その日の夜、ハスキーの鼻にかかった泣き声が、野々村の家にも聞こえてきた。
 いつも夜はハスキーを家の中に連れて入るのに、今夜は入れてもらっていないようだった。
「千秋、本当にハスキーに何もしなかったの?」
 母親の尋問調の声に、千秋は顕らかにギクッと背中を緊張させた。
「何も……」
「嘘おっしゃい。ハスキーは千秋に邪険にされても、シッポを振ってくれるような可愛い犬なのよ。何もしないのに噛みつくわけないじゃない。何かしたんでしょう?」
 母親を上目遣いに見て、千秋はポツリとつぶやいた。
「………シッポ踏んじゃった……」
 母親がやっぱりという顔で千秋を見た。
「ハスキーに謝ってきなさい。それから秀一くんにそのことを話して、ハスキーを許してもらいなさい。それまで千秋も中に入れてあげませんからね」
「はーい」
 キイと門扉を開けると、ハスキーが立ち上がる気配がした。玄関からの明かりに、ハスキーの目が光って見える。昼だと青いその瞳が、金色に見えて、思わず足が竦んだ。
「ハスキー、ステイ」
 ハスキーが座ってくれないことには、近寄れないので、小さな声で指示を出した。
 ハスキーはその場にチョコンと座る。
「ハスキー、今日はゴメンな」
 千秋は自分の定位置となった触れそうで触れない場所に座ってハスキーに謝った。
「ワオーン!」
「バ……、バカっ! 声が大きいよ!」
 千秋がシッと人差し指を口元に立てたが遅かった。
「ハスキー! いい加減にしろっ!」
 いつもの秀一からは想像できない厳しい叱責の声が飛んできた。
「秀ちゃん……」
「千秋? そこにいるの、千秋か?」
 ドアが大きく開いて、秀一が顔を出した。「俺、ハスキーに謝りにきたんだ」
「謝りに?」
「うん。ハスキーは悪くなかったんだ。俺がハスキーのシッポを踏んじゃったから、ハスキーがびっくりしただけなんだ。手も噛まれてないし……」
 家の中の照明が逆光になって、秀一の表情は見えなかった。でも、近づいてくる気配はいつもの優しさを漂わせている。
 でも、ハスキーは小屋の中に入ってしまった。
「家の中に入れてあげてよ」
 千秋は自分のせいでハスキーがお仕置きを受けていると思っていたので、秀一に頼んだ。「ハスキーが入ろうとしないんだよ」
「どうして?」
「叱られたことがショックなんだろうな……。体罰まで加えたのは、子犬の時以来だから」 秀一は重い溜め息をついた。
「ゴメン、俺が……」
「千秋のせいじゃないよ」
 秀一はあの時、ハスキーが千秋を噛むわけがないと判断できたはずなのに、千秋可愛さに目がくらんで、ずっと一緒に暮らしてきたハスキーを疑い、叩いてしまった。
 何もわからなかった。ただ、千秋が心配だった。他のことは考えられなかった。千秋を傷つけたハスキーを憎いとまで思ってしまった。いつもハスキーは自分の傍に居てくれたのに……。
「どうすればハスキーは中に入ってくれるかな」
「うん……」
 秀一は考え込んで、ある思いつきをもって千秋を見た。秀一の肩までしかない千秋は、じっと秀一を見上げた。
「千秋が連れていってやってくれないかな」「俺が?」
 秀一が頷いて、千秋は目を見開いた。ただでさえ大きい目から、瞳がこぼれ落ちるのではないかと心配してしまう。
 千秋は小さく首を振った。
「ダメか……。やっぱりまだ無理だよな。いいよ。シベリアンハスキーは本来寒い地方の犬なんだ。一晩くらい外で過ごしても、何ともないって」
 秀一はポンポンと千秋の頭に軽く手を置いて、帰るように促した。
 庭で飼われている犬が外で過ごすのなら何とも思わないが、ハスキーは毎晩家の中に入っていたのである。それを知っているので、一晩中外にいるなんて、可哀相だと千秋は思った。
「やってみる」
「え?」
「やってみるよ。ハスキーは……、噛まないんだろ?」
「絶対噛まないよ」
 秀一が断言したので、千秋は意を決してハスキーに呼び掛けた。
「ハスキー。カモン」
 千秋の声に、ハスキーは顔だけ出した。
「カモン。ハスキー、カモン」
 おっかなびっくりな様子でハスキーは出てきた。
「家の中に入ろ。な? ハスキー」
 千秋はビクビクしながら、ハスキーの鎖を手に取った。クイと引くと、ハスキーはおとなしく千秋についてくる。
 秀一が玄関に先にたって、千秋とハスキーを招き入れた。
 お許しが出ても、ハスキーは心配な顔で秀一を見た。
「ハスキー。叩いてゴメンな」
 秀一が愛しそうに頭を撫でてやると、ハスキーはペロッと秀一の鼻を舐めた。仲直りの儀式である。シッポが好意を示して左右に揺れだした。

 その日をさかいに、千秋はハスキーに触れるようになった。ただし、まだ「触れる」という段階ではあったけれど。抱き締めたりするのは全然無理で、ハスキーが千秋に飛び付こうとすると大げさな態度で逃げてしまう。「そろそろ散歩に行こうかなー」
 千秋はご満悦でハスキーに話しかけた。ハスキーは「散歩」という言葉を聞いて、飛び跳ねる。
〔ワーイ! 行こう、行こう!〕
「まだ無理じゃないかな。そんなに行きたいんなら、僕と一緒に行くか?」
「ダメ」
 秀一の提案を千秋は即座に否定した。秀一はとてもいいアイデアだと思っていたので、そんな千秋の様子に眉を寄せた。
「どうしてダメなんだ? ハスキーと散歩に行きたいんなら、とってもいい方法だろ?」「え? まあ……。でも、付き添いがいるなんて、恥ずかしいじゃないか」
「そんなことないのに」
 千秋と一緒にハスキーの散歩に行くのは、秀一の長年の夢だったりする。だから恥ずかしいと言われて、秀一は少し意地になってしまった。
「ハスキーが触れるようになったんだからさ。ハスキーより大きな犬も触れるかな」
「ハスキーよりも大きな犬?」
 唐突な話題転換に、秀一は戸惑いながらも、聞き返してみた。〈犬〉というのが、今の千秋の心の中を占めているキーワードである気がした。
「そう。ほら、テレビのコマーシャルで出てくるじゃない。トップブリーダーがどうの、こうのって」
「あのシリーズはいろんな犬を使ってるからなー」
「とにかく一番大きな犬だよ。ぬいぐるみにもよくあるじゃんか」
 千秋の訳のわからない説明を組み立てて、秀一はセントバーナードを思い浮べた。
「茶色い?」
「そう! あの犬も触れるかな」
「それは……、千秋が触れると思えば、触れるんじゃないか? 結構大人しい性格だし」「ホント? やったー!」
 千秋の異常な喜びように、秀一はますます眉を寄せる。どうやら千秋の目的は、ハスキーと仲良くなることよりも、その犬に触れるかどうかが問題のようである。
「で? その犬に触れるようになったらどうするんだ?」
「話ができるくらいに側にいく!」
 千秋は嬉しさのあまり、つい本音をもらしてしまっていた。本人は気づいていないらしいけれど。
「犬と?」
「このカニミソ頭っ! 犬としゃべれるわけないだろっ。キレイな女の人に決まってるだろ!」
「ふーん……。キレイな女の人が犬を散歩させてるんだ」
 秀一の低い声に、ハッと我にかえるが、すでにばらした後である。
「いやー……、だからさぁ」
 千秋は片頬を痙攣させている。どうやら笑っているつもりらしい。
「可愛い子なのか?」
 千秋よりも? という言葉はグッと我慢する。自分が女の子に間違われるほど華奢な容姿であることにひどくコンプレックスを感じている千秋の前では禁句である。
「そんなの、別にいいじゃんかよ! 秀ちゃんには関係ないだろ!」
 ショックというものは、ウエーブのように何度も打ち寄せるものらしいと、秀一は二十年の人生の中で、初めて知った。
 千秋が隠し事をした。
 千秋が恋をした。
 千秋が自分を関係ないと言った。
 千秋がその女の子に近づく協力を自分がしてしまった。
 次々にやってくるショックに、秀一は理性とか、年上の余裕とか、今まで保ってきたものを、プイと捨ててしまった。
「邪魔してやる」
「え?」
 小さくつぶやいた秀一の決意を千秋が聞き咎めた。
「何でもない。じゃあ、一緒に散歩できるように、もう少し特訓しよう」
「よし!」
 千秋が元気に答えるのにも、腹が立つやら悔しいやら、秀一は泣きたくなった。

「ハスキー!」
「ウオン!」
 千秋がそっと撫でようとすると、秀一はそれを止めた。
「千秋、今まで僕だけの特権にしてきたけど、特別に教えてやるよ。ハスキーは耳の後ろをくすぐられるのが好きだぞ」
「へぇー」
 千秋は素直にハスキーの耳の後ろを指先でくすぐった。
「ギャン!」
 喜ぶとばかり思っていたハスキーは妙な声を出して首を振った。千秋は慌てて手を引っ込める。
「嫌がってるんじゃないの?」
「そんなことないよ。喜んでいるんだよ」
「そうかなー?」
 千秋は首を傾げてまた耳の後ろに手をやる。が、ハスキーは首を振って逃げるばかりだった。
「今日は嫌なのかもな。じゃあさ、ボール取りをしようか」
 秀一はあっさり話題を切り替えた。
「あの、ボールを投げて、ハスキーが拾ってくるやつ?」
「そう、そう」
「やってみたかったんだぁ」
 千秋は喜んで、秀一が庭の隅から持ってきたボールを受け取った。白いテニス用の軟球である。
「ハスキー、いいか。俺が投げるから、取ってくるんだぞ」
「クーン」
 ハスキーの元気のない声に千秋はまたまた首を傾げる。
「嫌がってない?」
 後ろに立つ秀一に首だけ振り返って尋ねた。「そんなことないけど?」
 秀一は門扉が閉まっているのを確かめて、ハスキーの鎖を放してやった。
「秀ちゃん、側にいて、ハスキーが来たら捕まえてよ!」
「わかってるって」
 千秋の隣に立つと、柔らかい髪が肩先で揺れている。
「ほら、ハスキー!」
 千秋はテニスボールを投げた。大きな弧を描いて、白いボールはハスキーの背中を越えて飛んでいく。
 でもハスキーはじっとして動かない。
「ハスキー。キャッチ、キャッチ!」
 千秋が叫ぶと、ハスキーは渋々取りにいく。 実はハスキーはこの遊びが大嫌いだった。秀一相手だと、座り込んで抵抗したりする。今は千秋が相手なので、無視することも出来ずに、ボールを取りに向かった。
〔千秋ちゃんの頼みなら、断りきれないじゃない。どうして秀一さんはこんなことさせるのかしら〕
 ハスキーはボールを銜えると小走りに戻ってきた。千秋はとっさに秀一にしがみつく。 秀一の嬉しそうな顔を見て、ハスキーはバカらしくなった。
〔やめちゃおう。こんなの、秀一さんが喜ぶだけじゃない。つまんないわっ〕
 千秋の足元にボールを放すと、ハスキーは座り込んだ。ボールの上に顎を乗せる。
 やっぱり千秋はボールを取れない。
「秀ちゃん、取ってよ」
 秀一がボールに手を伸ばすと、ハスキーは低い唸り声をあげた。
「怒ってるんじゃないのか?」
「ハスキー! こら!」
 ハスキーは意地でもボールを渡さなかった。秀一が無理にボールを奪いそうになり、ハスキーは慌ててボールを銜えたら、やわらかいボールは破れて空気が漏れてしまった。
「あーあ……」
 千秋がボールの残骸を見て、非難気に秀一を見た。
「何?」
「秀ちゃん……。ハスキーの嫌いなことばっかり俺にさせただろ。どうしてだよ!」
「そんなことないよ」
 いつになく勘のいい千秋に、慌てて否定したが、それがかえって千秋の疑いを肯定してしまった。
「酷いじゃないか!」
「酷いのはどっちだ? ハスキーと仲良くなりたいというから、協力してたら、他の犬と仲良くなりたかったんだろ? 千秋の方が酷いじゃないか」
「べ……、別にいいだろ。ハスキーとも仲良くなれるんだから……」
 千秋が一歩下がると、そこにハスキーがいた。ハスキーは喜んで千秋の背中に飛び付いて……。
「ウオン、ウオン!」
〔千秋ちゃん、そんな奴は放っといてアタシと遊びましょ!〕
「ぎゃー!!」
 情けない叫び声をあげて、千秋は秀一にしがみついた。
「どこがハスキーと仲良くなるって?」
 秀一はハスキーの首輪を持って、千秋から離してやった。
「だ……、だから、これから……」
「もういいよ。千秋はハスキーの千秋が好きという気持ちを利用したんだ。ハスキーだって、そんなの、喜ばない」
 ハスキーの行動を、秀一は千秋に対する反抗だと思わせてしまった。
 千秋はシュンとして、七瀬家を後にした。背中に、ハスキーの淋しげな声を聞きながら……。
 秀一は知らなかったのだ。千秋が憧れている女性が連れている犬は、秀一の想像したセントバーナードではなくて、アフガン・ハウンドだということを。それを知っていれば、こんな意地悪をしなくて済んだということを……。




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