「もう、待てないんだ」
 その言葉の意味を考えて、千秋は身体をかたくした。抱き締められた胸の中で、Tシャツをギュッとつかんだ。
「俺、あの人に近づきたいと思った」
 秀一が演じていた女性のことを言ってるのだろうとわかった。
 それはわかっていても、千秋が女性に恋したことが、秀一にとっては辛い。
 抱き締めていた手に、意志とは別の力がこもった。
「だから、ハスキーの散歩が出来るようになりたいって頼んだ」
「もういいよ」
「よくない。ずっと後ろめたかったんだ。ハスキーが俺に懐いてくれたから、特に」
 Tシャツを握っていた手が開かれて、秀一の背中に回された。身体が密着する。
 羞恥が駆け昇ってくるけれど、それに勝る安心感があった。
 ずっと、この場所にいたかったのだと、千秋は自分の心の声を聞いた。
「ハスキーは千秋のこと好きだから、どんな理由だったとしても、嬉しかったんだよ」
 頭の上からする声に包まれて、千秋は守られていることを実感した。
「俺、淋しかったんだ。秀ちゃんは大学に入ってから大人になったみたいで、ちっとも俺の相手もしてくれなくなって……。ハスキーを口実に使っちゃったのかもしれない」
 素直な千秋が可愛くて、秀一は目の前の髪に口づけた。ふわりといい香りがする。
「忙しかったから。別に千秋のことを忘れたわけじゃない。土、日はあのバイトがあったし」
 それを聞いて、千秋はクイッと顔をあげた。大きな目が秀一を見つめる。
「そうだ! どうしてあんな変なバイトしたんだよ。プライドとかないの?」
 秀一は微笑った。苦々しい笑いだったけれど、それは嬉しそうでもあった。
「バイト代がよかったから」
「それは聞いたよ。どうしてそんなにお金がいるんだよ」
「車を買おうと思っているからね」
 千秋はもがいて秀一の腕から逃れようとしたけれど、彼はそれを許さなかった。ますます力をこめて抱き締めてくる。
「車? どうしてそう話が飛ぶんだよ」
「千秋が前に乗りたいって言っただろ? MR−2。あれってとても高いんだ」
 千秋は秀一を見つめて、瞬きをした。秀一を見上げなければいけないので、いい加減首が疲れてきている。
「何、それ?」
 忘れているだろうとは思っていたけれど、そこまできれいに忘れられていると、ちょっと恨み言も言ってみたくなる。
「半年ほど前に僕の家に友だちが来て、千秋があんな車に乗ってみたいって、言ったじゃないか。羨ましそうに。あいつ、それを聞いてて、千秋みたいに可愛い子だったら、いつでもデートに誘うって言ったんだ」
 実際その友人はあれから何度も秀一に千秋を紹介しろとうるさかった。秀一は必死でそれを阻止してきたのである。
「背の低い、赤い車?」
「そう。あれがMR−2」
 秀一は首を動かすたび揺れる、柔らかな髪を指ですくった。
「そんなこと、言ったかな?」
 秀一は笑って、千秋の耳をつまんだ。
「言ったよ。高い車で、どうやって手に入れようか悩んでいたら、ハスキーの散歩の途中で声をかけられて、話に乗ったんだから」
「車なんてどうでもよかったのに」
 千秋は額を広い胸に、トンとくっつけた。心臓の響きが伝わってくる。
「でも、バイトをしたおかげで、千秋はハスキーと仲良くなる気になってくれたし、僕も自分の気持ちを打ち明けられた。後は、千秋の気持ちを聞くだけ」
 あらわになったうなじを撫でられて、首を竦めた。顎に手がかかり、顔を引き上げられた。
 否応無しに目が合う。逸らすことの出来ない真剣な瞳が千秋を見つめる。
「千秋の気持ちを……。僕が好き?」
 そんな聞かれ方をしたら、嫌いとは言えない。だって、嫌いじゃないから。嫌いになんてなれない。
 かすかに頷くと、唇がおりてきた。
 あわされた唇はとても優しくて、最後の抵抗感さえ、きれいに拭い去ってしまう。
 最初は優しかったキスが、次第に深くなっていき、熱い舌が訪れると、千秋は前の時を思い出して、肩を揺らした。気持ちより先に、身体が逃げようとしているみたいだった。 「あんな酷くはしない。千秋の気持ちが追いつくように、ゆっくりするから」
 つまり止めるつもりはないらしい。
 唇が離れて、頬に軽くキスをされた。
 秀一は軽々と千秋を抱き上げた。そのまま階段を上がり、千秋の部屋の前に立った。
「ずるい」
「何が?」
 千秋の非難に、秀一は何故ずるいと言われるのかわからず、問い返した。
「だって、秀ちゃんは俺の家のこと知ってるから、抵抗しても無駄だよな」
「そうだな。千秋の家も、僕のテリトリーの中に入るかな」
 ドアを開けて秀一は千秋をベッドにおろした。そしてゆっくり重なってきた。
 スプリングが苦しい音を出す。
「愛してるよ、千秋。誰にも渡さない」
 どんなわがままも聞いてくれる。千秋が言ったとたん忘れるような言葉も聞き逃さない。 それはわかっていながら、秀一の気持ちに気がつかなかった。
 シャツのボタンを外されて、熱い手が侵入してくる。息苦しくて、大きく息をする。それを宥めるように手が滑る。
 いくら呼吸をしても、苦しい。ドキドキが止まらない。
 着ているものを奪い取られて、秀一が着ていたものも脱ぎ捨ててある。素肌が触れ合うと、驚くほど熱かった。火傷をするのじゃないかと、本気で心配してしまう。
 裸なんて、お互い見慣れているはずなのに、見知らぬ人みたいな恥ずかしさが伴う。
 秀一の手に包まれて、それは大きく震えた。恐いほどの快感。
「愛してる。千秋」
 絶妙のタイミングで囁かれ、未熟な性欲は迸った。薄い胸が大きく上下する。
 渇いた唇をしっとりと舐められて、新たな感覚が沸き上がってくる。
 目の前にはいつも自分を見守っていた人がいる。母親に叱られて、泣きつく先はこの人だった。
「秀ちゃん……が、好きだ」
 小さく喘いだ声は秀一にしっかり届いた。 繰り返されるキスは優しくて、甘くて、千秋は息をつぐのにも身体の熱が上がるのを感じていた。フワリと浮くような快感と、ベッドに深く沈み込むような重み。千秋の手は秀一の肩をしっかり掴んでいる。
「千秋……」
 囁きが聞こえる。うなじにツキンと痛みが走った。
「あっ……」
 どうしてそんな声が出たのかわからないまま、けれど一度声が漏れてしまえば、もうどうやって止めていいのか、千秋は知らなかった。
「千秋……」
 呼ばれる声に答えようとしても、秀一の手で再び千秋の昂ぶりを捕らえられ、胸を吸われていては、口から出るのは甘い喘ぎだけだった。
「……んんっ!」
 自分がどのような状態になっているのか、考える隙も与えられず、千秋は身体の奥に小さな痛みを感じた。
「千秋、ちょっとだけ、我慢して……」
 何を? と聞く間もなく、それは押し寄せてきた。
「いた! 痛……い……っ」
 灼熱の嵐が襲ってくるみたいだった。身体が強い波にさらわれる。
「やめ……、やめて……」
 のしかかる身体を押し返すが、それはびくともしなかった。
「千秋……、身体の力を抜いて」
 出来ないと首を振っても、秀一は許してくれなかった。口づけでなだめようとする。
「千秋、愛してる」
 優しい告白と、それを告げるついばむようなキスで、千秋は身体の強ばりを解いた。
「ああっ……」
 身体中を秀一で満たされて、その強さに千秋は彼にしがみついた。
「千秋……」
「秀ちゃん」
 ようやく名前を呼んでもらえて、秀一は愛しさに千秋を抱きしめた。
 心が歓びの声を上げると、身体も熱くなる。そんな簡単なことが、ただ、ただ嬉しかった。
「あ……、ああ……」
 秀一に身体を揺さぶられながら、千秋は身体の中から浮かび上がってくる快感に、幽かな声を上げた。
 ずっと秀一に置いていかれる淋しさを感じていたけれど、やっと秀一を自分の傍に取り戻すことが出来た。千秋は途切れがちな意識の中で、満たされていく自分を感じていた。
「秀ちゃん……、好き……、ずっと……、そばに……、い…て……」
 潤む瞳に見つめられて、秀一は返事の代わりに、深く口づけた。
「どこにも、行かない」
 熱い身体が重なり、秀一の愛を受けとめ、千秋は沈むような眠りに引きずられていった。
「千秋、愛してる」
 夢とうつつの狭間で聞いた声が暖かで、千秋はとても幸せだと、微笑んだ。
 ずっと、髪を撫でられていたような気がする……。
「俺はハスキーじゃないのに……」
 そう思った後は、楽しい夢の中にいた。

 隣から響く聞き慣れた声に、微睡みを破られた。
「うぅん……」
 寝返りをうつと、何かに肩をグイと引き寄せられた。
 自分の意志とは関係ない動きに、千秋はうっすらと目を開けた。
「秀ちゃん……」
 秀一が優しい目で千秋を見ていた。左手で千秋の肩を抱き、右手は髪を撫でている。
「目が覚めたか?」
 首を巡らすと、窓の外は明るくなり始めていた。
 ハスキーが鳴いている。秀一は千秋の肩に上掛けを引き上げると、そっとベッドを抜け出た。
「どこへ行くの?」
「散歩に連れて行かなきゃ」
「俺も行く」
 千秋は布団を跳ねのけると、慌てて衣服を身につけた。
「大丈夫か?」
「何が?」
「いやー……、身体が辛くないかなっと、思って……」
 秀一のあまりな言い方に、千秋はカーッと真っ赤になった。
「ボケッ! 変態! スケベジジイ!」
 足で蹴ってやろうとしたが、秀一の言うとおり、それはちょっと辛くて……。結局、手で頭を叩いてやる。
「やっぱり元気な千秋がいい」
 叩かれても懲りた様子はなく、反対に千秋を抱き締めたりする。
「ハスキーを捨てるって言ったの、本気じゃないよな?」
 抱きしめた腕の中で、千秋は心配そうに尋ねてきた。
「うん? そうだな……。本当は、千秋の家に捨てるつもりだったんだけど」
 千秋がそれほどハスキーのことを大事に思ってくれるようになって、秀一はとても嬉しかった。
「そんなの、あり?」
「ああ。千秋もそうしただろ?」
 秀一の答えに、二人はクスクス笑いあった。「早く散歩にいこうよ。ハスキー、うるさいよ」
「そうだな。三人で散歩にいくのが夢だったんだ」
「ちっぽけな夢」
 千秋は照れて、秀一を残して階段を下りた。先に玄関を出て、七瀬家に向かう。
「ハスキー!」
「ウオン! ウオン!」
〔千秋ちゃーん。お・は・よ〕
 ハスキーは千秋の声に、喜んで鳴き声のトーンをあげた。シッポはブルンブルン音をたてて振られている。
「ハスキー、元気にしてたかー」
 すぐ隣に住んでいて、そんな挨拶もなんだが、秀一と喧嘩をしていた千秋にとって、ハスキーに触れるのは本当に久しぶりだった。
「ウオン! ウオン!」
〔元気だったけど、会えなくて淋しかったのォ!〕
 ハスキーは千秋に擦り寄って、そこに、濃く移った、ライバルの匂いを嗅いだ。
「ワン?」
〔あら? この匂いは……〕
 クンクンと鼻を鳴らしている。
「ハスキー、どうした?」
 いつもそばにいるので、千秋が微かに秀一の匂いを残していることはあっても、こんなに濃く移るはずがない。
「ウオン! ウオン!」
〔千秋ちゃん、どういうこと? アタシというものがありながら、こんなに秀一さんの匂いをさせてー!〕
 ハスキーは千秋の「浮気」を咎めるつもりで吠えた。
「よしよし、今日は、俺も散歩に連れてってやるからな」
「ウオン! ウオン!」
〔違うのよ。千秋ちゃんの浮気のことを言ってるのよ〕
 そうじゃないんだと、さらに鳴き声を大きくする。
「そうか、そうか、そんなに嬉しいのか?」
 まるで通じない相手に、ハスキーはガクンとうな垂れる。
「千秋、ハスキー、行くぞ」
 諸悪の根源が二人を呼びにきた。
 ハスキーは精一杯鳴いて、恨みをぶつける。
〔あんたって人はー。とうとう千秋ちゃんをー……〕
「ハスキー、千秋はもう俺のものだよ」
 ハスキーの気持ちを理解する秀一は勝ち誇ったように笑った。
 ハスキーは四本の脚で地団駄を踏む。
「ハスキー、踊ってるよ?」
 その言葉に、秀一はバカ笑いをし、ハスキーは疲れて座り込んでしまった。
 ハスキーのテリトリーを侵害した奴は、ハスキーの宝物を堂々と奪い取っていってしまった。
 でも、その宝物は、それからもずっとハスキーの世話をしてくれて、一緒に散歩にいってくれる。
 だから、テリトリーに侵入した奴を、ハスキーは渋々認めてやった。
〔仕方ないじゃない。アタシよりあいつの方が長く千秋ちゃんの傍にいたんだもん〕



 今日も元気な声が隣から駆け寄ってくる。
「ハスキー! 散歩にいこう!」




おしまい