君の声に触れたい


 チラチラと空から降りてくる雪の中に、一匹の白い蝶が舞うのを見た。
 ヒラヒラと舞う白い蝶があまりにもはかなく見えて、少し笑ってしまった。
 もう俺は死んでしまったのだろうか。
 こんな雪の夜に、蝶が翔んでいるはずがない。天国にはきっと、白く、美しいものばかり集めてあるんだ。
 そうでなければ雪がこんなに暖かいはずがない。蝶が夜に翔ぶはずがない。
 頬に降りる雪の音さえ聞こえそうなほど、辺りは静寂の世界。このままこの夜に溶けていってしまいそうに、意識が遠退いていく。
 それはまるで甘美な誘いで。

 ひらひらひら、蝶は舞う。
 ちらちらちら、雪が舞う。
 こんな夜はゆっくり眠りたい。
 ……ゆっくり。

 音のない夜、森の中、遭難した俺は、一匹の白い蝶を、……確かに見た。





 ドアをほんの少し開けただけで、そこはもう、音の途切れることはない世界。電話のベル、人の行き交う足音、話し声、パソコンのキーボード、書類をめくる紙の音。
 音、音、音。
 騒めき。うるさいほどの。
 押し寄せる音の洪水に、思わず耳を塞ぎたくなる。
 既に陽は高く、部屋の住人たちは忙しく働いている。
「何やってるんだ、生還者!」
 入り口で立ち止まり、その音の一つ一つを目で追っていた青年の背中を、同僚が思い切りよく叩いた。
「それ、やめてくださいよぉ。谷山さん」
 彼は濃い眉を寄せ、長い背丈を二つに折るように、大袈裟に痛がってみせる。
「冗談は抜きにして、もう復帰して大丈夫なのか、春日。退院したその足で出勤してきたんだろう?」
 二つ年下の後輩の様子を笑いながら、休んでいた分入りずらいのだろうと気を回して、谷山は彼の背中を押してやる。
「おかげさまで。そんなに大したことじゃなかったんですよ」
 まさか日常的な音に怖気づいていたのだとは言えず、春日は愛想良く笑った。無言でいれば、ハンサムだがきついと形容される表情が、とたんに人懐こくなる。
「雪山の遭難から生還したんだろ? 凍死寸前のところで。テレビのドキュメンタリーにも出れるぞ。奇蹟の生還。生死の別れ目、何が彼を救ったのか」
 谷山はすっかりナレーターになった気分で大声を出しながら、春日ともども入室する。彼らの姿を認めて、S製薬販売促進第一課のフロアが響動めく。
 春日は焦って、やめてくれと両手を振り回した。できることなら、「あれ? いつ戻ってたの」という具合に、まぎれこみたかったのに。
「谷山さん、何が、じゃなくて、誰が、なんですよ。その誰かとは、ジャーン。わが販売第一課のアシスト、大島真理子ちゃんでーす!」
 いつのまにか二人の背後にきていた、スキーツアーのメンバーだった武村が、谷山よりも大きな声で言ったものだから、とたんにみんなが注視する。
 春日は恥ずかしさのあまり、部屋を出ようとした。と、腕を捕まれ、引き戻される。
「なに照れてんだよ。ほら、大島さんにお礼言わなきゃ。命の恩人だぞっ」
 タイミングよくというべきか、間が悪くというべきか、武村が叫んだとき、真理子がちょうど部屋に入ってきた。ドアのところで立ち竦んでいる真理子に、周囲からパチパチと拍手が起こる。
「真っ赤になっちゃって可愛いねぇ、お前の女神様は」
 真理子は手にしていた書類で顔を隠すようにして俯いた。女の子らしいその姿に口笛が飛ぶ。美人ではないが、ぱちっとした目と、小さく厚めの唇、黒く長いストレートの髪に白い肌の彼女は、博多人形みたいだと人気がある。
 脇腹をつつかれ、からかわれて、春日はゴホンと咳払いした。何を言うのかと、みんなが期待の目を向ける。
「えー、私、春日浩平は、間抜けなことに、スキー場で遭難いたしました。危ないところを大島さんに助けていただきました。ありがとう、大島さん」
 頭を下げる春日に、一際大きな拍手と、口笛が飛びかう。真理子もぺこんとお辞儀をする。
「でぇ! ちょっと凍傷とかなったものですから、約五日間、入院のため、仕事を休んでおりました。が、すっかり元通り元気になりましたので、本日より仕事に復帰いたします。休んでいた間、ご迷惑をおかけし、入院中は心遣い頂きまして、本当にありがとうございました」
 ほとんど自棄糞のスピーチにも、盛大に拍手される。春日にとって、不名誉な入院であったので、こんなに大袈裟にされるのは避けたかったのに。
「もう復帰の挨拶はいいだろう。各自仕事に戻るように。春日くん、元気な様子は嬉しいが、もし体調が変わってきたら早めに申告するように。以上」
 一課の課長は、かの喧騒をその言葉と、二回手を打っただけで収めてしまった。
「お見事」
 ついちゃちゃを入れてしまう武村だった。もちろん、課長には聞こえないように。
 席に着くとき、真理子と目が合う。
「もう大丈夫なの?」
 にっこり笑いかける彼女に、春日はぎこちない笑みしか返せなかった。それがどうしてなのか、実は春日にもはっきりわからない。
 普段の春日なら、調子良くお礼をいい、軽いノリで命の恩人を奉ってみせるのに。
 今もそうしたほうがいいのだと思いつつ、軽く笑うつもりが、喉から出るのは咳か笑い声かといった変な音だ。
 実際、思っていたよりも彼女のことを意識しているのだろうかと考えてみる。
 だが、入院中もそうであったように、真理子に対して何かお礼をと思えば、彼女の面影に重なってくる人がいる。
 入院中は、その人が毎日来てくれたからだろうと思っていたが、今も真理子の顔を見て、一瞬、違う笑顔が浮かんだ。 
 それを悟られたりするのはひどく後ろめたく、仕事に戻るふりをして、彼女の視線を避けた。
 そうして殺人的と思えるような、オフィスの音の中に、春日は自分を埋もれさせていった。





 それは考えてみれば、たった一週間前のことだった。
 会社の同僚に誘われるまま、春日は六人のメンバーでM高原にやってきた。会社の同僚といっても、気のあう仲間たちとの気軽なグループ旅行だ。
 二月半ばの連休はテスト中なのか学生が少なく、比較的空いていて滑りやすい。
 スキー場はナイター設備も整っており、夜が更けるまで滑り続けた。数年ぶりのスキーが彼を高ぶらせ、気持ちまで幼くしてしまったのか、皆が帰るというのに、ライトが仄めくゲレンデをどうしても一人っきりで滑ってみたくなり、ほんの少しだけ遅れて戻るつもりで先に帰ってもらったのだ。
 ホテルはスキー場から見えており、何も不安などなく、皆も手を振って、呆れながらも帰っていった。
 なのに……。
 早く戻ろうと焦ったのが悪かったのか、春日は、スキー場から外れた森の中に踏みこんでいく。
 最初は抜け道なのかと思ったほど、積もった雪が踏みしめられていたのに、その道がだんだん細くなり、ついには行き止まりになってしまう。
 仕方なく戻り始めたとき、雪は降り始めた。足跡が消えてゆく。そんなことに気づく余裕は既にない。
 急ぐ気持ちがまずかったのだろう。どこかで方向を見誤ったらしく、覚えのない景色に戸惑ったり、同じ場所に出てきたりして、ようやく大変なことになったと気がつく。
 気持ちを落ち着けて、自分の進むべき方角を探ろうとしたけれど、月どころか、星など何一つ見えない。絶望の眼に映るのは、チラチラと降りてくる雪ばかり。
 スキー板は重く足手纏いになったので、置き去りにする。明日になってから捜せばいいと。
 雪はしんしんと降り続き、止む気配もない。
 とにかくどこまでも真直ぐにいこう。そんなに深い森じゃないはずだ。どこか道に出れば民家や電話がある。そう思い、自分の周りを見渡して、急に恐怖が襲ってくる。
 深淵の闇。どこもかしこも真っ暗で、灯り一つない世界。その暗やみが果てしなく続くような錯覚。
 木の葉も黒く、その先に広がる空も深い闇。落ちてくる雪に押し潰されるような気がして膝が震える。
 突然背後で重い音がする。飛び上がるほどの驚愕。雪が木から落ちる音にさえ逃げ出すほど、闇は圧迫感をともなって襲いかかってくる。
 道はないのか、灯りはないのかと、前後左右をせわしなく見回したけれど、目的のものは見つからない。かえって、闇の深さを自覚しただけ。
 すべてが闇に消えて、この世にたった一人になったような猛烈な寂寥感に、身体が大きく震える。
 待とう。朝までここで待とう。
 そうすれば、少なくとも暗闇の恐怖から逃げられる。
 大きな木の幹に腰かけて、流行の歌を大声で歌う。何かで気を紛らわせていなければ、おかしくなりそうだから。
 それでも声がかすれ、寒さに歯の根があわなくなる。歌も思いつかなくなり、黙ってじっと足元の雪を見つめる。
 疲れが一度に身体を支配してゆく。
 眠っちゃいけないと思いながら、暖かい毛布に包まれているような錯覚になり、瞼を閉じる。少しだけなら大丈夫だと思って……。

『眠っちゃ駄目』
 遠くで声がした。透き通った声。
(眠りたい。邪魔するな)
 ずるっ、ずるっと引きずられながら、気持ちのいい夢の中でわめいた。
『頑張って』
 その声はとても遠い。必死な呼び声。
 心の奥底で反響する声を意識の遠くで聞きながら、深い眠りに引きこまれていった。

 目覚めたのは病院のベッドの上だった。
 生還者といわれるのは仕方のないことだったが、その原因が子供じみた行為から出たものであれば、すこぶる格好悪い。
 スキー場の外れの森の中で遭難して、それを探しに出てくれた仲間の、しかも女性に助けだされたなんて。
 おまけに凍傷の入院付き。しばらくは笑い話の種になるだろう。
 だが、そんな遭難事故を回想すれば、憂欝よりも、真っ先にある人物を思い出す。
 山端慎吾という、まだ十七歳のその少年は、ホテルのオーナーの息子だと、事故の後で知った。いつも脇に抱えていたスケッチブックが、スケッチのためだけに必要ではなかったことも。
 慎吾を初めて見かけたのは、ホテルの中庭にある小さな温室だった。彼はそこで植物たちの世話をしていた。慎吾がただの客でないとわかったのは、彼が緑色のエプロンをつけ、手袋を嵌めていたからだ。
 温室にいなければ、ホテルのフロントの片隅でパソコンの入力をしていた。
 どちらのときも俯き加減の顔は半分以上髪に隠されている。何かの拍子に視線が合うと、くっきりとした二重の目が細められ、ちょこんとちょっと斜めのお辞儀をする。
 その仕草がとても愛らしかった。緑の中に埋もれた彼の姿に、目をひかれ、その中の和やかな空気がとても気分好くて、春日は一度ならず、温室に足を運んだ。そこにいるだけで、自分の心も静かに凪ぐような気がして。
 そんなふうに思っているのは春日だけらしく、旅行のグループの面々は温室にいこうと誘うと変な顔をするので、結局こっそり出かけていた。

 入院中、沈む気持ちを安らげてくれたのが温室で見かけた少年、慎吾だった。
 仲間たちが一足先に帰り、春日は一人病室で情けない思いを噛みしめていた。多くの人に心配と迷惑をかけ、助けだされた惨めな自分に嫌気がさす。仲間たちは、春日が無事だったのと、彼を救ったのが真理子だったということで、かなり盛り上がっていたが、そんなことを自分までもが喜んでいていいはずがないと、それくらいの分別は持ち合わせていた。
 その分別をスキー場で見失っていたのが、いかにも悔しい。
 その時部屋をノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
 寒さに喉がやられて、擦れた声しか出せない。どうせ医者か看護婦しか入ってくるものはいない。家族には遭難のことさえ知らせないよう、周りに頼みこんだので、駆けつけてくれるものなどいない。
 不自然な間のあと入ってきたのは、ホテルの温室で見かけた少年だった。
 華奢な身体を、病院に現われたときは白いオーバーコートに包んでいて、それがとてもよく似合っていた。そのまま温室の飾りとして置く人形だと思えるほどに。
 彼が何故お見舞いにきてくれるのかわからないままも、春日はベッドの上で身体を起こして頭を下げた。
 少年はにっこり笑う。右に八重歯が覗き、それがまた彼を少女のように見せている。
 ベッド脇に歩み寄り、少年は名詞より少し大きめのカードを差しだした。



     私は山端慎吾といいます。
     私は耳が聞こえません。
     けれどあなたの言うことは、
     唇を見ればわかります。
     どうか私のほうを見て、
     ゆっくり話してください。




 春日は信じられない気持ちで少年の顔を見た。
「だって、俺が温室に入ったら、振り返ったよね?」
 春日の唇をじっと見ていた慎吾は、脇に持っていたスケッチブックを開くと、そこにペンで何かを書き始めた。
『温室の扉が開くと、空気の流れが変わります。だから、誰かが入ってくれば、すぐにわかります。』
 なるほどと思い、彼の鋭敏さに気づく。
 気軽に誰にでも声をかけるほうの春日だが、慎吾のことは見ているだけだった。何となく触れがたい、そう、触れたら枯れてしまう花のような気がしたのだ。自分の柄にない考えが、誰に言ったわけでもないのに、気恥ずかしくなった。
 さらさらと書いたにもかかわらず、慎吾の字はとても綺麗だった。変な癖もなく読みやすい。
 慎吾は自分がホテルのオーナーの息子であること、オーナーは春日のことをとても心配しているのだがあまりにも忙しく、代理で見舞いにきたことなどを説明した。
 カードに書いてあったとおり、春日の言うことは正確に理解している。彼が書くのも結構早いので、楽しく会話は進んだ。慎吾が書くのを待っている時間も、本当なら焦れったいはずなのに、どんな答えが飛びだすのかと思うと、それだけで楽しんで待つことができる。
 午前中の憂欝が嘘のように、面会時間はあっけないほど短く感じた。
 それから慎吾は、毎日来てくれた。
 彼との会話は楽しく、一緒にいたいという願望がこの時間を永遠に続くものだと錯覚させる。
 八歳も年下の、この少年との会話がこんなに楽しいというのは、春日には不思議だった。
 別に流行の話をするのでもない、冗談を言っているわけでもない。どんな本を読んだとか、植物の世話が楽しいとか、慎吾はスキーだけでなくスノーボードもするだとか。本当に他愛のない話が、純粋に楽しい。
 慎吾が笑うと八重歯がのぞく。その歯を見ると、ドキッとすることがある。声を出さずに笑う慎吾にとって、その歯が喜びを一層引き立てているように見える。
 請うて彼が手にしていたスケッチブックを見せてもらった。
 文字が溢れるページの合間に、見事なスケッチが交じる。前の方は慎吾が世話をしている温室の花たちだった。
 初めてそれが出てきたとき、春日は驚いてページを繰る手を完全に止めてしまった。
 ホテルのロビーだろうか、椅子に座って笑っている自分の姿があった。
 ぱらぱらとめくって自分。
 花の次にまた自分。
 どこで見ていたのだろう、滑っている姿のものもあった。
「これも、俺?」
 慎吾にその絵を向けると、照れ臭そうに笑って頷いた。
「すごいなあ、自分の姿を描いてもらうなんて初めてだ」
 絵に見入って呟くと、肩をトントンと叩かれた。顔をあげると、慎吾が唇をつついている。下を向いて言ったので、彼は読み取れなかったらしい。
「自分の絵なんて、初めて描いてもらった」
 春日が照れ笑いすると、慎吾はスケッチブックを奪い、新しいページをめくって書きこむ。
『勝手に描いてごめんなさい。』
「いいんだ、そんなの。その絵、貰えないかな?」
 指差して頼むと、慎吾はあわてて首を横に振った。
『貰ってもらえるのなら、もっと綺麗に描き直します。』
 それでいいよと言うのに、慎吾はそれからスケッチブックを見せなかった。
『出来上がったら送ります。』
「楽しみにしている。俺も手紙を書くから」
 慎吾はにっこり笑った。

 退院のその日、春日はホテルの送迎車で駅まで乗せていってもらった。隣には、淋しい目をした慎吾が座っている。
「きっとまた来るよ」
 慎吾に語りかけるが、慎吾は俯いたままで、春日の言葉を読み取ろうとはしてくれなかった。
 春日は慎吾のスケッチブックを奪い、新しいページに、大きな文字で書いた。おおらかといえば美化しすぎだろうか。とにかく豪快に書いた。
『またここへ来る。手紙も書く。』
 車に揺られ、文字も波打つ。慎吾はノートと春日を見比べ、弱々しい笑顔で頷いた。


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