あのとき既に、慎吾は知っていたのかもしれない。春日のした約束が、はたされる可能性の少ないことを。
「明日こそ書こう」
 そう言いながら毎日が過ぎてゆく。
「今日は忙しいから」
 言い訳にすぎないが、それは事実である。
 都会の時間は早く過ぎ、人々の時の感覚を麻痺させている。
 約束を忘れていないのだからと、それを免罪符のように、日々に埋もれていた。
 忘れてはいないのだと。

 時間の速さに比例するように、人々の話題も日々新しくなる。
 春日の遭難事故、奇蹟の生還など、七十五日どころか、七十五時間ほどしかもたなかった。
 けれど生還劇に興味をしめさなくなってくれたのは良かったと、安堵したのは早計だった。実は彼らはそれとは少し違うことに興味を移していたに過ぎなかった。
 S製薬の販売促進第一課は、フランチャイズ薬局への販促を業務としている。業務はたしかに営業だが、直接販売交渉をするのではなく、いかに消費者に自社の商品を知ってもらうのかがポイントの、いわば告知活動が仕事の主な内容だ。病院関係を担当する、二課や三課よりも、比較的接待や人間関係の悩みは少なくてすむ。
 それでも外回りは多く、残業も増える。けれども月に何回かは会議などで内勤という日もあり、そんな日くらいは早く帰ってやろうと、早々に準備を始める。
 あとはタイムカードを押すだけ、今夜こそ手紙を書こうと思っていると、背後からとんとんと肩を叩かれた。
「飲みに行こうぜ」
 嫌な予感のとおり、そこには武村が含みのあるニコニコ顔で立っている。
 断りきれずについていくと、もうそこまでというほどわざとらしく、真理子とツーショットにされる。武村の笑顔の理由に、内心うんざりする。
 真理子が照れるからか、春日がやめろよと抵抗するからか、周りは異常な盛り上がりを見せた。
「参っちゃうよな」
 二次会もそこそこに、二人きりで放り出された。曰く、真理子を送っていくのは、恩返しなのだと。
「ほんと」
 真理子はクスクス笑っている。少し飲んだのか、頬が上気している。
「ほら、覚えてる? ホテルの温室にいた子」
 会話の途切れるのが嫌さに、春日は自分だけが仕入れた情報を真理子に教えようとした。
「あの細い子?」
「そう、あの子さ、慎吾っていうんだけれど、なんと、ホテルのオーナーの息子なんだって」
「そう」
 ところが真理子は、あまり驚いてくれない。
「忙しい父親に代わって、毎日見舞いにきてくれたんだ」
「毎日?」
 訝しげな顔をして、真理子は歩道の真ん中で立ち止まる。 
 寒いところで立っていたくなくて、春日は彼女の背中に手を置いて、歩くように促した。すると彼女が歩きながら身を寄せてきたので、なんとなくその手を外せなくなる。
「といっても五日だけどさ。俺も言われてたより一日早く退院しちゃったし。でも、結構楽しく会話した」
「でもあの子、話せないでしょ?」
 何か言葉に棘があるように感じられ、春日は一歩引いて、彼女から手を離した。
「知ってたんだ」
「……ええ。春日くんを探しているとき出てきて、オーナーに家にいなさいって言われてたわ。春日くんが助けを呼んでても聞こえないし、見つけたとしても知らせられないんじゃ、捜索に加わる意味がないものね」
「……まあな」
 春日は胸の中に重いものが沈んでいくような感覚に、眉を寄せた。
 慎吾のハンディのことを、自分を救ってくれた女性が、悪し様に話すのはいい気分で聞けなかった。
 最後まで送っていくつもりが、地下鉄のホームで別れた。彼女も不満そうな素振りを見せたが、気づかない振りをして。
 一人になると、話の流れから、慎吾のことを思い出す。
 今頃どうしているだろう。雪は解けただろうか。絵を描いているだろうか。
 考えてみれば、慎吾とは十日に満たないような、短い期間しか会わなかった。
 旅先でのいい思い出に変わったとしてもおかしくないはずなのに、毎日思い出しては、どうしているのだろうかと気にかかる。
 一人のアパートに戻って、テーブルに広げたまま、白いままの便箋を今夜も眺める。
 約束だから書こうと思うのに、最初の文字が出てこない。「お元気ですか」では、芸がなさすぎると思っては悩む。そして中身にも。
 結局、何も書けなくなり、明日にしようと、また見送ってしまう。
 今の何も書けない気持ちが、慎吾への自分の気持ちのような気がして、春日はひとしきり考える。
 きっとここへ綴る言葉が、慎吾への気持ちになる。
 そう思うと、やっぱり書けなかった。

   日々の業務だけでクタクタになるのに、春日はもう一つ気の使う事柄を抱える羽目になった。
「どう? 調子は」
 音もなく春日の背後に忍び寄った武村が、こっそり耳打ちしてくる。
 終業時間はとっくに過ぎ、フロアには営業マンだけが残っている。真理子たち総務の女性は帰っていた。
「今月の販売目標の六十パーセントってとこかな。苦しいよ」
 何を訊かれていたのか薄々感づいていながら、春日はとぼけてみせた。案の定、武村はしらけた顔で睨んでくる。
「誰がお前の成績を訊いたさ」
「違うのか?」
 コンピューターの画面から目を離さず、春日は来月の自己採決予算の活用報告書を作成している。
「大島さんとのことだよ。ちっとも噂にならないじゃないか。よっぽどうまく隠してるのか? 俺に報告もなしなんて、水臭いぞ」
 春日の操作画面を見て眉を顰めながらも、武村ははぐらかされてはくれなかった。
「何もないから、報告しないだけだよ」
「そんなこと言って、彼女に何も感じないわけ? 普通さ、自分の命救ってくれた人が身近にいたりしたら、それだけで盛りあがるだろ?」
 うるさい追及をかわすため、春日はカーソルを動かしてゆく。
「何の映画だったかな。ヒロインが、特殊な環境で結ばれた二人は長続きしないって言ってたの」
「俺知ってるぞ、それ。スピード」
「アイドルの話なんてしてないって。映画の話、映画の」
 目的の位置でカーソルを止め、キーボードを叩く。
「俺だってお前と漫才するつもりはないって。映画のスピードだろ?」
 ああ、そうそう、と言いながら情報をインさせると、画面がグラフになり、色分けされて数値まで書きこまれていく。
「えっ、今何した? これが来月の予算か?お前今月も既に六十とか言ったよな。まじ?」
 今度はカーソルを画面下に移動させクリックすると、前年度の実績が今の画面に被さってきた。
「えっ? えっ? 今の何? もっと手順が多いはずだろ?」
 武村はすっかり真理子の話題を忘れてくれたようだ。おかげで奥の手を一つ教えるはめになってしまったが。
 真理子に対しては感謝している。見た目も綺麗だし、以前からよく気のつく子だと思ってもいた。けれど、それ以上の、いわば恋愛感情を持てないでいる。
 森の中で意識を失い、気がつけば、病院のベッドだった。最初に目に映ったのは、白い天井とカーテン、点滴の容器。嗅覚が戻り、消毒液の匂いがした。聴覚が戻ったときには、規則正しい機械音と、自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
 そして、真理子の涙ぐんだ顔。
 その一瞬、真理子の顔が、慎吾の顔とだぶって見えた。その時は慎吾の顔だとはわからなかったのだが、少年が病室を訪れたときに、ああこの子だったのかと思った。
 目の焦点が合わずにきつく目を閉じると、白い蝶が飛んでいくのが見えた。
 思えばあの時から、真理子に対して、ありがとうと言いながら、何かをつかみとれないもどかしさを感じている。そのもどかしさが、自分を積極的にさせないでいるような気がしてならない。
 周りは二人をくっつけようと色々画策しているようだが、春日はそれを傍観している。答えはすぐにも出さなければならなくなると思っている。
 非難されながら断れるだろうかと、春日は自分の性格を分析してみる。できないかもしれない。周りの思惑とは別に、真理子に感謝しているのは事実だから。
 嘆息とともに、気が重くなる。

 武村たちと飲みに行ってから意識的にあわないようにしていたのだが、それから数日後、会社を出るのが偶然真理子と一緒になった。彼女はにっこり笑いかけてくる。
 そこで別になるのも不自然なので、肩を並べて歩き始めた。
 共通の話題を見つけられず、かといって、仕事の話をするのも楽しくないと、春日は結局、あのスキー場の話を持ち出した。
「俺を見つけたときさ、白い蝶々を見なかった?」
「蝶々?」
 彼女は何を言いだすのかと、綺麗に描かれた眉を寄せた。
「そう、白い蝶々。意識を失う直前、見たような気がしたんだよなあ」
 春日が呟くように言うと、彼女は急に黙りこんだ。チェリー色に染められた唇をかたく閉じる。
「あ、頭がおかしくなったとか思った? でもさ、ほんと、俺もあれを見たときは、とうとう死んじゃったんだなあとか思った。そのままブラックアウト」
 春日はなるべく茶化して、笑い話ですませようとした。
「だから、きみが助けにきてくれたことも、覚えてないんだよなあ。ごめんな」
「だって……。真冬よ? 雪が降ってたのよ? 蝶々なんて飛んでいるわけがないわ」
 春日の努力を無にして、彼女は彼が初めて聞くようなきつい口調で否定した。
「そう……だよな」
「私が駆けつけたときはもう、春日くん、全然意識がなかったもの。まるで死んでいるみたいで、すごく恐くて」
 最後は涙まじりの声で、それっきり彼女は声を圧し殺して泣き始めた。
「ちょっ、ちょっと。ごめん、な? ごめんって」
 春日はあわてて人通りから彼女を隠すように肩を抱き、泣きやみそうにないと判断すると、タクシーを止めた。
 彼女を宥めるように、自宅の住所を聞き出した。運転手の興味津々の顔を一睨みして黙らせると、タクシーはスムーズに車の流れに滑りだしていった。
 しばらく走ると、落ち着いてきたのか、真理子は泣きやんだが、あとは何を考えているのか黙ったまま、じっと前を見つめている。
 これが武村あたりにばれてしまえば、なんと言われるかわからないななどと、まるでひとごとのように考えながら、春日は泣いた真理子の姿に、又も慎吾の姿を重ね合わせていた。
 同じように並んで車に乗った。退院して東京に帰る日のことだ。
 あの日の慎吾の気持ちが、今頃になって浮かびあがってくるような気がする。春日だっていつになく人恋しい気持ちになっていた。だから手紙を書くなどと、普段したこともないことをすると約束したのだ。だが、あのとき慎吾の気持ちを推し量ることまではできなかった。
 慎吾はただ淋しかっただけだろうか。もっと、強い何かを秘めていたような気がする。
 もっと彼の気持ちを汲む努力をすべきだったと思う。けれど、楽しい五日間がずっと続くような錯覚がしたのだ。
 それだけ、慎吾の傍にいると、安らかな気持ちになれた。落ち着くといえばもっと自分にわかりやすい表現だろうか。決して、慰める声もかけられないような、こんなシチュエイションになることはないと思える。
 その原因が、自分と、真理子と、慎吾の関係に起因しているのだという自覚は、今の春日にはなかった。
 真理子の家の前でタクシーを停めると、彼女は春日も下りるのを待ったが、春日はそのまま「また明日な」と告げて、タクシーを走らせた。

 疲れ切った気分のままアパートに戻ると、一階の自分の部屋の前に見慣れぬ物があるのが見えた。廊下の薄明りも届かないその黒っぽい固まりを、何かと目を凝らして見ると、どうやら人が座りこんでいるのだとわかる。どこかの酔っぱらいが部屋を間違えて入れずに、座りこんで眠ってしまったのだと思った。
 舌打ちして足音荒く近づいても、その酔っぱらいは完全に眠っているのか、起きる気配もない。
 そのまま歩道に移動して放置していいものか迷っていると、その人影ががさりと動いた。玄関の前に座り込み、膝に乗せていた頭をあげ、眠そうに目を擦る。
 まさかと思い、間違いないと判断すると、こんな場所までどうやって来たのだ、よく無事に着いたものだと、心配と安堵が一度に押し寄せてきた。
「慎吾」
 小さく呟くように相手の名を呼んだが、叫んだとしても彼に届かないことを知っている。
 一人でこんな所まで出てきて、心細くはなかっただろうか。電車の乗り継ぎはできたのか、道を聞いてちゃんと教えてもらえたのだろうか。ああ、こんなに遅くなってしまって、一人ぽっちで待たせていたなんて。
 それよりもまた会えた。
 自分でも何を考えているのかわからなくなって、春日は硬直していた足を意識して歩かせる。
 春日の影が慎吾の足元まで伸びたとき、慎吾の肩がぴくりと動き、こちらに振り向いた。
 一瞬びっくりしたように目を見開き、すぐににっこり笑った。その八重歯を見て、ああ慎吾なのだと実感する。
 春日が立ったままなので、慎吾は笑顔を消して立ち上がり、不安そうに首を傾げた。
「ごめん、遅くなって」
 慎吾は微笑んで、静かに首を横に振った。
『突然押しかけてごめんなさい。』
 来てくれて嬉しいと言って見せて、春日はドアを開けた。
「狭いところだけど、どうぞ」
 慎吾は壁に立てかけていた大きな包みを抱きかかえるように、春日の部屋に入ってきた。
 1DKのアパートに応接室などあるはずがなく、慎吾をダイニングのテーブルに座らせる。
「何か食べてきた?」
 小さく頷く慎吾に、春日は紅茶を入れてやる。
 ほっと一息つくと、慎吾はずっと抱えたままの大きな包みを、そっと春日に差しだした。
「俺に?」
 自分を指差すと、慎吾は頷く。
 何が現われるのか見当をつけながら紐解くと、やはり一枚のカンバスが出てきた。
 白銀のゲレンデに、煌めくライト。その中を一人で滑っている自分の姿。コバルトブルーのウェアに、同じ色の板。巻き上がる雪。
「カッコ良く描きすぎだよ」
 感嘆の溜め息とともに出たのは、照れ隠しの一言。
『だって、本当に格好よかったから。』
 素直にそう告げられて赤面してしまう。慎吾が本気で思っているのがわかるから、なおさら恥ずかしい。
 迷わなかったか、心細くなかったかと心配する春日に、慎吾はクスクス笑う。
『僕は両親から、早くから自立心旺盛に育てられました。自分のことを自分でするのは当然だったし、ハンディがあるからこそ、家にこもったりしないように、積極的に外へ出るように言われてきました。だから、一人でどこへでも、平気で出ちゃうので、今では両親のほうが呆れてます。でも、春日さんに心配かけたのは悪かったと思います。ごめんなさい。』
 そしてペコンと頭を下げる。その頭を撫でてやりたくなって、どきまぎする。
「どこに泊まるの?」
 荷物の少ない少年の姿に、もうどこかにチェックインをすませたのだろうと思い、送っていこうとした。
 けれど慎吾は首を振る。
『今夜帰るんです。』
「え?」
 春日はあわてて時計を見た。時刻は既に十時に近い。
「だって、もう列車がないだろ?」
 慎吾は迷うように、ペンを持っては何も書けずに玩ぶ。
「何で帰るつもりだったの?」
 ごそごそと上着のポケットを探り、慎吾は一枚のチケットを取り出した。それは夜行バスのチケットだった。M高原駅行き、午後九時発の。
「ごめん、俺が帰るのが遅くなったから」
 慎吾は首を強く振る。
『僕が約束もしていないのに来てしまったから。』
 どうすればいいのか迷いながら、今ここから追い返すわけにはいかないことだけはわかる。
「狭いところだけど、泊まっていって。それから、家の人はここに来ること知ってる?」
『春日さんのところへ行って、明日の朝帰ると伝えてあります。これからホテルを探します。明日の朝、ホテルからファックスを借りて、予定が変わったことを報せれば大丈夫です。』
 それでも春日は慎吾をこんな時間に帰すことはできなかったので、自宅の電話番号を書かせた。代わりに自分が慎吾の母親と話をする。
 今夜自分の帰宅が遅れたために、慎吾が予定のバスに乗れなかったこと。自分のところで責任をもって預かること。明日の朝、列車に乗せて見送ることを約束した。母親はいたく恐縮した様子で、何度もお願いしますと頼みこみ、電話を切った。
「泊まっていってもいいって」
 手でOKの形を作ると、ようやく慎吾は笑った。たしかに慎吾はしっかりしているし、一人で出かけても大丈夫だと思えたが、不安はあったに違いない。
 久しぶりに見る彼の笑顔に、気分が高揚する。いつになく饒舌になる自分を、どこか冷静で、どこか興奮して、そんな複雑な気分で見つめている。そんな春日におかまいなしに、慎吾は無邪気に『ありがとうございます。』と、丁寧にしたためる。
 交替でお風呂を使い、慎吾は春日のパジャマを着る。手も足も長すぎて何度も折り、ウエストもゴムを絞った。手足や首の細さにどきっとする。
 枕を並べてうつぶせになり、春日も紙とボールペンで、慎吾と夜更かしをして『会話』した。
『手紙を書けなくてごめんな。』
『忙しいのに約束させてごめんなさい。』
『もう雪はとけた?』
『はい。高原はこれから緑色になっていきます。』
 一つの文章を書けば、相手の顔を見る。言葉でニュアンスを伝えられない分、必ず表情で気持ちを伝える。
 他愛無い言葉の羅列が、積み重なって、気持ちが通じあっていく軌跡を、文字という実物で目にすることができる。気持ちは興奮しているのに、満たされていく充足感。心が穏やかになっていく。
『そろそろ眠ろうか。おやすみ。』
 慎吾が小さなあくびを堪えたのがわかって、春日は会話の終わりを記した。
『おやすみなさい。』
 よほど眠かったのか、慎吾はペンを置くとうつぶせのまま、ことんと眠りに就いた。
 布団を肩口まで引き寄せると、慎吾は幸せそうに微笑んだ。
「おやすみ。いい夢を見てくれよな」
 無邪気な、まだ子供っぽさの残る寝顔を見つめながら、春日は慎吾がここまでやってきた理由を考えてみる。
 絵を渡すだけなら、宅配便で事足りるのではないだろうか。それとも、自分が嗜まないものだから、描いた本人の気持ちがわからず、送ってしまうという考えを持ってしまうものだろうか。
 しかしその真意を、慎吾に問いただすつもりはなかった。自分が慎吾にもう一度会いたいという気持ちは確かにあり、慎吾も同じものを感じてくれていたのではないかと思うからだ。
 なら、自分のこの気持ちはなんだろう?
 友達とも呼べず、兄弟とも違う、この愛しい感じは。
 そう、何かに似ている。昔に経験のあるような……。
 春日は複雑な思いでしばらく慎吾を見ていたが、やがて自分も深く心地好い眠りに引きずられていった。
 目を閉じる直前に見たものは、壁に立てかけた、自分の絵だった。
 蝶なんか飛ぶわけない。
 あんなに雪が積もっていた。空からも雪が舞い降りていた。ましてや真夜中。通常ではない精神状態が見せた幻なのだろうか。
 ありえないことだと思いながら、確かめたいという欲求は高まっていく。とても大事なことのような気がして……。

 午後出勤にして、春日は慎吾を見送りに東京駅に来ていた。
「夏になったら、今度は俺がそっちへ行くから」
 多少は喜んでもらえると思っていたのに、慎吾は何も書こうとしない。迷惑なのだろうかと、一瞬気持ちが怯む。
「俺が行くのは迷惑?」
 慎吾は首を振って否定し、だけどそれからは顔を伏せたまま、あげようとしなかった。
 会話を拒否されたようで、春日は信じられない思いで、慎吾を見た。けれど慎吾はただひたすらうつむいたままでいる。
 春日は慎吾のスケッチブックを奪い、少々乱暴に文字を連ね、それを持ち主に見せた。
『夏に行く。今度は絶対約束を破らない。』
 それに対する返事はない。
 発車の時刻が近づき、春日は少年に乗るように促す。慎吾が席に着いたのを認め、胸の前で手を振った。
 すると慎吾は春日に身体を向け、じっと見つめたあと、思い詰めたように両手を動かし始めた。
 右手の人差し指で自分の胸を指差し、その指先を春日に向ける。
「え? 何? 書いて、書いて!」
 掌に書く真似をするが、慎吾はそれを無視した。
 両手を胸の高さに持ってくると、掌を下に向け左手を下に重ね合わせる。下になった左手は動かさず、その甲の部分を右手の掌で円を書くように、数度撫で回した。
「わからない。書いてくれ」
 けれど慎吾がもう一度同じ動作をしていると、発車のベルが鳴った。
「慎吾!」
 動き始めると、春日は追うようにホームを走った。
 最後に見た慎吾は、うっすらと涙を浮かべて、悲しそうな顔をしていた。


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