朝、ギリギリで教室に駆け込んだ希一に、達樹が思いっきり不審な目を向ける。
「どうしたんだよ、最近。ギリギリじゃないか」
 普段から特に早いわけではなかったが、こんなふうに駆け込むのは、希一の美学に反するはずだ。
「別に。電車に乗り遅れただけだ」
「毎朝?」
「あぁ」
 納得できない達樹だったが、すぐにも担任がやってくる。
「委員長、ちゃんとホームルームの前に職員室に寄ってくれよ」
 朝から自分でプリントを配付する羽目になった担任が、希一に愚痴のような文句を言う。
「せんせーい。それは元々先生の仕事でしょー?」
 希一が笑いながら指摘すると、教室の中に笑いがまきおこる。
「二条君ならやってくれるだろー?」
 懲りずに担任が要求する。
「わかりましたー」
 達樹はやれやれと首をすくめ、順は回ってきたプリントをうしろの席に回しながら、そっと希一の様子を窺う。
 一緒に駅まで帰った日の翌日から、希一は朝はギリギリで、帰りもさっさとクラブに行ってしまう。
 自分から希一に声をかけるなどできない順は、希一から話しかけられないと、全くと言っていいほど接点がなくなってしまう。
 今まではそれで普通で、話しかけられないほうが緊張しなくていいと思っていたはずなのに、接点がなくなるとどうしようもなく胸が痛んだ。
 かといって、自分から声をかける勇気は持てず、実優の言っていたように、希一の背中だけを見ることになってしまっている。
 からかいながら話しかけられる達樹が羨ましい。
 どうしようもできないまま、順も修学旅行委員会の方で、委員会や細かな仕事で少しずつ忙しくなっている。
「だからさー、早瀬君、ホテルの部屋とグループワークのメンバーが重なっちゃ駄目って、そんなことにこだわらなくていいと思うんだ。うちのクラスはうちのクラスのやり方でいきますって、委員会に言ってよ」
 細かいことにクレームを言ってくるのは女子生徒がほとんどだ。今までは委員会で決まったことだからと、断ってきたのだが、どうしても仲のいい者同士で行動したい女子は、順ならばなんとか丸め込めるのではないかと、執拗に食い下がる。
「でも、……一クラスだけ特例は認められないから」
 委員会でクレームが出た場合の対応として教えられたマニュアルどおりに説得しようとするが、彼女達は引き下がってくれない。
「委員会に提出の分は、適当に名前を書いておけばいいのよ。現地で早瀬君が別グループを認めてくれれば問題ないでしょ?」
 超法規的な相談まで持ちかけてくる。
「それは駄目なんだ。その、旅行保険の問題もあるし」
 なんとかわかってもらおうとするが、彼女達は自分の要求だけで頭がいっぱいのようだった。
「事故なんて、起こらないって」
「まぁまぁ、みんなが納得していることを、いつまでも我が侭言ってたら駄目でしょー?」
 見かねた達樹が割り込んできてくれる。
「広岡君には関係ないでしょ。私達が早瀬君に頼んでいるのよ」
 諭したつもりが反対に凄まれて、達樹は顔を引きつらせる。団結した女の子たちは、怖いものなしなのだ。
 いや、一人だけ御せる人がいるはずだと、達樹は教室の中を見渡すが、頼みの委員長は今朝もまたギリギリのようだ。
「ねー、早瀬君、頼むから」
 希一が順の手伝いをしなくなっているのを、彼女達は敏感に察しているのかもしれない。だからこうして、無理を通そうとしているのだ。
 他の生徒も多少はうんざりしているはずだが、係わり合いになって恨まれたくないのだろう。気づかないふりで、静観するつもりのようだ。
 変に嘴を挟んで、彼女達と同じ班になれば、それはそれで面倒だと感じているのかもしれない。
「委員会で決まったことだから……」
 同じ台詞で断ろうとした順の机を、一人がバンと叩いた。
「これだけお願いしてるのに駄目なの!」
 いい加減にしろよと達樹が嗜めようとした時、教室のうしろのドアが開いた。担任かと思ったが、まだ始業のチャイムは鳴っていない。
「何の音だよ。びっくりだな」
 希一が間違えずにその音の元に視線を向ける。
 こいつ、ちょっと前に教室に着いていたんじゃないかと、達樹が疑いたくなるほどの正確さだ。
「二条君……」
 少し気まずそうに彼女達は顔を見合わせた。
「何か揉め事? 修学旅行の件?」
 席に座っている順のうしろに立ち、希一は優しい笑みを浮かべる。
 やっぱりわかってやってやがる。達樹は希一の女の子を黙らせる迫力のある笑みに、内心で毒づく。順は希一の声が聞こえてから、背中を強張らせているので、その笑みを見ていない。
「彼女達さ、ホテルの部屋割りとグループワークのメンバーを一緒にしろってさ」
 女の子達は自らの不正をばらすつもりはないだろうし、順も進んで話すとは思えないので、達樹が口を出すことになった。ここではっきりさせておかないと、彼女達はまた希一の目の届かないところで、順に詰め寄るだろうと思われた。
「委員会で決まったことを、各クラスの一部で無視するのはよくないことだよ。わかるだろう? 旅行保険の問題もある。事故なんて起こりっこないとは思っていても、旅行中には何があるのかわからないしね。何よりせっかくの旅行じゃないか。仲良しグループで教室と一緒の顔ぶれじゃなくて、クラスメイトの新しい一面を知るいい機会だろ? 委員会だって、意地悪でグループ分けを別にしろって言ってるわけじゃないんだしさ。その辺はもう中学生じゃないんだし、わかるよね?」
 そこまで言われれば黙るしかない。元々委員長のいない隙を狙ってやろうとしたことなのだ、ばれてしまえばごり押しできないと諦めるしかない。
「わ、わかったわよ」
 渋々引き下がる。
「希一、遅いよ」
「悪かったよ」
 希一はさっさと自分の席に向かう。
 呪縛から解かれたように順は振り返るが、その時にはもう希一の背中しか見えなかった。
 お礼を言う間もなかった。
 ……避けられているんだ。
 その時になって、ようやく順は気がついた。
 張り裂けそうに胸が痛んだ。
「声をかけてやれよ」
 じっと俯いたままの順を気遣って、達樹は声を潜めて希一にアドバイスする。
「俺が声をかけたほうが、早瀬は困るんだよ。俺はいないほうが、安心できるんだよ」
 中学生みたいに拗ねんなよ。と、呆れたいところだが、達樹にしても、順の態度では誤解を招くだけだと希一が気の毒になってくる。
「だけどさ、お前が離れることで、教室内の空気が微妙になるんだぞ」
「それは悪かったよ。明日からちゃんと出る」
 自分の態度がこんなにも影響するとは希一も考えてなかったので、その点は反省していた。
 諦めたほうがいいのかも。
 自分の心の中で決めて、諦めるために、順の側から離れようとした。
 それがこんな結果を招くとは思っても見なかった。
 諦められない気持ちは強く、同時に守ってやりたいと思う。
 侭ならない自分の気持は押し隠すことにして、順を怖がらせないように手助けするにはどうすればいいのだろうかと、深い溜め息の中で考えていた。




 希一に避けられているとわかって、自業自得だと思いながらも、それはかなりの辛<さを順に自覚させた。
 前と同じになっただけ、今までのように遠くから見ていられればそれでいい。
 そう思うのに、心が不満を訴える。
 少しでいいから希一と話してみたい、笑顔を一瞬でもいいから向けて欲しい。そんな贅沢なことを考えて、それはもう無理なんだと思い直すと、ずっしりと落ち込んだ。
「なんか落ち込んでる?」
 実優が覗き込んでくる。
「いつもこんなもんだろ」
 わかっているくせに仁は冷たい。
 昼休みに自分の教室から、実優たちの教室に移ってきて、一緒にお弁当を食べている。
 毎日、朝も夜も、家で顔をあわせているというのに、わざわざ学校で言われることに、ちょっとむっとしてしまう。
「わかってるくせに……」
 実優になら我が侭も言える。仁にならむすっとした顔も見せられる。
「素直にならない順のせいでしょ。何度も言ったのに、努力しようとしなかったもの」
 実優は実優で姉だからこその容赦もない。
「ま、今まで通りってことで、変わりないじゃないか。俺はいつでも壁になってやるぞ」
 親切な台詞だけれど、順が一番気に病んでいるところをグサリと突いてくる。
 俯いて黙り込む順に実優は溜め息をつく。
「このままでいいの?」
 問われても答えられない。それは否定しているのと同じだ。
 けれどこのままじゃ嫌だと答えて、だったら頑張れといわれるのが怖かった。
 どうして好きになったんだろう。こんなに好きにならなくてもいいのに。ちょっと憧れる程度の気持ちだったらよかったのに。
 人が聞けば思い切り呆れるようなことを思いながら、順は俯いた。
「修学旅行までに仲良くなれば、楽しいと思うわよー」
 確かに周りでは俄かにカップルが増え始めている。修学旅行をチャンスと告白したり、旅行中だけでも楽しく過ごしたいというような臨時カップルも多そうだ。
「二条君も告白されてそうよね」
 希一ほど目だっていてフリーとなれば、期間限定でいいからとちゃっかりカップルになろうと企む女性もいそうだ。
「なんか、彼、やけくそで誰でもいいからって受けちゃいそうよね」
 素っ気無くなった希一は、クールなところもいいと、好感度はここにきてまた上がっているようなのだ。
 実優の意地悪な予測に、順は唇を噛み締める。
「ミユ、その辺でやめとけ。順が煽られて発奮するタイプじゃないことはわかってるだろ?」
 仁に止められて、実優は苦笑して肩を竦める。
「だけどな順、これ以上無理だと思うんなら、さっさと諦めろ。自分も辛いし、奴だって迷惑だ」
 断言されて、順はがたりと立ち上がった。
「諦められるんなら、もうとっくに諦めてる」
 捨て台詞のように言うと、教室を出て行った。
 残された二人は顔を見合わせて、「あーあ」と溜め息をついた。

 教室を飛び出した順は、二階の渡り廊下から下を見ていた。手すりに両腕を乗せて顎を置くと、グランドへと下りる階段が見える。
 上から見ているため、階段を行き来する生徒達の頭は見えるが、誰かまではわからなかった。
 そんな風に階段を見ていたら、校舎から出てきた男子生徒を一目見て、ドキッとした。
 希一だとすぐにわかった。頭の先しか見えないのに、希一だと見分けられた。
 やっぱり諦めるなんてできない。
 けれど、希一は一人ではなかった。女子生徒と一緒だった。
 実優の言葉がよみがえり、ズキンと胸が痛くなる。
 けれど希一と女子生徒は階段の手前で別れ、彼女はグランドへ、希一は引き返してくる。
 視線を感じたのか、希一が立ち止まり、振り仰いで順の方を見た。
 隠れなければ。頭の中ではいつものように命令を出しているのに、身体が拒否していた。
 動かない。身体が動かない。
 順を見上げた希一と視線がばっちりと合う。
 逸らせない。逃げられない。
 順を見て驚いたようにあっという形のまま口を開けていた希一は、順が逃げないとわかると、ゆっくりと目を細め、口を閉じて両端を持ち上げる。
 笑いかけてくれた。そうわかるまでにしばらくの時間を要した。
 その間も、希一はその場を動かず、順を見つめ続けている。
 どうしよう……。どうすればいいのかわからない。
 けれど足は縫い付けられたように動かなかった。
 希一は口を開いた。何かを言っている。けれど声は届かない。
 何?と聞きたい。何を言ったのと、身を乗り出して叫べばきっと、向こうも叫んでくれる。
 勇気を出したい。指先に力が入る。
 このまま身体を前に出せばいい。
 踵が少し浮いた時、希一を呼ぶ声がした。
 希一ははっとして、その声がした方角を見る。苦笑して片手をあげた。

 希一が仕方ないなと苦笑して、もう一度と顔を上げたとき、順の姿は渡り廊下から消えていた。




「お、おはよう」
 教室に入ったところでいきなり挨拶をされて、希一は驚いて立ち止まった。
 思わず今のは誰の声だろうかと、辺りを見回そうとしたくらいだった。
「おはよう……」
 間抜けなことに、当たり前のことしか言えずにいるうちに、順はぱっと俯いて席に駆け戻っていった。
「へー、へー、へー」
 背中を連打されてからかわれる。
「うるさいな」
 ニヤニヤと笑う達樹から逃れて、希一も自分の席につく。
「何かあったのか? っていうほどの変化じゃないけどな」
 そこまでわかられてしまうのもまた腹立たしい。
「俺にもわかんねーよ」
 ぶっきらぼうに答えるが、面白いネタを見つけた達樹は、そんな答えでは引き下がってくれない。
「嬉しいくせにー。もっとにこやかにしないとまた避けられちゃうよー?」
 ブンと振り出した手は予想されていたのか、器用に避けられてしまう。
「乱暴だなー、希一君は」
 怖い怖いと逃げられてしまう。
 たまたま自分が教室に入った時に、目の前にいたから挨拶をしてくれただけだろうとも思ったのだが、よく考えてみれば、以前はそのシチュエーションでも避けられていた。
 ならば少しは期待してもいいのだろうか。
 昨日の昼休み、視線を感じて顔を上げた先に、順が立っているのが見えた。目が合ったように思う。
 またすぐに隠れられるのだろうと思ったのだが、彼はその場から動かなかった。
 それで希一も目を離せなくなった。
 自分はグランドへの階段、順は二階の渡り廊下にいて、声をかけることすらままならなかった。隔てるものがなければ、そのまま駆け寄りたかったくらいだ。そんなことをすれば、さすがに逃げられたと思うが。
 けれどそんな風に思うほどには、順は希一のことを見ていたのだ。
 声をかけられて話し終えたときに、もう一度と振り返ったときにはもう順の姿は消えていた。
 見間違いだったのかと思うほどだった。
 それほど希一にはありえないと思った出来事だった。
 儚い花を抱きしめるように、希一はその出来事を大切にしようときめていた。
 そのまま自分にしては弱気な恋の墓標のように。
 希一があきらめ切って、今日からはもう気持ちを切り替えようと思っていた矢先に、順の方から声をかけられた。
 たまたま位置の関係だったかも、他の生徒と間違われただけかも、変な期待をするなと自らを戒めていた希一だったが、それからも順は自分から声をかけてくるようになった。
 ひどくたどたどしく、まだまだ怯えるような態度ではあったが、あきらかに希一に対して自分から声をかけている。
 どんな心境の変化だろうかと、希一は不思議に感じながらも、これはもしかしたら関係改善の絶好の機会かもと、期待を寄せ始めた。
 挨拶以外にも、順は修学旅行委員会のことや、授業のことなどでも希一に相談をしてくれるようになっていた。
 仁たちと一緒にいるときでも、彼らの後ろに隠れたりしない。
 そうなるともう希一は嬉しくて、自分からも少しずつ声をかけていくようになっていた。
「早瀬、これ、昨日話してた本、読むか?」
 昨日の帰り間際、委員会のことで打ち合わせをしていたときに、順が持っていた文庫本が、希一も好きな作家の最新刊だったことから、二人にしては話題が盛り上がった。
 希一がもう読んだ本を順がまだ持っていないと言ったので、貸そうと持ってきたのだ。
「ありがとう」
 差し出した本に伸ばされる手は、まだ希一を怖がっているように見えて、希一は端を持つようにして手渡した。
「俺はもう読んだから、返すのはいつでもいいよ」
 別に順にならそのままプレゼントしたいところではあったが、返してもらうことでもう一度話せる機会があるのならそれを逃すほど希一は鈍感ではない。
「急いで読むから」
「無理しなくてもいいよ」
 それで離れようとした希一に、順は慌てるように話しかけてくる。
「あ、あの……」
「何?」
「……僕のも読む?」
「貸してくれるのか?」
 今度の日曜日にでも買いに行こうかと思っていた希一だったが、順が貸してくれると言うのなら、それはそれでとても嬉しい。
 こくりと頷く順に、希一は嬉しそうに笑う。
「読んだら貸してくれよ。そっちも急がなくていいから」
 心の中では貸してくれたお礼にと、どこか外で会いたいな、などと思いながら、希一は浮き足立った様子でクラブへと向かう。
 話ができるようになったと喜ぶ希一に、達樹などは小学生レベルのお友達とからかうが、これでもかなりの進歩なのだ。達樹に何と言われようと、嬉しいものは嬉しい。
 特に一度完全に近いほど諦めた後なので、その喜びは倍増と言ってもよかった。
 クラブに向かいかけた希一だったが、教室に忘れ物をしたことに気づいた。宿題に出されていたレポート用の課題プリントを、机に入れたままだったことを思い出したのだ。念のため鞄の中を探してもやはり見当たらないので、取りに戻ることにした。
 気分はほとんど鼻歌混じりの浮かれ具合で、擦れ違う生徒達には、二条がにやけていたと噂をしあうような陽気さで、希一は教室へ引き返していた。
「かなりの進歩だよなぁ」
「ほんと、順の突然の頑張りには、こっちが驚いちゃう」
 聞き覚えのある声と、会話の中に出てきた順の名前に、希一は思わず足を止めてしまう。
「もう平気で話せるようになった?」
「まだ平気っていうレベルじゃないよな」
 隣のクラスの教室からその声はしていた。だから最初は二人だけで話しているのかと思った。
「平気……じゃないけど……」
 その声にどきっとする。
 自分とのことを言われているのではないかと、直感的に感じた。
「話しやすい人でしょう? 彼ほど人気があったら、気取ったりする人もいるけど、二条君はとても気さくだし、優しいし、本当に委員長にぴったりな人だと思うわ」
 名前が出て、やはり自分のことなのだとわかった。つまり順には平気ではないといわれた事で、久しぶりに胸に痛みを感じる。
「ミユ、それはあんまり褒めちゃいねーな」
 良い人と人がいいは、似ているようでちょっと違う。そして希一も今の台詞ではあ<まり褒められたような気がしない。委員長体質なのは、周りから作り上げられたイメージであって、希一自身はそうは思っていない。
 仁もそんなイメージでみられているところがあるので、同じような気持ちなのだろう。
「そうなの? 難しいわ。まぁ、順が二条君のことを怖がらなくなったから、それでいいか」
 教室に戻るには、三人のいるドア付近を通らなくてはならない。これだけ会話が聞こえてしまうのだから、ドアは開いているのだろう。今通りかかったことにすれば気まずくないだろうかと、動かそうとした足が順の言葉でぴたりと止まってしまった。
「まだ……怖い」
 ぐっと歯を食いしばる。
「そうなの?」
「話してると緊張して……苦しくなる」
 自分に向かって言われたわけではないが、姉と幼馴染みだからこそ言えた言葉だからこそ、それが順の本音なのだ。
 怖くて、緊張して、苦しい……。
 これ以上辛い言葉があるだろうか。
 もう宿題などどうでもよかった。早くこの場から逃げ出したい。
 一歩、二歩と後去ったとき、自分たちの教室から出てきたクラスメイトが呼び止めた。
「二条、まだ残ってたんか? ラッキー。メールしようかと思ってたんだ。なぁ、明日のさぁ」
 その声はあまりにもはっきり聞こえすぎた。
 三人がぎょっとして、ドアから出てくるくらいには。
 気まずい顔を見合わせて、それぞれが言葉を探す。
 一番苦しいのは自分だと思うのに、希一は逸らした視線の端に、泣き出しそうな順を見てしまう。
「無理……しなくていいから」
「おい、二条」
 慌てて仁が希一を止めようとする。
「委員会のフォローは今まで通りする。もう女子や他の奴にも無理は言わせないようにする。無理して俺に話しかけなくて……いいから」
 笑い出しそうだった。
 無理をさせていたのに、自分はこんなに喜んで。スキップさえしかねないほど浮かれていて。
「無理させて悪かった」
 くるりと背を向ける。
「待てよ、二条!」
 ずんずんと歩く希一の背中に、仁の声が突き刺さる。
 待つつもりはまったくなかった。




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