一歩近づいたように感じた距離は、確かに一歩分だったが、今までからすれば大きな一歩だと希一には感じられた。
テストが終わると修学旅行の委員会は本格的になり、週に二度は開かれていて、その度に希一は何か困ったことがないかと順に話しかける。
順は聞かれたことに、最低限の単語で答えるだけだったけれど、希一にしてみれば、それは大きな進歩なのだ。
「それ、手伝うよ」
クラスの皆からとったアンケートを、次の委員会までにまとめなければならない案件があった。
隣のクラスの委員である仁と一緒にすると逃げられるかなと危ぶんでいたが、順は少しの間迷ってから、小さく頷いた。
内心で快哉をあげながら、希一はにっこり微笑んで、順の前の席から机の向きを変えて、ぴたりとくっつけた。
「今日は咲田は? 迎えに来るのか?」
自分で誘っておきながら、仁に邪魔されるのではないかという心配から、それを尋ねずにはいられなかった。
「今日は……ミユちゃんと……病院……」
「どこか悪いのか?」
ずっと病気のために休学し、一年間も遅れてしまった順の姉が病院に行ったというので、心配になって尋ねた。
「定期健診で……」
やっぱり単語だけの答えだけれど、希一はそれでも満足だった。
「早瀬のとこ、仲がいいのな。姉貴のこと名前で呼ぶんだ?」
「……うん」
「俺のところなんて、姉貴は恐怖の存在だぞ」
「お姉さんが……いるの?」
はじめて希一のことを聞いてきた順に、嬉しくなって笑顔で頷いた。
「俺んちはね、姉貴と妹がいる。男は俺一人」
「……そうなんだ」
順が手を止めて希一を見た。
「妹は可愛いんだけどさ、姉気は怖いよー。俺のこと下僕と思ってる。二番目の子供なのに、名前に一があるのが腹が立つんだって、俺のことを苛めるんだ」
希一が苛められている姿が思い浮かばず、順は首を傾げる。
「二条君て……一番上だと思ってた……」
クラスをまとめ、リーダーシップを発揮する姿に、そう思う人は多い。
「よく言われるけどね。実際、妹はいるわけだし」
妹が可愛いといった希一に、順は兄としての希一を想像し、彼の妹が羨ましくなる。
「うちの姉貴なんてさ、名前で呼んだら確実に蹴りが入るね」
あまりに想像できなくて、順は思わずくすっと笑ってしまった。
その笑顔を見て、希一はぽろりと持っていた鉛筆を落としてしまう。
最初に順に惹かれたのは、曇りのないピュアな瞳だった。大きくて黒目がちの目が泣き出しそうで、守ってやらなければと思ったものだ。
それからはずっと避けられてばかりで、まともに顔を見たことがないと言ってもいいくらいだった。
同じクラスになってからも、順は希一の前では俯いていることの方が多い。
背の高い希一と、低い順では、真っ直ぐに向き合っていても、旋毛が真っ先に視界に入るのだ。
だから、笑顔など、見たくても見れなかった。
こんな可愛いとは思いもかけなくて、びっくりしてしまった。
確かに姉の実優は美人と評判で、上級生にも、今の同級生にも人気がある。
その実優の評判に隠されていて、順の可愛さに今まで誰も気づかなかったことになる。
順は床に落ちた希一の鉛筆を拾ってくれた。
「あ、ありがとう」
パチリと目が合うと、順は慌てて俯いた。ぎゅっと肩を縮めるようにして、鉛筆を持っている。
やっぱりまだ怖がられているんだなと、希一は悲しくなった。
「ごめんな、俺、喋ってばっかりでさ」
無言のまま順は首を振る。
真っ直ぐで癖のない髪が、サラサラと揺れた。
「頑張ってまとめようぜ」
本当は一緒に帰ろうと誘いたかった。帰りにどこかに寄って、何か食べようとも。
しかしそんなことを言っても、断られることは、今の空気からみても明らかだ。まだまだチャンスはきっとあると思って、焦らずにいこうと決めた。
そこからは無言で二人でまとめ作業に集中した。カリカリと鉛筆で書き込む音だけが響く。
「よしっ、できた!」
最後の一文字を書き終えて、希一は鉛筆を置く。うーんと伸びをすると、順も作業を終えたようだった。
「できた?」
「うん」
まとめた用紙をファイルに挟んで、カバンに入れる。今度の委員会で提出するのだろう。
「あ、先に行ってていいぞ。俺、教室の戸締りをしていくからさ」
だから一緒に帰れない。それは自分に言い聞かせるための行為だったように思う。
「今日はありがとう」
俯いたままだったけれど丁寧に礼を言われて、希一は嬉しくなる。
少しずつでも順と打ち解けられればいいと思った。
すべての戸締りを確認して、鍵を返すために事務室へと急いだ。
階段を下りたところで、一人で下足室から出て行く順の背中が見えた。
姉も仁もいなくて、一人なのだと思うと、その背中がとても寂しそうに見える。
断られることなど最初から承知なのだ。けれど一人だとわかっていたら、もしかしたら頷いてくれるかもしれないじゃないか。
そうしたらあんなに寂しそうな背中を見ないで済んだのだ。
「早瀬!」
鍵を手にしたまま、希一は開け放たれたままのドアから身を乗り出して、順を呼び止めた。
びくりと背中を震わせて、順が振り向いた。
「一人なら、一緒に帰らないか?」
順は立ち止まって、希一の方を見た。
「二条先輩!」
順の側まで行って、返事を聞こうとした希一は、突然かけられた声に今度は自分が立ち止まった。
女子生徒が二人、ドアの近くに立っていた。その様子から、希一が出てくるのを待っていたように思われた。
「あの……、お話が……」
希一を先輩と呼んだところから、相手は一年生だと思われる。
一人が真っ赤な顔で、もう一人が励ますように腕を持っているところから、なんとなく希一にはわかってしまった。こんなシーンには、少しばかり慣れていて、心当たりもあった。
「ごめん。急いでいるから」
聞く必要はなかった。それが自分の答えだとばかりに、希一は離れようとする。
「ええっ、そんな!」
下級生は不満気に希一を見て、そして何故か順を見た。
非難の目を向けられた順は顔を強張らせて、二歩三歩と後退り、くるりと身体の向きを変えると、逃げ出すように走っていく。
「早瀬!」
「二条先輩!」
呼び止めようとしても、希一は上靴のままで、しかも付き添いらしい女の子の方に、腕を掴まれてしまう。
見る見る間に順の背中は小さくなり、校門から消えていった。
「少しの間でいいんです。お願いします」
うんざりしながら希一は振り返った。それで答えを察して欲しいと思うのに、彼女達は少しも諦める気配がなかった。
なんとなくざわついているよな?と、登校したときから感じていた。
「なぁなぁ、亜理紗ちゃんのこと、振ったんだって?」
クラスに入るなり、達樹が側に来て、ニヤニヤと笑う。
「アリサちゃん? 昨日の子か?」
名前まで覚えてなかったので、希一はぽつりと繰り返した。
「これだよな。一年で一番可愛いって噂の遠藤亜里沙ちゃん。可愛かっただろう?」
「そうかな。なんかさ、気がきつそうだったぞ」
断った後で、どうして私じゃ駄目なんですかと、聞く子は今までいなかったように思う。
友達と一緒に来るというパターンは何度か経験しているが、充分一人でも来れそうだった。ついてきてもらったのはパフォーマンスとしか考えられなかったほどだ。
「そんなこと言うの、お前だけだって。まぁ、お前はさ、深窓の令嬢が好きだもんなぁ」
意味ありげに笑われてむかついたが、挑発には乗らないことにする。
下手に言い返してボロを出しては元も子もない。やっと、ポツポツとではあるが、喋れるようになってきたところなのだ。
「そういえば、昨日は二人でどうだった?」
油断のならない奴。ばれてないと思ったのに。
「普通に作業をして終わりだよ」
「一緒に帰ろうとしたけれど、思わぬ告白劇で一緒に帰れなかった?」
内緒話のように耳元で囁かれてゾッとする。
「お前ー、鳥肌が立っただろう! 男にくっつかれても嬉しくなんかないんだよ」
ぐいっと達樹の胸を押し返したら、ちょうど通りかかった生徒にぶつかった。
「あっ、悪い」
どうしてこうも自分はタイミングが悪いのだと、己を罵りたくなる。
「大丈夫か? 早瀬」
「ひどいよなー、早瀬。希一ってば、男にくっつかれたら、鳥肌が立つんだったよー。早瀬はそんなこと言わないよなー」
これ見よがしに達樹は順に抱きついた。
声は泣き真似だが、目は希一を見て笑っている。
ぎゅっと足を踏んでやると、さすがに反省したのか、順を離す。
順は真っ赤になったまま、俯いていて、もちろん希一を見ようともしない。
「こいつさ、昨日一年の可愛いー女の子にコクられたんだよ」
真剣に殺意を覚える。
「それをさ、振ったんだって。もったいないよなー」
順の肩がピクリと震え、ゆっくりと顔が上がる。
ちらりと上目遣いに見られたような気がしたが、順はまたすぐに俯いた。
「気がきつそうで好みじゃないんだって。希一ってば、奥ゆかしい子が好みなんだってさ」
殺意は机の引き出しに仕舞い込む。
「早瀬、今日も手伝おうか?」
この隙にと、昨日は果たせなかった、一緒に帰る、を達成しようと目論む。
「今日はミユちゃんたちがいるから……」
「そっか、そうだよな」
希一はハハハと陽気に笑って見せる。
逃げるように順は自分の席に行ってしまう。
「あーあー、振られちゃったなー」
「お前、やっぱり殺す」
笑う達樹の胸を拳で叩いてやる。
「怖い顔してると、また避けられちゃうぞー」
人が気にしていることを! ゆらりと立ち上る本気の殺意に、達樹は言い過ぎたと悟って、ごめんごめんと逃げていった。
「一年生の女の子を振ったんだってさ」
仁が実優に話しかけている。誰のこととは言わなくても、もう誰もが知っている。
どうも振られた女の子が、腹立ちまぎれに、希一の悪口も一緒に言いふらしているらしい。
「同じ振るにしても、もう少しスマートに言ってれば、悪口までは言われなかっただろうに」
仁の希一に対するコメントはいつも辛口だ。
「でも悪口まで言うなんて、振られても仕方ないって思っちゃうわ。実際、二年生の女の子達は、二条君に同情してるわよ」
実優が弟を見ながら希一をかばう。
「奥ゆかしい子が好みなんだって」
「はぁ?」
「え? そんな話ができるようになったの?」
仁と実優が驚いている。
「違うけど……。きっと好きな女の子がいるんだよね」
そんな泣きそうな顔をしなくても、彼は誰から見ても明らかに、君が好きなんだよと、言ってしまいそうになる。
「本人に聞いてみなくゃわかんねーよ。勝手に決めて落ち込むなよ」
希一のことを悪く言いながらも、実際に順が落ち込むと慰めてしまう。
実優には、父親か母親みたい、と笑われながらも、そのスタンスは崩せずに高校まできてしまった。
「きっとミユちゃんみたいな子が好きなんだよ」
「いやー……」
奥ゆかしいのとはちょっと遠いと言いかけて、その本人に微笑まれ、仁は口を閉じた。
「私は昔からしっかりもののお姉ちゃんだったでしょ。仁の言うとおり、本人に聞くのが一番いいわよ」
「なんて?」
「好きな子はいるの? って」
「無理」
それを順が聞いたときの反応が見てみたいものだが、案外彼なら、そのまま告白してくれるように思えた。
彼ほどいろんな所に気のつく人なら、もう順の気持ちもわかってくれているように思う。
一歩を踏み出せないのは、順を委員に推薦した修学旅行が終わるまではと、彼なりにけじめをつけているのかもしれない。
「とりあえずは、もうちょっと喋れるようにならなきゃね」
実優の励ましに、それも無理だとは言えずに、頷くように俯いた。
「でも、男にくっつかれると鳥肌が立つって、言ってた」
それを聞いたときはショックだった。
希一に一目惚れし、一年間、ずっと『好き』を暖めてきた順は、男から好きと思われても気持ち悪いだろうと、必死で逃げ続けてきた。
仁に隠れ、そっと影から見られるだけでよかったのだ。
一緒のクラスになって、少しだけ喋れるようになって、その挙句に鳥肌が立つなんて聞いてしまうと、暗澹たる気持ちになってしまう。
「やっぱり、喋れないほうがいい」
順のあまりにも後ろ向きな発言に、二人は顔を見合わせて溜め息をつく。
「じゃあ、順は彼に可愛い彼女ができても、平気なの? 明日、もう会えなくなることになっても、後悔しないのね?」
いつもは優しい実優だが、弟の消極的な発言には、しっかりしなさいよと姉らしい励まし方をする。
「後悔しないもん!」
けれどとことん地に沈んでいた順は、無理なことばかりを言われて、とうとう切れてしまった。
「ミユちゃんはいつも仁が一緒にいるから、僕の気持ちなんてわかんないんだよ」
「こら、順」
いつも一緒にいたけれど、実優を失う恐怖を一度味わった仁は、順の言い過ぎを止めた。
「だって、無理なんだから!」
順は駅前まで来ていたが、二人とは一緒に帰りたくなくて、逃げ出してしまう。
「順!」
実優の呼ぶ声が聞こえたが、順は止まらずに走り続けた。
「ミユちゃんの馬鹿……」
途中まで学校へ引き返してしまい、順は民家の塀にもたれて、ぽつりと姉への不満を口にした。
ちょうどその家の大きな木が茂っていて、そこだけが日影になっているのだ。
蝉の鳴き声が間近でして、噴出す汗をシャツの袖で拭った。
逃げ出したとしても、家に帰れば否応無しに顔を合わせることになるのにと、順は少しだけ悔いていた。
実優の言い分の方が正しいことはわかる。けれど頑張ってもどうしてもできないことはある。
「早瀬? どうしたんだ? 咲田たちと一緒じゃないのか?」
声をかけられて慌てて顔を上げる。
希一が目の前に立っていた。
ドクンと心臓が一つ大きく鳴った。
「早瀬? どうしたんだ? 咲田たちと一緒じゃないのか?」
希一が目の前に立っている。
心配そうに近づいてこられて、心臓がドクドクと音をたてて早くなる。
「一人か?」
コクリと頷いたまま、自分の爪先を見る。
「希一、どうするー?」
バスケット部の仲間と一緒に帰るところだったらしく、部員達の声がかかる。
「悪い。ここで」
「じゃあなー。また明日」
あっさりと仲間達と別れて、希一は順のところに残ってくれた。
「気分悪いのか?」
否定に首を振る。気分は悪くないが、二人きりでいるという事実に、緊張で眩暈がしそうだった。
「歩けるか? 送っていくよ」
優しい声ははじめて出会ったあの日を思い出す。あの時も順のことを心配してくれて、保健室までつれていってくれた。
ぎくしゃくとしながらも、順は希一について歩き始めた。
「なんかさ、あの時みたいだな。入学式」
希一も同じことを思い出していたのかと思うと、それだけで嬉しくなる。
「俺ってさ、お節介だし、強引だから、早瀬のこと、怖がらせちゃったのかもな。ごめんな」
思い返せば、順を強引に保健室に連れて行ったような気がした。
もしかしたら、とても迷惑に思われたのではないかと、あれから何度も後悔した。
順は謝らないでと、迷惑じゃなかったと言いたいけれど、なかなか言葉が出てこない。
「咲田たちは? 先に帰ったのか?」
振り返った希一に、順は頷きかけて、違うのだと首を振った。
「喧嘩……した」
「誰と誰が? え? 咲田と早瀬さん? まさかな」
仲がいいというより、一緒にいる雰囲気がとても自然な感じがする。実優が病気をしたこともあるのだろうが、仁は希一に対するのとは別人のように、穏やかになるのだ。
「僕と……二人。……引き帰してきた」<br>
一生懸命説明されているのだろうが、少ない言葉を想像で補うには、なかなか時間がかかる。
「早瀬が、咲田やお姉さんと喧嘩したのか? それで、早瀬が怒って、一緒にいたくなくて、引き帰した?」
その順序であっているだろうか? 疑問いっぱいで訊くと、順が小さく頷いた。
「本当に? 何が原因で?」
まさか君が原因で……ともいえず、順は黙り込むしかできなかった。
「っと……悪い。どうして俺はお節介かな。立ち入られたりしたら嫌なこともあるよな。ごめんな」
順の沈黙を、自分のせいだと勘違いして、希一が謝る。
自分の言葉が足りないために、希一に謝らせてしまった。
どうすればいいのだろう。
「でもさ、きっと二人とも電車に乗らずに待っててくれるよ。安心しろよ」
そんなことがあるわけない。
きっと二人とも、さっさと家に帰ってるに決まってる。
気弱で、素直じゃなくて、励ましても出来ないと逆切れした弟など、可愛くないに決まっている。
「もしも二人がいなかったら、俺が家まで送っていくからさ」
優しい言葉に胸が熱くなる。
「あー……でも、俺だと迷惑か?」
不安そうな言葉に、順は首を振った。迷惑なんかじゃない。
そのままついていこうとすると、希一の足がピタリと止まる。
どうしたのだろうと、順がそろそろと顔を上げた。
希一の足から腰、胸から顔へ、上へ上へと視線が移動していく。
希一は驚いたように順を見ていた。
「……あの……二条…くん?」
そんなに見つめられると、どうしていいのかわからない。顔はかりでなく、全身が熱を持って、赤くなりそうだった。
希一はただひたすら、迷惑ではないと、否定されたことに驚いていた。
順が嫌がっているのではないとわかるだけで、それだけで嬉しくて叫びそうになった。
もちろんそんなことをすれば、せっかくの空気が壊れてしまうので、飛び上がって喜ぶことは控えた。
「じゃあ……じゃあ、送っていくよ、二人がいなかったら」
ぐっと手を握る。
つい今の今までは、仁も実優も駅で順のことを待っているという確信があったが、この瞬間に、帰っていてくれと真剣に願っていた。
駅前に着くと、二人の姿はなかった。
ちょっとほっとする希一は、順が溜め息をついて俯くのに、緩みそうになった頬を引き締める。
「そ、そのさ、送っていくからさ。家に着いたら、仲直りすればいいじゃないか。お姉さんなんだからさ、早瀬が謝ると許してくれるよ。うちの姉貴だと、許してくれないけど、早瀬のお姉さんなら、きっと大丈夫!」
妙な慰め方をすると、順はますます俯いて、鞄をぎゅっと握りしめる。
「大丈夫か?」
肩に触れてもいいだろうかと迷う。できれば抱きしめたいくらいだが、それは到底できそうにもない。
「俺も一緒に謝ってやるよ。な?」
希一の手が、順の肩や頭に触れようとして、触ってはいけないと、宙をウロウロと泳ぐ。
どうすれば順が元気になるのかわからない自分が情けない。
「そろそろ電車が来るぞ。とりあえず、乗ろう」
そっと背中に手を置くと、順は大慌てで身体を引いた。そのまま数歩離れて、身体を震わせる。
あからさまな恐怖の反応に、希一はひどく傷ついた。
「あ、……ごめんな。もう……触ったりしないから。離れて歩くよ」
声の震えを抑えようとしても、無理だった。
「ち、ちがう。……あの……」
変な誤解を与えてしまった。それはわかったが、希一にうまく説明できない。
「順!」
改札の手前で気まずく佇む二人に、声が割り込んできた。普段なら邪魔だと思うのだが、今回ばかりは、とても救われた。
「どうかしたのか?」
二人の緊迫した雰囲気に、仁が真ん中に立った。じろりと希一を睨む。
「早瀬が仲直りしたいって言うからさ。何があったのかわからないけど、許してやってよ。じゃあ……良かったな、早瀬。また明日な」
くるりと背を向ける。
「どこへ行くんだよ」
改札から背を向ける希一に仁が声をかけた。
「クラブの奴らと合流するんだよ」
「順、ほら」
実優の声がして順が小さく一歩を踏み出すが、希一はその顔を見ずに駆け出した。
自分はそんなに強くない。
明日教室で笑って挨拶するためには、これ以上傷つきたくない。
遠ざかる背中を見つめながら、実優は溜め息をついた。
「順、いい加減にしないと、いつもこうして彼の背中を見ることになっちゃうわよ」
「だって……、二条君は……ミユちゃんが好きなんだ。ミユちゃんのこと、優しいお姉さんだからいいなって」
希一が聞いたなら、どこをどう聞けばそうなるのか問い詰めたところだ。
実優だって仁だって、きっと順の勘違いだろうとわかっていたけれど、あまりにも不器用な二人に、呆れてしまってその場では何も言えなくなってしまった。
恋とは臆病なもの。
意識する前から相手が隣にいた二人には、その臆病さが理解できなかった。
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