震える背中が愛しくて、そうっと宥めるように叩くと、しゃくり上げる微かな音がした。
 惜しみながら身体を離し、慎吾の頬を両手ではさみ上むかせると、美しい涙がいく筋も春日の手を濡らす。
「綺麗な涙だね」
 首を振ろうとするが、春日の両手に阻まれて、それはできない。
「巻きこんでしまってごめん。いろいろ辛かっただろ?」
 温室の中にいて、緑に溶けこむほどピュアな心の少年を、嫉妬という感情に巻きこんで泣かせてしまった。それを思うと、春日は罪悪感に打ち拉がれる。それでも、目の前のこの美しい魂を手に入れたかった。
「好きなんだ」
 …………僕も。
 慎吾の瞳の中に、好意の色を勝手に読み取って、春日は顔を寄せる。
 初めて触れた慎吾の唇は、やっぱり、涙の味がした。
 軽く押しつけるようにして離すと、慎吾は真っ赤な顔をして、新たな涙をポロポロこぼす。
「もしかして、キスも初めて?」
 不粋な問いかけに、相手は深く俯いて、赤く染まった顔を隠す。冬より少しのびた髪に、すっぽりと綺麗な顔を隠されてしまう。
「初めての夜だけど、最後の夜には絶対しない」
 上むかせ、自分の誓いを教えてやる。
 慎吾は睫毛を震わせ、また涙を一雫こぼした。
 春日は温室の灯りを消し、中央の大きなパームツリーの根元と、葉の繁った植物の間に慎吾を抱いて運んだ。
 抱き上げると華奢な身体はやはり軽くて、壊しはしないかと心配になってしまう。
 不安を感じさせないように微笑むと、慎吾もわずかに笑った。
 シャツを脱いで、慎吾の下に敷いてやる。パームツリーの根元は人工芝に覆われていたが、慎吾の肌を少しでも傷つけたくなかった。
「ここで慎吾を抱きたいんだ。ここ以外、もっといい場所が思いつかなくて」
 慎吾の作り上げた温室は、とても彼らしくて、心が柔らかくなっていくような、浮遊感に似た心地好さがある。
 慎吾はうんと頷いて、覚悟を決めたように目蓋を閉じた。
 頬を撫ぜ、口づける。ここにいるせいだろうか、背徳感はなく、神聖な気分になる。
 この子をこの手に抱きしめることができて、本当に良かった。見失わずに、ここまでこれて、本当に良かった。
 唇を軽く吸い、舐めていく。慎吾が震えるように、唇を薄く開いていく。
 舌を差し入れ、口内を辿る。ふと、自分の唇に違和感のある障害物を感じて、舌で探ると、突起のあるかたいものに触れた。
 その正体に思い当り、悪戯心をおこして、それだけをしつこく舐める。
 慎吾の背中が反っていく。八重歯がそんなに感じるものだとは思わなかった。
 新鮮な感動を覚えて、つい合わせた唇の間に、親指を差し入れ、唇と歯の間、滑らかな葉の表面、尖った歯の先、すべてを舌と指で擦る。
 慎吾は苦しそうに、春日の酷い手を退けようと抗った。
 執拗にそこだけを舌で舐め、指で撫でると、完全には合わせることのできなくなった唇から、二人分の唾液が滴っていく。
 小さな諍いのあと、唇を離すと、慎吾は涙混じりの目で睨んでくる。恐いより可愛いのだが、本人にその自覚はないのだろう。
「ごめん、もうしない」
 素直に謝ると、慎吾は春日の胸に顔を埋めてくる。
 髪に口づけ、顎をとって自分のほうを向かせた。今度は普通に、けれども深く、キスする。
 舌をからませると、慎吾が応えてくるのが嬉しくい。
 唇をずらし、頬にも、喉にも、たくさんのキスをした。
 薄い綿のシャツの、ボタンを外していく。白く、まだ肉づきの薄い少年の胸。鎖骨の下辺りに唇を落とすと、鮮やかな朱が浮かびあがる。
 体温が低いのか、掌を這わせると、ひんやりとした手触りに、思わず暖めるように強く擦ってしまう。
 その指先が薄い色の乳首に触れると、慎吾は背中を浮かせた。
 ああそうか、ここも感じるのだとわかって、春日はキスをする。唇で摘むように吸い、舌で小さな突端をつついた。
「んんっ……」
 慎吾が声にならない声で、喉を鳴らす。
 春日がキスの場所をもう一方に移すと、慎吾は熱い息を吐いた。
 慎吾のジーンズに手をかける。不安そうな瞳に笑いかけ、やめられないと唇を動かすと、慎吾は脱がせやすいようにと、腰を少し浮かせてくれた。
 そのまま下着ごと、脱がせてしまう。既に熱くなっている下半身を捕えると、慎吾は羞恥を隠すように、堅く目を閉じた。その間に春日も全裸になってしまう。
 目を閉じ、音のない世界にいる慎吾を驚かせないように、静かに身体を合わせる。先程まで少し冷たいほどだった慎吾の肌は、二人合わせただけで、どんどん熱くなっていく。
 自分の背中に回された手も、焼けつくように熱く感じる。
 唇を指先で触れてから、唇を合わせた。慎吾は薄く口を開き、春日の舌を出迎える。
 そのキスの甘さに、春日の余裕はどんどん奪われていく。
 再び慎吾の下半身をつかみ、強く愛撫する。
「んっ……、んっ……」
 手の動きに合わせて、慎吾が春日の口の中で息を洩らす。
「好きだ」
 唇で唇に直接教える。自分のおさまりきれないこの愛しい気持ちを。
 それが伝わったのか、それとも下半身からの快感が恐いのか、春日を抱く手が彼を強く引き寄せようとする。
 そのまま先端を割るように強く擦ってやる。
「っぁ!」
 小さな声とともに、慎吾は熱く弾けた。薄く目を開き、胸を大きく上下させている。
 なかば意識を飛ばした慎吾は、エロティックでありながら、どこか清らかな美しさを見せていた。
 この少年を、自分だけのものにしたい。天上にいるような浄い人なのに、下まで引きずり堕ろしてでも。
 エゴイスティックな思いに、春日は薄く笑みを刷いた。慎吾はここにいる。だから自分のものなのだと。
 初めて持った嫉妬という感情に苦しみ、自分を醜いと言った慎吾。本当に醜いのはこっちだなと、春日は苦笑する。
 でも、この恋が、醜いはずがない。真剣に想いあった二人だから。幸せにすることで贖えばいい。
 春日は掌に受けたものを、そっとうしろにしのばせた。
 慎吾の身体が跳ねる。思わず、春日を突き放そうと、肩を押しやる。
 気持ち悪いのだろうと慎吾の表情をうかがうと、必死で首を振っていた。空いた手でゆっくり頬を撫でると、その手に顔を預けるように押しつけてくる。
「嫌か?」
 一瞬の迷いのあと、だが慎吾ははっきり首を振った。
「ごめんな、なるべく負担かけないようにするから」
 慎吾は春日の肩に置いた手を離し、彼の二の腕に人差し指で文字を綴る。
『大丈夫』
 不安で一杯だろうに、健気に我慢する慎吾が堪らず可愛くて、啄ばむように何度もキスをした。
 頬摺りして、キスをする。
 包みこむように大切にしたいのに、性衝動は弑逆的に訪れる。
 慎吾の足を広げ、身体を割りこませ、辛そうに眉を寄せるのに、指や舌で蕾を押し開いた。
 怒張した自分のものをきつい中に潜りこませる。
「……っぁ! っぁ」
 慎吾が喉を絞る。止めてやりたいと思うのに、どうしても止められない。身体は慎吾を求めている。
 すべてを収めて、息をついた。束の間の、偽りの休息。
 慎吾は睫毛に涙の露を溜めている。
 肩を引っ掻く手を取り、春日は自分の口に押し当てた。
「愛してる」
 一言ずつ、はっきりと唇を動かすと、慎吾は目蓋を震わせながら、目を開けた。
 目蓋が開いていくと、ココア色の瞳が現われる。濡れる瞳に、もう一度はっきりと語りかけた。
「愛してる」
 慎吾は涙を溜めた目で笑い、春日の手を自分の口元に持っていく。
『ぼくも』
 触れた掌から、電気が駆け抜けていくような気がした。
 あの夜聴いた透き通った声。頭の中へ、心へ、直接響くような綺麗な声が、たしかに聴こえた。
「慎吾、もう、離さない」
 慎吾を強く抱きしめ、春日はより高い場所へと昇りつめようと、熱く腰を進めた。





 ひらひらひらと、蝶は舞う。
 緑の匂いの蒸せかえる中、並んで寝転んでいると、慎吾は空に何かを語りかけた。
 思わず、その蝶をつかんでしまう。
 突然手をつかまれ驚いたのか、春日の腕の中の慎吾がびくっとするのがわかった。
「何を話してた?」
 尋ねても、慎吾は首を振るだけで教えようとしないので、春日はむきになってしまう。
「もうしたくないって?」
 頷かれては困るくせに、そんな意地悪な問いかけをする。案の定、慎吾は拗ねたように口を尖らせる。
「教えてほしいな」
 春日のかわいこぶった仕草に、慎吾は小さく吹きだす。
 上体を起こしてあたりを見回す慎吾に、春日は少し離れた場所に置いたままのスケッチブックとサインペンを渡してやる。
 隣に座り、肩を抱き寄せる。その暖かさと重さが愛しい。
『春日さんへ、僕の心が通じたから、そのお礼。それから、朝が来なければいいのにと思って。』
 そんな可愛いことを書いて、慎吾は寂しそうに笑った。明日の朝、別れなければならないのが辛いのは、春日も同じだった。
「俺も、慎吾を離したくない」
 きつく抱き寄せると、慎吾がスケッチブックを膝から落としてしまった。
 落ちて開いたページに、春日は自分の姿を見つけた。スーツを着て、駅のホームに佇んでいる。
 スケッチブックを拾いあげると、慎吾はその絵を隠そうとする。
「これ、東京から帰りの列車の中で描いたのか?」
 小さく頷いて、白いページを広げた。
「あのとき、慎吾は思い詰めた顔をしていたよな。だから、あれが告白だなんて思わなくて、手話を知っている人に教えてもらわなければ、気がつかなかったかもしれない」
 春日の言葉を読唇していた慎吾は少し迷ってから、白いページにあの日の自分の気持ちを綴り始めた。
『あの絵を届けたら、もう二度と春日さんとは会えないと思っていました。東京に出て、それまでの不安が実感になったんです。』
 どんな不安だと問うと、慎吾の綺麗な文字が白い紙の上に流れていく。
『旅先で会った子供のことなんて、すぐに忘れてしまうという不安です。手紙が届かなくて、春日さんの身体が心配だったのと同時に、忘れられていく不安もあったんです。東京に行って、心配していたことより、不安のほうが的中していると実感しました。』
 ごめんと言うと、慎吾は首を振った。
『わからなくてよかったんです。ただ自分の気持ちを打ち明けたという事実だけが欲しかった。春日さんにはわからないほうがいいと思っていました。もう会えないと、覚悟をしていたから。』
 あのときの自分を、慎吾はどんな気持ちで絵にしたのだろう。それを思うと、春日の胸まで痛くなる。
 けれど、あの窓越しの、短い会話があったから、自分はここまで来たし、慎吾に対する気持ちもはっきりさせることができたのだと思う。
「どうして俺をモデルに選んでくれたの?」
 そして、何もかもは、慎吾が自分を描いてくれたことから始まっていたのだ。
 モデルにしては平凡すぎる容姿だと思う。スキーにしても武村のほうが上手だし、外見でいうなら慎吾は自分より綺麗な人を見つけるのは困難だろう。
『僕は春日さんがホテルに到着したときから見ていたんです。皆さんと一緒に楽しそうに笑っている姿に憧れました。とても大らかな感じがして、ずっと見ていたんです。』
 それは美化しすぎだよと言うと、慎吾は真剣に首を横に振る。
『ゲレンデに行くのに、あとをついていきました。スキーが好きで、気持ち良く滑っている姿が、とても印象的で、どうしても描きたくなったんです。親にも許可を貰って、ずっとゲレンデについていってたんです。』
 全然気がつかなかった。それだけスキーに夢中になっていたのだろう。慎吾は温室にいるか、フロントでパソコンを操作しているものとばかり思っていた。
『あの夜もゲレンデにいました。帰ったのは春日さんが先でした。僕が戻るとみんながウロウロしていて、春日さんが戻っていないのでびっくりしました。』
 やはり、慎吾が描いてくれたのは、あの夜の自分の姿だったのだ。
『僕は追い抜いていないので、春日さんがどこか迂回路をとったことはわかりました。けれど捜索隊はみんな出てしまっていて、仕方なく一人で路を捜したんです。』
「そんなことをすれば危ないよ」
 助けてもらっておきながら、春日は慎吾のほうが心配になってしまう。
『僕はここで生まれ育ったから、ある程度方角に自信があります。それに、春日さんはそんなに深く入りこんでいなかったんです。迷ううちに、出口近くまで来ていたみたいです。捜索隊がゲレンデの奥を捜さずに森を捜していればすぐに見つけられたと思います。』
「その時、手話をした?」
 慎吾はこくんと頷く。
『動転していたと思います。必死で話しかけてました。だって、春日さんは目を薄く開けていたから、助けられると思って。なのに、春日さんは笑って眠ってしまったんです。』
 言われてみればそんな気がして、春日はまた小さく吹き出す。
「今日は温室で何を話してた?」
『早く見つけてほしい。僕を見つけてほしい。音を聞きたいなんて願わないから、綺麗な心がほしい。あの人の心がほしい。ずっと、ずっとそればかり祈ってました。』
 悲痛な願いに心が痛くなる。
「慎吾の心は綺麗だよ。俺が苦しめていたんだ。気づいてやれなくてすまなかった」
 慎吾は首を振り、怖ず怖ずと身を寄せてくる。その小さな身体を思いきり抱きしめた。
「必ず迎えにくる。待っててくれるか?」
 慎吾の目を見て、ゆっくり話す。いつか、手話という同じ言葉で、もう一度慎吾にプロポーズしたい。春日は慎吾の答えを祈るように待っていた。
(待っています)
 慎吾の唇がそう動くのを、春日は感動的な一シーンのように見つめていた。音にはならない声。けれど、それはまぎれもなく、慎吾の言葉なのだった。
『絶対、また来るから』
 春日もペンを借りて、書き残した。慎吾の耳に届かない声でなく、ここに残る約束のために、書いた。
「俺もファックスを買うよ。そうしたら、手紙みたいにタイムラグがなくて、毎日でも慎吾と話せるよな」
 ホテルの各室に置かれたファックスを見てから、春日はその手があったのだと気がついた。夏にきたときは、設備の充実したホテルだと感心したのだが、今ならその心配りがわかる。今まで気づかないほうがどうかしていたのだが。
「でも、ファックスだと家の人も見る? やばいことは書けないか」
 例えばと言って、春日は慎吾のスケッチブックに『愛してるよ』と大きく書いた。
 慎吾は赤くなりながらも、春日の言葉を大切に保管するために、次のページをめくった。
『大丈夫です。僕専用の回線とファックスがあります。僕の部屋にあるので、誰にも見られたりしません』
 慎吾の両親は、慎吾を自立させると同時に、きちんとプライバシーも守ってやっているのだと知った。
『明日、帰るんですね。』
 慎吾が小さく書いた文字に、春日も辛くなる。
「俺も、帰りたくない。ホテルで雇ってもらおうかな」
 半ば本気で言うと、慎吾は悲しそうに笑う。
 ここに春日が残ってくれることを願いながら、それが叶うはずがないことを十分に理解しているからだ。
『うちは人使い、荒いですよ。』
 悲しみを隠すようにひっそりと笑ってから、そっと唇を合わせた。
『雪が降るまでに来る。』
 慎吾のペンを奪って書きとめた。今度こそ一人で来るぞと内心誓って。
 誓いのキスもした。八重歯を舐めようとしたら、逃げられてしまったが。
「それと、手話も勉強する。だから慎吾は、実践のコーチをしてくれよ」
 スケッチブックとペンを放り出して、春日は一つ覚えの言葉を手で話す。

《私は、貴方を、愛しています》

 慎吾は嬉しい涙を浮かべ、これから会えない期間を憂いながら、泣き微笑らいの表情で同じ言葉を返してくれる。

《私は、貴方を、愛しています》




>>おわり<<