兄弟のいない千秋にとって、秀一は兄だった。遊びも、悪戯も、勉強も、思春期の悩みも、何もかも秀一に教えてもらった。
 一緒にお風呂に入ったことも、一つのベッドで寝たことも、一本のジュースを分けあって飲んだことも数えきれないくらいあった。 秀一と自分の垣根なんてないに等しかった。なのに秀一は、先に大人になっていた。
 いつしか千秋の知らない匂いをさせ、未知の領域に入っていった。
 千秋は置き去りにされて、秀一を自分の範疇に取り戻すために、彼に無理難題を言い続けた。その時だけ秀一は昔と変わらぬ目を向けてくれたから。
 けれど、彼は「兄」という衣を脱ぎ捨てた。気がつけば、一人の男として千秋の前に立ち、千秋にその想いをぶつけてきた。
 ずっと変わらぬ関係でいられると思っていたのに、秀一がそれを壊してしまった。
 千秋は人の心を型に嵌めようとすれば、歪みがくることを悟れるほど、大人にはなりきれていなかった。



 陽が沈む間際、街は濃いパープルに煙る。その中に白いワンピースがぼんやり浮かぶ。 綺麗な絵だった。大きな犬が連れられて歩いている。その女性を引っ張るでもなく、鎖など必要ないと思わせるほど、従順に付き添っていた。
 千秋はいつもの橋の上からではなく、堤防からその女性を見ていた。
 一陣の風が女性のスカートの裾を翻す。ふわりと白いものが舞い、風に吹き上げられて、千秋の足元に飛ばされてきた。
 白いハンカチを拾って彼女を見た。瞬間目が合ったような気がした。千秋からは対岸の工事現場の灯りが逆光になって、彼女の表情は全く見えなかったけれども、見られていると感じた。
 ハンカチを返そうと千秋が足を一歩踏みだすと、彼女は急に向きを変えて走り始めた。犬は突然の行動に驚きながらも、長い毛をなびかせながら、彼女にピタリとついて走っていった。
「どうして?」
 千秋は呆気に取られていたが、手に残された綺麗なレースのハンカチを返すために、彼女を追いかけた。
 途中で一度わからなくなってしまった。夜目にも映える白いワンピースだったが、住宅地に入りこまれて、見失ってしまったのだ。 道の向こうからダックスフンドを散歩させている男の人が来た。どうしようか迷ったが、手の中のハンカチが千秋に決心させた。近づいてみると、足の短い犬は吠えなくて助かった。
 彼女の特徴を言うと、家を教えてもらえた。この界隈でも特に大きいその家はすぐにわかった。
「でけー……」
 ポカッと口を開けて門を見上げていると、中から犬の鳴き声がして、砂利を踏む音が門に近づいてきた。
「どうしよう……」
 回りに隠れるところもなく、次の角までは左右どちらも百メートルほど、この家の塀が続く。
 オロオロしている間に、中から門が開けられた。
 長身のスリムな男性が出てくる。ショートレイヤードの髪が彼の端正な顔に良く似合っていた。
「しゅ……秀ちゃん? なんで?」
「千秋こそ、こんなところで何をしているんだ?」
「秀ちゃん、ここの人、知ってんの?」
「ああ? ……まあな」
 何かを隠そうとする秀一の態度に、千秋はかっとしてしまった。
「なんだよ。ここの人と付き合ってるなら、何も隠すことないだろ! 俺がハスキーと仲良くなろうとするのまで邪魔してさ。せこいよ! 犬に触れない俺のこと、本当はバカにしてたんだ!」
 叫んでいる言葉が支離滅裂なのも、わからないほど興奮していた。
 秀一が隠し事をしていた。
 秀一に恋人が出来た。
 秀一はもうワガママを聞いてくれない。
 秀一を独占できない……。
 心に渦巻く怒りに似た哀しみの帰結が、あの女性に対するものではなく、秀一と自分との関係であることに気がついて、千秋は秀一の言い訳を聞けずに、逃げ出した。
「千秋! 誤解だ!」
 立ち止まってはいけない。秀一に自分の心の中の哀しみを決定づけられたくない。一人で泣くくらいは、出来るから……。
 そうだ。ハスキーの暖かい身体を抱いて泣こう。千秋はハスキーを自分の友達のように感じて、また切なくなった。ハスキーは秀一の犬だったと気がついて……。

 結局、ハスキーを抱き締めることは出来なかった。ハスキーのところにいれば、秀一が帰ってくる。逃げ出した意味がない。
 千秋が家に戻ると母親は出掛けていて留守だった。
「ばあちゃんのとこか」
 キッチンのテーブルの上に書き置きがあった。父親と二人で行ったらしい。必然的に千秋は今夜一人で留守番となる。
「ちょうどいいや」
 こんな酷い状態の顔を見られたら、過保護の気のある父親が何かと詮索してくるに決まっている。
 千秋はノロノロ階段を上がった。ベッドに寝転ぶと、もう泣かないと思っていたのに、涙がじわじわと湧いてくる。
「っくしょう!」
 腕でゴシゴシと涙を拭った。
 泣くものかと思う。秀一を失ったことは辛くないのだと思いたい。
 何がこんなに悲しいのだろうと考えると、どうしても秀一のことを思い出してしまう。 秀一のことを考えないでおこうとしても、今までの人生を振り返れば、そこに必ず秀一がいた。楽しい思い出の中にも、悲しい思い出の中にも、自分はいつでも呼び掛けていた、「秀ちゃん」と……。
「俺って、情けないよなー」
 千秋はグズグズと泣きながら、枕に顔を埋めた。誰も見ていなかったけれど、泣き顔を見られたくないという無意識の行為だった。
 どれくらいの間そうしていただろう……、玄関のインターホンの音がした。千秋は枕から顔を上げて、どうしようか迷った。
「セールスとかだったら嫌だな……」
 千秋は来客を無視することに決めた。窓の外は真っ暗で、お腹は空腹を訴えている。
 再びインターホンの音がする。
「誰だろう……」
 そう言いながらも、心の中は一人の人の名前を思い浮べている。彼が来てくれたのだろうか。
 でも、と思いなおした。秀一ならインターホンなど鳴らさずに、隣の窓から直接呼ぶだろう。
 やっぱり無視することにした。
 三度、インターホンが鳴る。居留守を使っていることを知っているかのようで、千秋はうんざりした。
「うるせー!」
 見えない人物に対する怒りが、いつしか千秋の本来の性格を呼び戻していた。
 階段を足音高く下りて玄関を勢いよく開けた。
「しつこいっ! いま留守なんだよっ!」
 暴言の向こうには、あの女性が立っていた。 白いワンピース。長い髪。大きなつばの帽子で、その顔は隠れてしまっている。
 犬は連れていなかった。
「な……、何……、秀ちゃんの家なら、隣、ですけどっ」
 上擦った声で千秋がそれだけ言うと、彼女は被っていた帽子をゆうっくり、脱いだ。
「……っ!」
 真剣な顔が、千秋をじっと見つめる。目を反らせない。目を反らさせない。
 彼女は千秋に目を据えたまま、長い髪を引っ張った。バサリと髪が足元に落ちて、黒いうねりを作る。
 その髪の束を見ていた視線を上げると、「彼女」は短い髪を手で直して、千秋にそっと言った。
「僕は彼女とは付き合えないよ。わかっただろ?」
 「彼」は苦々しく笑うと、ワンピースを脱いだ。Tシャツにランニングパンツ姿になって、彼はようやく千秋にいつもの優しい笑顔を向けた。
「秀ちゃん」
「とにかく、僕の無実を信じてくれたのなら、話を聞いてくれるな?」
 千秋は頷いて、秀一を家に上げた。

 リビングのソファで向かい合って座ると、誤解は解けたものの、何となく気まずい空気が二人の間に濃く立ちこめる。
「アルバイトをしていたんだ」
 唐突に秀一は口を開いた。
「アルバイトー?」
「ああ。あの屋敷の爺さんの死んだ娘に、僕がよく似ていたらしいんだ。それで、死んだ娘のふりをして、あの犬の散歩をしてくれと頼まれた」
「抵抗なかったのかよ」
「あったさ。でも、バイト代が破格値だった。だから、週末だけという約束で始めたんだ。散歩の時間も、日が暮れてからでいいということだったし」
「金のために、あんなことまですんなよ」
「お金のためじゃないよ」
「じゃあ、なんだって言うんだよ! バイト代がいいから、女装までしたんだろ?」
 千秋は腹立ち紛れに秀一を詰ったが、彼の目は曇りもなく千秋を見つめ返してくる。
「言っただろ? 千秋が好きなんだ」
「好きだなんて言うな」
 命令形だったけれど、その口調はとても気弱だった。
「どうして? もうこの気持ちは隠せない。だから、言うよ。ずっと昔から、千秋が好きだった」
 視線を受け止められずに、千秋は俯いた。自分の爪先が目に映る。
「いつも、いつも千秋だけを見つめてきた。それは知ってるだろ?」
 千秋は首を横に振った。
「嘘。千秋は知っていた。今も知ってる。僕がずっと千秋を見てきたことを」
「知らない」
「千秋がもう少し大人になるまで待つつもりだったんだ。僕の気持ちが恋であることに気がついてくれるまで」
「だったら、どうしてあんなことしたんだよ」「嬉しかったんだ。千秋がずっとハスキーについててくれたことが」
 秀一の声は穏やかだった。千秋を押し倒した時のような、あんな激情はなかった。
「真っ暗な道を帰ってくる間、ずっとハスキーのことを考えてた。前のハスキーが死んだことを思い出してしまって苦しかった。動かないハスキーを思い浮べてしまって、居ても立ってもいられなかった。
 玄関を開けたら、千秋とハスキーがとても気持ちよさそうに寝ていて、感動した。千秋がハスキーのことを守ってくれたんだとわかって、嬉しくて、好きだって言う気持ちしか持てなくなった。隠せないほどに」
「そんなの勝手だ」
「ごめん。でも、もう駄目なんだ。一度堰を切ってしまえば、以前に戻すなんて出来ないよ……」
 秀一の苦しげな声に、千秋はそっと顔を上げてみた。
 秀一はもう千秋を見ていなかった。膝に肘をついて、額を組んだ手の上に乗せていた。 何を言えばいいのかわからなかった。何を言えば、今の苦しみから秀一を救えるのだろう。どうすれば、秀一と自分は以前の関係に戻れるのだろう。
 千秋は自分で答えを見つけられなかった。いつも秀一に相談して、秀一に答えをもらっていたことを思い出す。
 千秋は情けなくなって、自分を笑った。
 今まで黙っていた千秋の突然の笑い声に、秀一は顔を上げて千秋を見た。
「千秋……」
 千秋の口からは笑い声が出ていたけれど、目からは涙が出ていた。
「千秋、泣くなよ。僕、そんな酷いこと、言ったのか?」
 千秋は泣き笑いのまま首を振ってそれを否定した。
「わかんないよ。俺、なんにもわかんなくなった」
「何もわからなくていい。僕が千秋のことを好きなことだけわかってくれれば、それだけでいい」
 首が激しく左右に振られる。
「そんなの、一番わかんない。秀ちゃんのいう好きと、俺が秀ちゃんを好きなのと、きっと違う」
「そうだな。僕が好きなのは、愛してるという意味だから。千秋のこと、抱き締めたいという意味だから」
「それがわかんないって! そんなの信じられない!」
「だったら、どうすれば信じてくれる?」
 思わず強い視線に捉われて、千秋は言おうとしていた言葉を飲み込んだ。秀一は自ら試されようとしていることがわかった。
 自分の気持ちを試されることで、どれほど傷つくことになっても、それでも千秋にその気持ちを見せようとしている。
 千秋がまだ恋愛感情というものを理解しないなら、そうするしか方法がないと思ったから、秀一は自分の心をかけた。
 唇を噛んで、言葉を探していた千秋は、もっとも酷い選択を秀一に押しつけた。
「俺のことが本当に好きだったら、ハスキーを捨ててきてよ」
 瞬間息を飲んだ秀一は、けれどすぐに立ち上がった。
「出来ないよね」
「ハスキーを捨ててくればいいんだな?」
「出来やしないさ」
「出来るさ。ハスキーを捨てることで、千秋が僕の気持ちをわかってくれるなら、今すぐにでも、捨ててくる」
「出来もしないことを言うな!」
「どうしてそう思う? 僕は本当にハスキーを捨てられるよ」
「だったら、どうして俺が嫌いな犬を十二年間も飼ってきたんだよ。俺よりハスキーが好きだからだろ!」
 千秋は秀一を涙で濡れた目で睨んだ。いつだって思っていたこと。自分が嫌いな犬を、秀一は大切に育ててきた。それだけで疎外感を感じていたなんて、秀一は知らない。
「千秋が僕にくれたからじゃないか」
「は?」
「最初のハスキーも、今のハスキーも、千秋が僕にくれたものだ。だから大切に世話をしてきた。千秋が捨てろと言うのなら捨ててくる」
「俺はハスキーをあげたりしてない」
「忘れてるだろうと思っていたけどな。でも、本当にハスキーは千秋が持ってきたんだ。4才の千秋が、犬を捨てていくんだと言って、僕にハスキーを渡した。僕は千秋がくれたものだから、大切にした。それだけだよ。そうでなきゃ、犬なんて飼わない」
「俺が捨てたの? ハスキーを? 隣の家に?」
 言われた意味を理解出来なくて、千秋は秀一の告白の中から、大切なキーワードを確認する。
 秀一ははっきり首を上下させた。
「そんな時から好きだったとか言う?」
「言う」
 明確な答えに、千秋はめまいを起こす。
「だって、俺はまだ四つで、秀ちゃんは小学三年生?」
「初恋だな」
「嘘だ。そんなの」
 しばらく視線を絡ませた後、秀一は出口に向かった。
「どこへ行くの!」
「やっぱりハスキーを捨ててくる。そうしないことには、千秋は信じてくれないから」
「待ってよ!」
 千秋は慌てて秀一を引き止めた。ドアを開けた秀一を追い掛け、Tシャツの裾を握り締める。
「待てよ。わかったから、ハスキーを捨てないで」
「好きなんだ。千秋のことが」
 振り返るなり、秀一は千秋の身体を抱きしめた。小さな身体は秀一の胸の中にすっぽり納まる。
「好きなんだ。ずっと……」
 秀一は囁きながら、千秋のほわほわの髪を撫でていた。ビロードのような手触りが、秀一を惑わせる。いや、既に惑わされ続けてきた。千秋が秀一の世界のすべてだった。
「もう、待てないんだ」
 その言葉の意味を考えて、千秋は身体をかたくした。抱き締められた胸の中で、Tシャツをギュッとつかんだ。




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