何となく気まずくなってしまった千秋と秀一は、お互いに仲直りのきっかけをつかめずにいた。
 いつもならどんなに千秋が悪くても、秀一が折れる。そして言葉にはしなくても、態度で千秋が反省していることがわかって、すぐに元の二人になっていくのだが、今回は秀一が行動を起こす気配がない。
 千秋はどうして謝っていいのか、わからなくなっていた。いつも、いつも、いつの時も、秀一が笑ってくれたから、千秋は謝らずにいられたことを思い知らされる。
「千秋、ハスキーにご飯をやってきてくれる?」
 喧嘩みたいになって三日目、母親が千秋に七瀬家の鍵を渡した。
「何で? 秀ちゃんは?」
「今日から大学のサークルの旅行ですって」 そんなこと、ちっとも聞いていなかった。 秀一は出かけるとき、真っ先に千秋に話してくれるのに。ハスキーのことも、千秋を通じて母親に頼んでいたのに。
「もう出来るでしょ?」
「うん」
 今までなら母親がしていたことを、千秋が出来るようになった。それは、きっと秀一が望んでいたことのはずなのに……。それを秀一から頼んでもらえない。
 捨てられた子供のように、千秋は取り残された気分で、隣の家の門をくぐった。
「ハスキー」
「ウオン!」
 ハスキーはここ数日姿を見せてくれなかった千秋が来てくれたことがとても嬉しかった。尻尾を振り回して愛想をする。
 ハスキーは自分の小屋の影に、あの日以来捨ておかれたボールの残骸を見付けた。
 アレが原因で千秋が来てくれなくなった。千秋がアレを見付けたりしたら、また来てくれなくなる。
 ハスキーは慌ててそれを隠そうとしたが、千秋は餌の入ったトレイを持って近づいてきている。
 どうしてもアレを隠したかったハスキーは……。
「ハスキー。ステイ」
 千秋の声に、ハスキーは行儀よくオスワリする。
「ハスキー、OK」
 千秋はあまり待たせたりしない。ハスキーが座るとすぐにOKをやる。
「?????」
 いつもならあっという間に平らげるハスキーが、珍しくノロノロ食べている。どうも食が進まないようである。
「ハスキー、何か摘み食いしたか? って、そんなわけないか」
 鎖につながれた犬が摘み食いをするはずがない。千秋は不審に思いながらも、食欲のない日もあるのだろうと単純に判断した。
「もういいのか?」
「クー、クーン」
 ハスキーがトレイを鼻で押しやったので、千秋はハスキーを庭に放してやった。散歩にいけない日は、庭で運動とトイレをさせていた。
 ところがハスキーは庭を駆け回らないでじっとしている。
「ハスキー。どうしたんだよ。元気ないのか? 秀ちゃんがいないと、淋しいのか?」
 地面に伏せるハスキーの鎖を引いてやると、立ち上がってついてきた。玄関にはハスキーの寝床が用意してある。毛布とタオルを重ねたその寝床にハスキーはグッタリと横になった。
「ハスキー。どうかしたのか?」
 さすがに千秋もハスキーがおかしいことに気がついた。
「ハスキー。ハスキー」
 千秋がハスキーの背中を撫でてやると、ハスキーは少し顔を持ち上げて、「クーン」と鳴いてはまた寝てしまう。苦しいのか、息も速くなってきている。
「ハスキー、待ってろよ」
 千秋は急いで家に戻った。
「母さん。母さん! ちょっと来て!」
 玄関から上がらずに千秋は母親を呼んだ。「なあに? またハスキーに噛まれたとか言うんじゃないでしょうね」
 千秋の慌て振りを余所に、母親はのんびりとキッチンから顔をだした。
「ハスキーが変なんだよ! 病気みたい!」「え?!」
 二人で慌てて七瀬家に戻ってきた。ハスキーは、ハッ、ハッと短く荒い息をしている。「千秋、変なもの食べさせたんじゃないでしょうね?」
「いつものドッグフードだよ!」
 千秋の声は泣きだしそうになっていた。
「えっと……、動物病院はどこかしら」
 母親は電話をしてくると言って、家に戻ってしまった。
「ハスキー。ハスキー。どうしちゃったんだよー」
 どうしていいのかわからず、千秋はハスキーの背中を撫でてやる。そんなことしか思いつかなくて、千秋は悲しくなった。
 突然ハスキーが立ち上がって、「ゲッ、ゲッ」と口から先ほど食べたものを戻しはじめた。
「ハスキー!」
 千秋は恐くなって、玄関の隅で震えた。
 そうしている間にも、ハスキーは苦しそうに戻している。
「千秋、駄目よ。今日は土曜日でしょ。どこもやってないみたいなの」
「母さん! ハスキーが死んじゃうよ! どうしよう! どうしようっ!」
 戻ってきた母親に取りすがって千秋は訴えた。なんとか、なんとかハスキーを助けてもらいたくて。だが、母親にもどうすればハスキーが助かるのか、いい案は思いつかない。「とにかく、暖めなきゃ」
 母親はバタバタと家から毛布を持ってきた。それでハスキーを包んでやる。
「千秋、とにかく暖めてあげて。母さん秀ちゃんに電話してくるから」
「どこに居るかわかるの?」
「ええ。秀ちゃんに連絡とれなきゃ、七瀬さんに電話するしね。大丈夫。大丈夫」
 何が大丈夫なのか、母親は千秋を励まして、また家に戻ってしまった。
 一人取り残された千秋は震える足を叱りつけ、宥めながら、ハスキーに近づいた。
 毛布の上からそっと抱いてやった。
 ハスキーが目を薄く開けた。千秋を見付けて尻尾がほんの少し揺れる。
「ハスキー、頑張れよ」
 千秋は必死で撫で続けた。

 どうしてこんな時に思い出してしまうのだろう。
 それは五年前のことだった。
 七瀬家で八年間飼っていたシベリアン・ハスキーの「ハスキー」が亡くなった。
 あの時も、今の千秋と同じように、秀一が「ハスキー」を毛布で包み、ずっと、ずっと、撫でていた。
『ハスキー、頑張って。ハスキー、頑張って』 秀一の声が頭の中に甦ってくる。
 千秋はそんな秀一の後ろ姿を見ていた。
 やっぱりその頃も犬が恐くて、何も出来ないのに、千秋は秀一の後ろに居た。
 「ハスキー」は最期の時に、秀一の頬の涙をペロッと舐めて、静かに息を引き取った。秀一は声を殺して泣き続けていた。
 秀一は「ハスキー」を毛布で包むと、ゴシゴシと乱暴に涙を拭き、後ろで膝を抱えて見ているだけだった千秋に言った。
『ありがとう』と。
 そして、『ごめんな』と。
 あの時、千秋はどうして礼を言ってもらえたのか、どうして秀一が謝ったのかわからずに、彼にしがみついた。そして、千秋は声をあげて泣いた。

 思い出したくないのに、こんな時に限って、秀一の悲しい声や、震えていた背中を思い出してしまう。
 冷たく、動かない「ハスキー」の姿を思い出してしまう。
「ハスキー、嫌だよ。駄目だよ。秀ちゃん。帰ってきてよ。どうすればいいんだよー」
 千秋が秀一の名前を口にすると、手の下のハスキーの背中が大きく動いた。
「ハスキー!」
 ハッ、ハッ、と苦しい息をしながら、ハスキーはヨロヨロと立ち上がった。
「駄目だよ! 立ったりしたら!」
 千秋が止めようとすると、ハスキーはペロッと千秋の頬の涙を舐めた。
「ヒッ!」
 千秋は悲鳴をあげてハスキーを無我夢中で抱き締めた。
 「ゲホッ」という音と共に、ハスキーは茶色く変色したものを吐き出した。
 それで胃の中のものはすべて吐き出したのか、ハスキーはまた横になった。息は荒いものの、さっきまでの震えはなくなっている。「なんだ? これ?」
 千秋はハスキーが吐き出したものを突いてみた。
「ボールか?」
 それは確かに、ハスキーが秀一に取られまいとして噛み砕いたボールだった。
「お前……、これ飲んじゃったのか?」
 ハスキーは大きく息をしながら、千秋の手を舐めた。
「バカ! ハスキーのおおバカッ!」
 千秋は疲れて寝転んだままのハスキーを罵りながら、涙を止められずにいた。
 全身から力が抜けて安堵が広がっていく。「千秋! 秀ちゃんがすぐに帰ってくれるって……! ……あら?」
 容態の落ち着いた犬と、それに凭れて馴染む息子を見て、母親は素頓狂な声を出した。「もう大丈夫だと思う。変なものを飲み込んでたみたい」
 千秋はまだ力が入らず、ハスキーに身体を預けながら、それを指差した。
「これ? これが原因だったの?」
 母親はそれを見て笑った。彼女もちょっぴり、涙を流した。
 二人はそれから玄関を掃除した。ハスキーが大騒ぎをした「記念の品」は、母親が持ち帰った。明日、医者に見せるときに必要だが、ハスキーの目につくところには置いておきたくなかった。
「俺、今夜はハスキーと一緒に寝るよ。秀ちゃんが帰ってくるまで。心配だから」

 秀一は夜行バスとタクシーを乗り継いで家路を急いだ。
 彼もまた、五年前のことを思い出していた。忘れたくても忘れられない、「ハスキー」のこと。
 魂をもぎ取られるような悲しみ。
 それから十三年前のこと。幼い千秋が、段ボール箱を抱えてやってきた。
「何しに来たの?」
「犬を捨てにきたの」
 兄弟を欲しがってむずがる千秋のために、両親が小さな犬を買ってきた。が、一人息子はその犬を恐がり、隣の家に犬を捨てに行ってしまった。
「ハスキーっていう犬だって」
 今ならその時の聞き間違いを笑えるが、あの時はその犬の「名前」が「ハスキー」というのだと思ってしまった。
 千秋が「くれた」ものだから、大切に育てた。
 小さな千秋は、自分が「捨てて」いったもののことなどすぐ忘れてしまって、自分が犬を嫌いなのを知っているのに秀一が犬を飼う、と怒った。
 大切な「預かりもの」を死なせてしまった。 その間、千秋はずっと見守ってくれた。  だから『ありがとう』と言った。
 大切にしなければいけないものを死なせてしまった苦しさから『ごめんな』と謝った。 それからすぐに、千秋は秀一のところに駆け込んできた。
『友だちんとこの犬が赤ちゃんを産んだ! なかの一匹が「ハスキー」にそっくり!』
 もう犬を飼うつもりはなかったのに、その一言でまた「ハスキー」を飼うことになった。 初代の「ハスキー」も、今の「ハスキー」も、千秋に連れられて秀一のところにやってきた。
「ハスキー。頑張ってくれよ」
 届くはずのない声を、秀一は洩らした。

 玄関を開けて驚いた。
 ハスキーと千秋が一つの布団にくるまって眠っている。腹が立つほど、スヤスヤと。
 何のために戻ってきたんだ? と、言ってやりたい。
 だがその言葉も、状態が良くなったらしいハスキーと、千秋の無邪気な寝顔を見ていると、どこかへ消えてしまう。
 やわらかそうなくせ毛に、つい手を伸ばしてしまう。正気の時なら、絶対触らせてもらえない。
「ん……」
 千秋の微かな身じろぎに、ハスキーが反応し、パチリと目を開けた。青い目が秀一を見つける。
「しーっ」
 秀一がハスキーの口を押さえると、ハスキーはそのまま吠えずに、ゆっくり体を起こした。
 ハスキーが大丈夫なのを確かめると、秀一は千秋を抱き上げて、自分の部屋へ運んだ。 廊下で寝かせるのが可哀相で、ベッドに運んでやろうと考えたのだ。
 そっとしたつもりが、千秋はベッドに降ろされたとたん、起きてしまった。
「あれ……?」
 一瞬、自分がどこに居るのかわからなかったのだろう。擦れた声を出して、キョロキョロ辺りを見回している。
「秀ちゃん?」
 傍らに立つ秀一を見て、ようやく事態を飲み込んだようだ。
「秀ちゃん! ハスキーは? ハスキーは!」 ガバッと起き上がって、秀一の腕をつかんで揺すった。
 愛しさが込み上げてくる。
 玄関で彼と愛犬を見た時から、感動が身体の中に沸き上がっていた。千秋がハスキーを看病してくれたことは、一目でわかった。それがとても嬉しかった。
 押さえきれない感情のまま、千秋を抱き締めた。
「秀ちゃん?」
 問いかける声も、見上げてくる大きな瞳も、自分のものにしたいと、ずっと願ってきたものだった。
 愛らしい唇に、自分の唇を重ねた。
 腕の中の身体が硬直するのがわかった。
 落ち着かせようと、背中を撫で下ろした。何度も。
 千秋の足から力が抜け、腕に体重がかかって、秀一は千秋をベッドに押し倒した。
 そのまままた唇を重ねる。千秋の足が揺れる。腕が秀一を押してくる。けれどその力は弱くて、彼はさらに口中深く侵入していく。「やめろよ!」
「好きなんだ!」
 唇が離されたと同時に、互いの言葉が相手を打ちのめす。
「好きなんだ」
 秀一は思いの有りったけをこめて言った。「バカッ! バカ、バカ、バカッ!」
 返事はあまりにも酷いものだった。
「ずっと、千秋だけを見てきた。千秋が好きだ」
 また口づける。相手が子供だからという容赦は出来なかった。ただ自分の気持ちを押しつけるだけだった。感情のまま走るだけ。
 トレーナーをたくし上げて、薄い胸にもキスを落とした。
 ジーンズのボタンを寛げて、下着と一緒に膝まで下ろした。
「やめて……、やめてよぉ……」
 頭上でした涙声に、秀一は顔を上げた。
 涙が可愛い頬を濡らしていた。しゃくり上げながら、千秋が泣いていた。
 小さな手がシーツをきつく握り締めている。 秀一は唇を噛んで、上掛けを千秋にかけてやった。
 身体の拘束がなくなると、千秋は身体を捩って、布団の中に潜り込んだ。
「ごめん……。千秋……、ごめん」
 秀一はベッドの端に腰掛けて、頭を抱え込んだ。後悔して謝ったのではない。千秋の気持ちを思いやれなかった自分が腹立たしかった。
 いつまでも待てるつもりだった。
 千秋がもう少し大人になるまで、せめて自分の気持ちを察してもらえるようになるまで、待つつもりだった。
 それが出来なかった。
「秀ちゃん、大嫌いだっ!」
 千秋は布団の中で叫んだ。
「それでも、僕は千秋のことが好きだ。ずっと千秋のことしか目に入らなかったんだ。これからも千秋しか好きになれないよ」
 勢いよく布団が捲られて、千秋が飛び出した。一応身仕度は整っている。
「大嫌いだっ! もう口きいてやらないからなっ!」
 大きな音をたてて階段を下りていく。
「ウオン!」
「うわっ! ハスキーのバカッ! お前も嫌いだっ!」
「キューン」
 秀一は頭を抱え込んだまま、ふっと苦笑した。
 自分を嘲り笑いたい。思い切り。
 千秋は昔と変わらぬ怒り方のままで飛び出していった。




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