が灯るのを感じた。この少年に出会えなければ、きっと、一生持てなかったものかもしれない。
「慎吾のそんな純粋なところが好きだという俺まで、醜いって思うか?」
 慎吾は驚いて首を横に振る。
「もっと欲張っていいんだ。何もかも欲しいって言っていいんだ。きみが聞くことのできる耳が欲しいと思うのは、空気を吸いたいというのと同じくらい、ごく当たり前のことなんだ。慎吾にはその権利があるし、誰もそれを醜いなんて思わない。恨むなら、今まできみの気持ちに気づかない俺を恨んでいい。俺が何でもあげるから。俺の耳も、俺の気持ちも、何でも慎吾のためにあるから。引き換えに自分の希望を捨てなくていいから。頼むから」
 慎吾はボロボロと泣きながら、それでも一生懸命、春日の口元を見つめていた。一言も聞き漏らさないように。
「醜くなんてない。自分を恐がらなくてもいい。慎吾は自分を綺麗だと思ってほしい。そんなきみを俺に見せてほしい。俺が頼むから! 俺は、俺のために嫉妬してくれる慎吾を見ていたい。それ以上に、俺に笑いかけてくれる慎吾も、見ていたいんだ」
 春日は痛いほどの視線で、目の前で震える相手を見つめていたが、一気にそこまで話すと、気持ちを落ち着かせるように大きな息をくりかえした。
「ずっと慎吾のことを考えていた。三日間、またいろんなこと話し合って、自分の気持ちをはっきりさせて、慎吾の気持ちを訊いて、約束して帰ろうって思ってた」
 やくそく、と慎吾はひらがなでようやく書いた。泣きすぎで、文字が震えている。
「慎吾が好きだ。必ず迎えにくる」
『こんなぼくでいいんですか?』
 文字を綴って見上げてくる瞳が、不安と期待に揺れている。
「いまある慎吾が、そっくりそのまま好きなんだ。どんな慎吾でもなく、ね」
 春日は覚えている手話の中で、唯一実践できる文章を、慎吾にやってみせる。
 自分を指差し、そして慎吾を指差し、両手を下に向け左の甲を右手で円を描くように数度撫でる。
《私は、貴方を、愛しています》
 慎吾は目に涙をためて、同じ動作で春日に答える。
《私は、貴方を、愛しています》
 そのまま慎吾を、自分の胸に抱き寄せる。
 スケッチブックが二人の足元に、パタリと落ちた。

>>次のページ>>