この騒めきが、慎吾には聞こえない。部屋の中は音の洪水。
 …………うるさい。
 いつもなら感じない苛立ちを、春日は静められないでいる。
 慎吾と過ごした静かな夜が、急に遠い過去のようにさえ思える。けれど慎吾を見送ったのは、ほんの二時間ほど前のことなのだ。
 外回りの人間も戻り始め、オフィスはどんどん賑やかさを増していく。
 自分を指差し、相手を指差し、左手の甲を右手で撫でる。
「俺に求愛してくれても、ちょーっと答えられないな」
 物思いを破ったのは、谷山の苦笑混じりの声だった。
「え?」
 春日は何を言われたのかわからず、正面に座る谷山を見た。
「手話だろ? 奇蹟の生還をして、ボランティアに目覚めたか?」
「手話?」
 谷山は違うのかと、言葉を交えながら教えてくれる。
「私は、貴方を、愛しています」
 それはまさしく、今春日がした動作であり、慎吾が自分に見せた『言葉』だった。
「他に意味は?」
「ないな」
 春日が考えこむものだから、谷山は深読みしているようだ。
「谷山さん、詳しいんですね」
「俺さ、ミッション系の私立高校に通ってたの。ボランティアに熱心な学校で、簡単な手話とか習ったんだ」
 とすれば、間違いじゃないようだ。
 やっぱり、夏季休暇はM高原へ行こう。
 確かめられずにはいられない。慎吾の気持ちを。そして何より、自分の気持ちを。
 昨夜感じた慎吾に対する想い。相手をもっと身近に感じたいと思う気持ちは、かつて恋愛感情を抱いた女性に対するものと同じような気がした。
 同じ部屋で眠りながら、抱き寄せたい衝動を宥めるのに苦労した。昨夜は相手は男だと心にブレーキをかけることで乗り切ったが、今度も無事に過ごせる自信は、はっきりいって、無い。
 無心に眠るその邪気のない寝顔に、自分の欲望に染まった手は触れられなかった。
 それを、恋愛感情と呼ばずに、なんと呼べばいいのだろう。
 だが、慎吾は男だ。男が男に恋するなんて。
 世間の常識内に踏み止まるなら今しかない。このまま疎遠になればいい。けれど、春日の心は慎吾との再会を望んでいる。
 それがすべての、たった一つの、答えなのだろう。
 既に自分が答えを持っていることに気づかず、春日は一人旅の計画をたて始めていた。
 まずは今夜、絵のお礼と、夏にそこへ向かうと手紙を書こう。そう決めると、春日は現実の音の中へ埋もれていった。

 武村に一言、「夏の休みはM高原へ行く」と言っただけで、その日の帰りには「奇蹟の生還、お礼参りツアー」が計画され、メンバーも決まっていた。
 有無を言わせず、春日もそのメンバーの一人。もちろん彼が抜けては成り立たないツアーなのだが、手際のよさ、ノリのよさに、唖然とするより感心してしまう。
 準備は万端に整っていたが、春日は気掛かりなことがあり、皆のようには浮き足立っていられなかった。
 周りは思い出の地で、いよいよ春日と真理子が結ばれることを期待しているようだが、春日は別のことに気をとられている。
 …………慎吾からの返事がない。
 自分が手紙をなかなか書けなかったことは棚に上げるしかないが、あの慎吾が手紙の返事を出してこないことが不思議なのだ。
 夏季休暇に、そっちにいくことを伝える手紙も出したのだが、その返事もこなかった。
 慎吾の身に何かあったのではと心配したが、ホテルの予約の際それとなく確かめてみたところ、元気にしていると言われた。
 では何か慎吾を不快にさせることを自分がしたのだろうか。
 色々考えてみても、思い浮かばない。手紙を書かなかったのは、確かに自分が悪いのだけれど、それだけで慎吾が怒るとも思えなかった。
 別れ際、慎吾が見せてくれた彼の〈言葉〉。
 そもそもあれが何かの間違いではないのかと疑ったのだが、自分で買った手話の本にも、谷山の解説が正しいことは証明された。
 すべては慎吾と再会してから。
 それに頼るしかなかった。





 夏のM高原は観光よりも避暑地として成り立っているようだ。冬は気づかなかったが、別荘も多く、冬はスキー客で溢れていたが、夏は高原のハイクツアーの中年が主体のようだ。今は若い春日たちは浮いてしまっているようで、いささか居心地が悪い。
 チェックインをすませると、春日は温室に直行した。
 夏でも涼しい高原の、けれどもこの温室の中は熱気に包まれている。中央の大きな木の向こうに、小さな人影が見えた。
『空気の流れが変わるからすぐにわかる。』
 そう言っていた慎吾は、春日がどう声をかけようか迷っている間に、侵入者に気づき顔を上げた。
「久しぶり。元気にしてた?」
 なんと気のきかない挨拶だろうと、自己嫌悪している間も、慎吾はまず驚きの表情をし、そしてすぐに辛そうなそれに塗り替える。
 笑ってもらえると思っていた。以前のように、にっこり微笑んで、ちょこんと斜めの挨拶をしてもらえると思いこんでいた。なのに……。
 ここに来るまでの杞憂が現実のものとなり、春日も笑みを消し、立ち尽くすしかない。
「二泊するつもりなんだ。どこか案内してくれないかな?」
 慎吾は静かに首を横に振った。
「俺がここに来るのは、迷惑だった?」
 たまらずに訊いた言葉に、相手は首を激しく横に振ってくれたので、胸を撫で下ろす。迷惑と思われたなら、自分だけでも、すぐに帰るつもりだったから。
 それ以上何も言えずにいると、慎吾は花壇の脇に置いてあったスケッチブックを拾い上げた。
『お手紙ありがとうございました。返事出せなくてごめんなさい。』
 いつも綺麗な字を書いていたのに、今日の文字は、小さく揺れている。
「そんなの気にしないでいいよ。俺こそ、ずっと出せなかったんだから」
 ハハハと空元気で笑ってみせるが、目の前の少年はにこりともしなかった。
「春日くん!」
 なんとか話の糸口を見つけようとしていると、背後から自分を呼ぶ、いくぶんきつい声がした。驚いて振り返ると、温室の入り口に真理子が立っている。
「急にいなくなるんだもの、びっくりしたじゃない」
 真理子は慎吾の目も気にせず、春日の腕に自分の手を組んでくる。慎吾は沈んだ面持ちで、二人の様子をじっと見つめている。
「あら。この子がオーナーの息子さん?」
 慎吾をちらりと見つめ、紹介してよと、春日に向かって親しげに笑う。そんな様子に、慎吾は思わず目を背けた。
 その時、温室の入り口が開けられ、にわかに騒がしくなった。
「なんだ、二人ともここにいたのか。おっ、腕なんか組んじゃって、なかなか進んでるな?」
 世話を焼く必要もないか、と言って武村たちが囃したてる。春日はあわてて自分の腕を引きぬいた。
「照れるなって。あ、そっちの子は? 前もこの温室にいたよな」
 初めて気がついたように、武村は興味深そうに慎吾を眺めた。
「このホテルのオーナーの息子さんだよ。山端慎吾くん。ホテルの手伝いをしてるんだって」
「へー、次期オーナーか。これからもよろしく」
 調子に乗って、武村が挨拶をする。だが、早口だったのか、慎吾が武村を見る前に喋り始めたのか、彼は助けを求めるように春日を見た。
「これからもよろしく、だって。ほっといていいよ、こんなお調子者は」
 春日が説明してやるのを、武村たちは不思議そうに眺めている。
「慎吾くんに話しかけるときは、彼が自分の口元を見ているのを確かめてからゆっくり話してやってくれよ」
「どうして」
「耳にハンディキャップがあるんだ。知ってるんだろ?」
 武村が知らないと首を振るので、春日のほうが疑問を感じる。
「だって、捜索の時、この子が加われないって」
「春日くん!」
 話の途中で、真理子が急に大きな声を出した。
「あまり、聞こえないことを言うのは、かわいそうよ」
「かわいそう? なんだよ、それ」
 真理子の言葉に、春日が敏感に反応して、辺りの空気は一気に気まずいものになってしまう。
「だ、だって、そうじゃない。聞こえない、話せないことを、本人の前であからさまに言うのはかわいそうでしょ?」
「俺は慎吾のハンディをかわいそうだと思ったことは一度もない」
 断言した春日は、堂々としている。真理子のほうが挫けまいと、興奮した様子で、言葉も途切れがちになっている。
「本当? でも、この子が話せたらと思ったことはあるでしょ?」
 真理子の指摘に、春日は冷めた目を向ける。
「ないよ」
 即答する春日に、真理子は愕然とする。
「俺は慎吾との会話を、今までも十分に楽しんできた。慎吾の言葉はいつも綺麗で、紙の上に綴られていくのを見ているだけでも楽しいんだ」
「ちょ、ちょっとおまえら、こんなところで、やめろって」
 険悪なムードに、武村があわてて春日を押さえにかかった。
「ちょっと、外へ出よう。ここは熱すぎるよ、せっかく避暑にきているのに。外へ出て、二人で話し合えばわかることだろ?」
 武村の取り成しに、真理子は出口に向かう。それを見て、武村は慎吾に振り返った。二人の言葉は聞こえなくても、悪くなっていく雰囲気は伝わっていたので、慎吾は武村に見つめられて、逃げ腰になる。
「彼女が遭難した春日を助けたんだよ。誰にも見つけられなかった春日を、必死で探したわけはわかるだろ? 彼女だって危険だったのに。そんな子だから、悪い子じゃないっていうのはわかってやって」
 春日も気まずそうに俯いている。慎吾は頷くことしかできなかった。

 武村に、これ以上はっきりさせないのは、お互いよくないと諭されて、春日は真理子を捜していた。
 さんざん探し回って、真理子を見つけたのは、春日が間違って入ってしまった、あの森の入り口だった。
「さっきは悪かった。ついむきになって」
 真理子は自分のほうこそごめんなさいと力なく笑った。
「どうかしてたわ、私。春日くんを助けて、ヒロインぶっちゃってたのかも」
 しばらく、二人の間に沈黙がおりた。彼女が何を言ってほしがっているのかよくわかっていながら、春日は何も言い出せず、回避することばかり考えている。自分でも卑怯な奴だと心の中で罵りながら。
「私、貴方のことが好きなの。入社したときからずっと。だからスキーツアーにも入れてもらったし、遭難したときは生きた心地がしなかった」
 とうとうきりだした真理子に対して、春日は「うん」としか返せなかった。
「私じゃ駄目かしら」
 夏の風が、彼女の長いストレートの黒髪をいたずらに揺すってゆく。冬のときは気づきもしなかったが、ずいぶん白く細い腕をしている。あの細い腕で、自分を引きずり助けだしたのか。
 何も彼女を拒む理由などないのに。
「この旅行から帰ったら返事をする。あと二日、猶予をくれないか」
 彼女は泣きそうに唇を歪め、わかったわと言って、ホテルの方へ走っていく。その後ろ姿を見送り、春日は自分が踏みこんでしまった道に目をやった。
「どうして間違えたんだろう」
 あの夜、と考えて、頭の中で何かがスパークした。
 …………そう、慎吾が描いた、あの絵だ!
 一人きりで滑る春日。一人ゲレンデに残ったのは、あの夜だけだ。どうして慎吾があの絵を描けた?
 そしてもう一つ。捜索に加わってくれた仲間は、慎吾のことを知らなかった。オーナーの息子であるということも、聾唖者であることも。
 何かがひっかかっていると思っていた春日は、ようやく見つけだしたこの二つの違和感の正体に、繋がるものがあるのではと、思考を巡らしてみる。
 周りが吹きこむ万の言葉よりも、自分で真実をつかみたい。
 どうしても慎吾にこだわってしまう自分の気持ちの行方を見つけたい。
 春日の決意を知ってか知らずか、高原の風は彼の蟀谷をなぶっていく。真理子にも約束してしまったし、慎吾の態度の激変のこともあるし、どちらにせよ春日に退路は残されていない。
 あと二日で何もかもが決まる。流されないよう、自分の手で答えをつかみとりたい。春日は改めて決心していた。

 残された時間は少ない。けれど、慎吾をなかなか見つけることができなかった。
 温室以外に少年を見つける場所を知らない自分に、春日は茫然とする。これでは慎吾に愛想を尽かされても、文句は言えないと自嘲する。
 仕方なくフロントで尋ねると、麓の絵画教室へ通っていると教えられた。戻るのはいつも夜になってからだという。ついでに交通機関を教えてもらって、春日はホテルを飛び出した。
 温室だと真理子や武村たちが入ってきたように、いつ誰が入ってくるかわからない。どうしても二人になれる時間がほしかった。
 だから麓まで迎えにいくことにした。
 教室は午後七時まで。慎吾はたいてい真直ぐに帰ってくる。麓から高原行きのバスは、七時十五分発。これに乗れなければ、タクシーを捕まえる習慣らしい。
 春日がバス停に着いたとき、慎吾は大きな荷物を抱えて、ポツンとバス停にたたずんでいた。
 なるべく脅さないようにと近づいたつもりが、彼の肩をぽんと叩くと、慎吾は手に持っていた荷物を、足元にばらまいてしまった。
「あー……、ごめん。驚かせるつもりはなかったんだけれど」
 慎吾はあわてて、ばらまいた絵の道具を拾い始める。春日もそれを手伝った。
「足りないものはない?」
 慎吾が頷いたので、春日は彼の荷物を持ってやろうと手を伸ばすが、慎吾がそれを避けるように、あとずさる。
「重いだろ? 持つよ」
 慎吾は首を振って、自分の荷物をしっかり胸に抱えた。春日は、あの人懐っこい慎吾の笑顔を、ここにきてから一度も見ていないと気づき、暗い気分にとらわれる。
 バスに並んで座っても、彼は頑なに顔を上げようとはしなかった。
 乱暴な態度は慎吾を怯えさせるだけだと知りつつ、春日はたまらなくなって、スケッチブックを取り上げた。適当に白いページをめくり、そこへぞんざいに書き殴る。
『ここへ来たのが迷惑だったのならそう言ってほしい。俺だけでも明日帰るから。』
 慎吾はそれを見て、目を見開いた。首を激しく左右に振る。
『だったら、俺を避ける理由を教えてほしい。』
 慎吾の手が、ペンを持ち、何度か書こうとしながら、結局何も書かずに、膝の上で握りしめられる。
『きみにとって、俺は絵の対象でしかなかった?』
 首を振る慎吾。何度も、何度も、自分すら否定しかねないほど、彼は首を強く振った。
『どうして何も言ってくれない? 俺ではきみの力になれない?』
 慎吾はペンを握りしめていた手を解き、震える手で短い文章を書いた。
『僕は醜いから。』
 え? と、読み返す暇もなく、慎吾はバタンと荒々しくスケッチブックを閉じた。それを胸に強く抱きこんで、春日の存在をも閉じこめたように、堅く目を封じ、一人の世界にこもってしまった。
 その世界から連れ出す術もなく、春日はホテル近くのバス停で、彼を無理にも引きずり降ろす。すると慎吾はぺこんとお辞儀をして、ホテルの裏に走り去ってしまう。
 辺りは既に暗く、慎吾の姿はすぐに見えなくなる。
「慎吾!」
 彼が振り返ってくれないのを百も承知で、春日は叫んだ。
 どうすれば慎吾は元の、純粋で朗らかな彼に戻ってくれるのだろう?
「慎吾が醜いわけないじゃないか」
 この声が彼に届くといいのに。
 溜め息をつくと一つ幸せが逃げていくよ。小さな弟が生意気な口調で春日に教えてくれたことがある。わかっちゃいるよ、だけどな、大人になれば、そんな些末なことにこだわってられないんだって。
 春日は大きな溜め息をついて、空を仰いだ。ほんと、嫌になるくらい、綺麗な星空だ。
「醜いのは、この俺だ」
 慎吾の悩みの欠片も、自分はわかってやることができない。何に悩んでいるのか、見当もつかない。
 おまけに責めるように問い詰め、あんなに純粋で清らかな子に自分は醜いのだといわせてしまった。
 こんなに力不足で、相手を思いやることができないのに、のこのこと追いかけてきてしまった自分を、慎吾は疎ましく思っているんじゃないだろうか。
「俺のほうだよ」
 ふふっと自分を嗤って、春日は部屋に戻った。待ちあぐねていた仲間と食事を共にし、いつになく饒舌になって、そのぶん酒をあおった。
「醜いのは、お前だよ、春日浩平」
 酔っ払いは眠りに堕ちる前、自分を罵った。

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