彼のテリトリー 僕のカテゴリー
ホワホワのくせ毛の前髪をかきあげて、額に掌をあててみた。
「何やってんの?」
「いやー、熱でもあるんじゃないかと思ってさ……」
とりあえず熱はないとわかって、秀一は手を引っこめた。
目を閉じると上と下が絡まるんじゃないかと思うほど長い睫毛に縁取られた大きな目が、真っすぐに秀一を見つめてくる。
「熱なんかないよ。元気だよ、見ればわかるだろ」
白い肌と赤みをおびた唇。黙っていれば、はかなげな美少年で通るものを、あぐらを組んで座るような態度と、言葉遣いの悪さが、外見を大きく裏切ってしまっている。
「本気で言ってるわけか? 千秋」
秀一は大きく頷く千秋を見ても、まだ疑わしそうに聞いている。
「だから、さっきからそう言ってるじゃないか。ハスキーの散歩ができるようになりたいって。何度も言わせんなよ」
頬をぷっくらと膨らませると、ますます可愛くなってしまう。秀一は自分の身の内をかけ巡る、悲しい衝動を抑えるのに苦労した。「そりゃ、ハスキーは千秋が好きだから、散歩に連れていってやったら喜ぶだろうけど……」
ハスキーとは、秀一が飼っているシベリアンハスキー犬のことで、五才の女の子だ。白とグレーの艶やかな毛並みをしている。
女の子といっても、ハスキー犬の特徴である、あの歌舞伎役者の隈取りをしたような顔をしているので、見た目はとても恐ろしい。 そのハスキー嬢は、七瀬家の隣に住む野々村千秋のことが大好きであった。
「でも、ハスキーに触れるのか?」
ハスキーの千秋が好きという気持ちに反比例して、千秋はハスキーが苦手であった。
もっとも千秋はハスキーだけが苦手というのではなくて、〈犬〉というもの全部が嫌いなのであったが。
生まれたばかりの赤ちゃん犬でもダメだった。それを成犬になったハスキーを散歩に連れていく……?
「だから! 触れるようになるのは、秀ちゃんの努力次第なんだよ」
「どうして僕次第なんだ? 努力するのは、千秋の方だろ?」
「だって俺はハスキーがそこにいるだけでも恐いんだよ? ハスキーが俺の言うことを大人しく聞いて、散歩に行っても俺に触らないように距離をおいてついてくるように、しつけるの」
「そんな無茶な……」
「無茶でも何でも、やってよ!」
秀一はこの時ほど、今まで自分が千秋に甘く接してきたのかを、思い知ったことはなかった。
4才年下の隣の子が可愛くて、秀一は無理をしても千秋のワガママを叶えてきていた。 千秋は、自分の頼みなら、秀一はどんなことをしてもやってくれるのを知ってしまっている。
「千秋、僕がハスキーなら、千秋の言うことを聞いて、ただ黙って歩いてもいいさ。でも、僕はハスキーじゃない」
「だからハスキーを訓練して……」
「無理だよ。ハスキーは千秋が好きなんだから、千秋が側にいればジャレつくに決まってる」
「じゃあ、どうすればハスキーと散歩にいける?」
「どうしてそんなにハスキーと散歩にいきたくなったんだ?」
何故そんなことを思いついたのか疑問に感じて、秀一は尋ねてみた。
別に大したことはなく、いつもの気紛れぐらいに思っていたが、千秋は口を閉じて、その理由を話さない。
俯くと、睫毛が頬に影を作る。
「千秋?」
「何でもいいじゃんか」
プイと横をむいてしまう。
「話したくないようなことなのか? だったら、ハスキーは貸せないぞ」
いつでも開けっぴろげな千秋が口篭もっているのを不審に思って、秀一はその理由が歓迎できないものであることを嗅ぎとった。
「別にそんな変なことじゃないよ。ハスキーと仲良くなりたいだけだって。ほら、秀ちゃんだっていつも言ってただろ。ハスキーは俺のことが好きだって。俺も高校生になったしさ、犬が恐いなんて、恥ずかしいじゃないか。だから、こういうの、一石二鳥って言うんだっけ?」
伊達にずっと隣に住んできたわけじゃない。千秋は都合の悪いことを隠すときは、いつも必要以上にしゃべりだす。
「本気でハスキーと仲良くなってくれるんだな?」
本当の理由なんていつでも聞き出せるさ、と秀一は思って、千秋がハスキーと仲良くなってくれるなら、それにこしたことはないと、協力することにした。
「ハスキーと仲良くなりたいんなら、やっぱりハスキーを大人しくさせるんじゃなくて、千秋がハスキーを好きにならなきゃだめだぞ」「うん……、わかった」
千秋は渋々うなずいた。
「ハスキー!」
「ウオン!」
シベリアンハスキーは、顔の模様は恐いが、性格の方は概して大人しい。人にもよくなつく。
さっき千秋が来たので、ハスキーは犬小屋に鎖を短くして繋がれていた。
秀一が呼ぶと、元気に答える。どうやら散歩に連れていってもらえると思っているらしい。
秀一の後ろに千秋が立っているのを見つけて、ハスキーはシッポを上下左右に千切れんばかりに振り回し始めた。
まったく、飼い主より千秋のことが好きなのだ。いや、飼い主に似たのか?
ハスキーは前脚を振り上げて、千秋に「おいで、おいで」と、呼ぶ仕草をしている。
けれど千秋にしてみれば、そのハスキーの動作が、今にも襲ってくるように映っているのだ。
「ウオン! ウオン!」
激しく鳴かれ、鎖を一杯に引っ張っているので、千秋は鎖が切れるんじゃないかと、足が震えてくる。
「ハスキー、ステイ!」
秀一がハスキーを落ち着かせようとするが、ハスキーは千秋に向かって愛想を振りまいている。
「秀ちゃん……、全然言うことを聞かないじゃないか」
非難の声も震えている。
「しばらくは無理だろうなあー。千秋がハスキーの側に来るなんて、滅多にないことだから」
「俺のこと、そんなに嫌いなのかよ」
秀一はハスキーに同情した。愛情表現が、まったく千秋には伝わっていない。完全に裏返しに受け取られている。
……自分も、だけれど……。
「ハスキー、ステイ!」
二人がその場所から動かないことを見せて、厳しい声で命令した。ハスキーはシッポをムズムズさせて、お座りをした。
「なんだ、出来るじゃん」
躾は厳しくしてきた方だ。秀一の言うことならちゃんと聞く。
「撫でてみる?」
「な……! そんなに簡単に触れるなら、秀ちゃんに頼んだりしないよ」
それもそうだと思いながら、秀一はどうすれば、犬が恐い千秋にハスキーを馴れさせることが出来るか考えた。
「じゃあ、二人の友好を深めることから始めよう。もうすぐハスキーの食事の時間だから、千秋が食事をやる」
「俺がー?」
「そう。食事をもらう相手には、犬は絶対噛みつかない」
大嘘を教える。この際、千秋が慣れることが大切なのだ。ハスキーへの恐怖を暗示によってなくせるなら、早く解決する。
「そっか。犬は三日飼えば恩を忘れないって言うもんな!」
千秋は勝手に納得して、ハスキーの食事を取りにいった。
勝手知ったる他人の家。ハスキーは恐くても、いつも秀一がしていることなので、どうすれば良いのかはわかっているのだ。
「ハスキー、二人とも千秋に好きになってもらえるといいのにな」
秀一の気持ちを知ってか知らずか、ハスキーは千秋が食事を持ってきてくれるのを首を長くして待っている。
「秀ちゃん、こんなもんでいいかな」
千秋がハスキーのトレイに、ドッグフードを盛りつけて持ってきた。
「十分だよ」
「はい」
秀一にトレイを突き出した。
「僕が食べるんじゃないよ」
「当たり前だろ。ハスキーにやるんだよ」
わかりきっているとばかりに、千秋は胸を張った。
「だから、それを千秋がしなきゃ」
「えー! 無理無理」
顔の前で手をヒラヒラさせている。
「無理なら散歩はあきらめて……」
「わかったよ! やればいいんだろ」
千秋は不満気に口を尖らせて、ハスキーに向いた。ハスキーが立ち上がろうとする。
「ステイ!」
きつく言われて、ハスキーは仕方なく座る。けれどシッポは土を払うほど振られている。 千秋は恐る恐るトレイをハスキーに向かって差し出した。それでもハスキーまでは届かない。
指先でツンと押し出してみるが、ハスキーの前まではいかない。
「ウオン!」
「鳴くなよ!」
「早くしないからだよ」
手が届かないとなると、千秋は足でトレイを押しやった。万が一噛まれたとき、手は千切れてしまうが、足ならそんなことはないだろうというのである。
秀一はそれを見て、クスクス笑った。
「なんだよ」
「別に。それよりハスキーにOKをやらなきゃ、ハスキーは食べられないんだよ」
「なんて言えばいいんだよ」
「待ては、ウエイト。食べてもいいは、OK」「生意気に英語かよ。……ハスキー、OK」「ウオン!」
ハスキーは嬉しそうに食べ始めた。
味は同じはずだけれど、と秀一は感心していた。千秋に貰ったというだけで、これほど嬉しいのなら、早く自分も千秋に食事を作ってもらいたいと思ってしまった、ヨコシマな秀一だった。
その女性は、週末だけ犬を散歩させているようだった。太陽が沈み始め、夜が気配を見せる頃、川原へやってくる。
いつも白っぽい裾の長いワンピースとロングヘアーが、美しいシルエットとなって川面に浮かび上がる。
犬は女性が連れて歩くには大型だけれど、彼女も背が高く、均整がとれている。まるで映画の一シーンを見ているようだと、千秋は思っていた。
あの犬さえ恐くなければ、傍にいって、話しかけたい。こんな子供の自分では相手にしてもらえないだろうけれど、話してみたいのだ。ただ、それだけだった。
恋というよりは、憧れに近い気持ちだったけれど、恋も知らない千秋にとっては、やはり一目惚れだと言うしかなかった。
彼女は千秋が通学に使う橋から少し離れたところで犬を遊ばせていた。川原へ降りるには、もう一本下流の橋のたもとにいかねばならない。
走れば大したことはない距離だけれど、川原へ下りても、千秋には近づけない。だからまだ彼女の視界に入ることすらできていない。「せめてもう少し小さな犬ならなぁ」
あの犬が立ち上がれば、クラスの中でも一番背の低い自分と同じくらいなのではと思うと、行く気も失せるのである。
ハスキーはこの頃千秋が毎日顔を出してくれるので、ご機嫌だった。例え、脚の先がくっつくか、くっつかないか程の距離でも、千秋がいるのは事実だ。
その上、今日はとうとう頭を撫でてもらえた。ただし、躰と口を秀一にガチガチに押さえ付けられて、だったけれど。
〔そんなことしなくても、千秋ちゃんには絶対噛まないのに〕
それでも、ハスキーにとっては初体験の、嬉しい出来事だった。
「な? 恐くないだろ?」
秀一がハスキーのブラッシングをしながら、千秋に言った。
「そりゃ、あれだとハスキーは動かないもの」 さすがに慣れてきたのか、千秋は餌のトレイを手でハスキーの前に置いた。
「触った感想は?」
「うーん……、思ったよりあったかい」
「犬は体温が高いからな」
秀一がブラッシングを終えるのを待って、千秋はハスキーにOKを出した。
「ウオン!」
ハスキーは喜んで餌を食べ始めた。
「とりあえず触れるようになったんだから、もう少しだな。次は僕が押さえてなくても触れるようにならなきゃな」
「うん。秀ちゃん、犬好きだよね。犬を好きになるのって、先天的なものかな」
「そんなことないだろ。僕だって、前のハスキーを飼うまでは犬が好きだなんて思わなかったからな。一緒に住めば、情が移るんだよ。家族と同じっていう気持ちになる。千秋も一緒に寝てみるか?」
千秋は首をブルブルと振った。それを見ていたハスキーが悲しげな泣き声をあげる。
「でも、俺は犬に襲われた経験もないのに、昔っから犬が恐いよ? どうしてだろう……」 小首を傾げるその仕草が可愛くて、秀一は苦笑した。つくづく千秋が好きなんだと思ってしまう。
「前世で何か犬に酷いことをしたのかもな」「そんなわけないだろ!」
つまらない冗談を言う秀一を叩く真似をして、千秋は手をあげた。秀一はそれから逃げようと、ひょいと身をかわした。
いつものおふざけの延長の遊びだった。
だが、バランスを崩した千秋が踏張った足の下には、ハスキーのシッポがあった。
「ギャン!」
ハスキーは決してそんなつもりじゃなかった。驚いて、叫んで、頭を振ったところに、千秋の手があっただけだ。
「痛い!」
千秋が悲鳴をあげて、左手を胸に抱え込んだ。ハスキーに噛まれたと思ったのだ。歯が当たったから、咄嗟にそう思っても仕方なかった。
「千秋!」
秀一は狼狽えて、千秋の手を見ようとしたけれど、千秋は恐怖で体をガチガチにしていて、抱え込んだ手を見せようとしなかった。「ハスキー! おまえはっ!」
秀一はハスキーを何度も打った。そうすることしか思いつかなかったから。
〔違うっ! 違うの。千秋ちゃん、そんなつもりじゃなかったのっ! びっくりしただけなの、ごめんなさいっ!〕
けれど、ハスキーの声は、千秋にとっては恐怖の対象でしかない。
「ハスキー! ドン、クライ!」
秀一が一喝でハスキーを黙らせて、千秋を連れ去る。
シッポをお腹に巻いてしょぼくれるハスキーをその場に残して、秀一は隣家へ千秋を運んだ。まず手当てをしなければならないと思ったからである。
千秋の母親は二人をリビングへ通した。
「見せてご覧なさい」
母親が千秋の左手をそっと引くと、千秋はそろそろと手を開いた。彼女はその手を裏返したり戻したりした。
「どこも噛まれていないじゃない」
「えっ!」
驚いたのは千秋の方で、自分の手をあちこち向けて点検している。
「だって、ハスキーの歯が!」
「ハスキーが人を噛むはずないと思ったのよ」「でも、でも!」
「どうせ千秋が何か噛まれると思ったようなことをしたんじゃないの?」
「してないよ」
「秀一くん、本当?」
「してないよな、秀ちゃん」
二人に問い掛けられて、秀一は千秋が怪我をしていないと知って抜いていた肩の力を再び取り戻した。
「さあ、あの時僕は背中むけてたから」
実際見ていなかったので、千秋の悲鳴に、ハスキーが噛んだと思い込んでしまったのだ。「まあ、怪我もしなかったことだし、夕食にしましょう。秀一くんもうちで食べていって。七瀬さん、今日も出張でしょう?」
両親は秀一が幼い頃離婚していて、彼は父親と一緒に暮らしていたが、その父親はここ数年というもの出張が多く殆ど単身赴任状態で、七瀬家は実質、秀一が一人で住んでいるようなものだった。そんな秀一のために、野々村夫人はいつも料理を作りすぎたと言っては秀一を誘っている。
「でも今日はバイトが入ってて、もう出掛けなくちゃならないんです。すいません」
千秋はその後ろ姿を淋しく見送った。いつもそうだ。秀一はそうやって、年下の千秋の知らない場所へ行ってしまう。千秋はいつまでたっても追いつけない背中を見た。
秀一は千秋の視線に気づかなかった。その瞳に気づいたとしても、その意味はわからなかっただろうけれど……。
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