長い夜。一人きりの長い夜。
遠い日、二人で眠っていたベッドは、一人ではとてつもなく広く、冷たい。
うつ伏せになって、全てを遮断するように耳を塞いで目を閉じる。
忘れていたはずの悪夢が甦る。
いや、……
本当は忘れてなどいない。
忘れていたような気になっていただけだ。
『透……』
呼ぶ声は近くにある。あるはずなのに。
『透……』
けれど、どうしても手が届かない。
しばらく留守にしていた部屋は、まるで異国のように透を出迎えた。
もう、ここには透の場所などないように。
「そんな……、嫌だ……」
ここにいれば、何もかもすべて忘れて生活できる。
あいつがいると信じて、待っていればいいと信じて、毎日を過ごせば、時が
流れていってくれる。
「…………」
前には簡単に呼べた名前。それがどうしても口にできなかった。
そして、そんな自分が信じられない。
……もう、あの頃には戻れないのだろうか。
そう思うと、無性に悲しかった。
あの頃、何より辛かったのは、彼がもう戻ってこないと認める事だった。
自分が一人きりだと知ってしまう事だった。
それが今は……。
重い空気にたまらず、窓を開ける。
シンと冷えた風が頬を撫でる。
「俺……、わからないよ」
どうすればいいのか。
何をすればいいのか。
「俺にばっかり、考えさせて」
ずるいよ、お前。
窓ガラスを指先で叩く。
「このまま……、じゃダメなのかな?」
教えてくれよ。
このままじゃ……。ダメになる。
透は冷たいガラスに額をぶつけ、きつく目を閉じた。
きらきらと目蓋の裏に流れる景色は、あの日の二人。
こんな風に、楽しい頃の二人を思い浮かべられるのは、あの人のお陰。
わかっているのに。わかっているのに。
でも、心の中で今も意地を張る自分が叫ぶ。
このままでいい。
このままでいたい。
変化は恐怖でしかない。
……これ以上、なにも失くしたくない。
うつらうつらとまどろみ、目を覚ましては暗い窓を眺める。
そんなことを繰り返していると、空が白いもやを流したように、明るくなっ
ていく。
明けない夜はない。
感傷的な言葉を思い浮かべ、昇る朝陽を見ていると、涙が一粒、溢れて流れ
た。
その涙は、夜風に冷えた頬には、とても熱く感じられた。
「正彦……」
その名を呼ぶと、健康そうな明るい笑顔が思い浮かんだ。
懐かしい微笑み。屈託のない笑い声。
思い出すのは、辛くない……。もう、辛くない。
「俺……、間違ってるかな?」
透が呟くと、懐かしい面影は、曖昧な笑顔で答えてはくれない。
「卑怯だよ」
いつも、透が悪くても先に謝ってくれた。
謝らせてくれなかった。優しい人。
最後に自分だけを置いて行って。
「採算が合わないよ」
涙を袖で拭いて、無理にも笑う。
静かな夜明けの部屋に、軽い電子音が響く。
控えめに設定した音だが、それは静まり返った部屋には大きく聞こえた。
透は慌てて、窓辺から離れ、受話器をあげた。
『おはよう』
門田の声が優しく響く。
「あ……」
咄嗟に声が出なかった。
『起こしてしまったかな?』
「もう……、おきていたから」
僅かな沈黙が、二人の間を隔てる。
『今夜、早目に帰ってくるから、もう一度話し合おう』
それは押し付けるでもなく、諭すでもなく、ゆっくりと透の胸の中に染み込
んできた。
『透?』
透が目を閉じ、その声を聞いていると、心配そうに、門田は呼びかけてきた。
『よく……、眠れたかい?』
「うん……」
ドアの前で、透がどれだけ拒絶しようとも、一歩を踏み出すのを待っていて
くれた。どれだけ拒んでも、一言も責めなかった。
門田は優しいのではなく、強いのだと、あらためてわかる。
「もう、出かける?」
「ああ。今朝は鎌倉の方で会合があるから。帰りは七時頃になる」
「……わかった。……いってらっしゃい」
「いってくるよ」
カチャッと、通話の途切れる音を確かめ、透も受話器を置いた。
「ごめんなさい」
聞こえるはずもないけれど、今夜ちゃんと言うからと、透は電話に向かって
謝る。
朝陽がきらきらと廊下に陽だまりをつくっていた。
部屋の窓を開けて、空気を入れ替えた。
カーテンが風に揺れるのを眺めながら、ぼんやりと一日を過ごす。
思い返せば、それが透の一日の過ごし方そのものだった。
何もせず、外界をシャットアウトし、部屋に引きこもる。
そうしていれば幸せだった。何も怖くなかった。
ただ辛いのは、正彦が帰ってこないことだけだった。その事実さえも、時に
は「実家に引きとめられている」そんなふうに自分を誤魔化して、彼を待つと
いう偽物の幸福にひたれることができた。
風が部屋の中を優しく通り抜ける。
今はもう思い出しかない部屋だ。それを現実として受け止められるし、自分
でも無駄なことをしていると理解もできる。
けれど……。
「頼むから……」
誰に言うともなく、透は呟いた。
まだ変わりたくない。今のままでいたい。
我が侭だともわかっているし、門田の手を取った今、いつまでもこのままの
状態でいられるわけがないともわかっている。
わかっているけれど……。
いずれその時が来たら、自分でちゃんと選ぶから。
それは言い逃れなのだろうか。
優しい門田に甘えているだけなのだろうか。
「嫌だ……、どうしても」
頭では理解していても、心がうんと言ってくれない。
答えを迫られると吐きそうになる。
「誰も、わかってくれなかったくせに……」
こらえ切れずに涙が零れる。
ずっと門田の優しさで守られ、甘えの精神が根付いてしまったのだろうか…
…。
ふっと唇を歪める。
自分が出そうとしている結論は、結局独り善がりでしかないと思う。
周りを納得させるためだけに出した答えは、門田に却下されてしまった。
門田に呆れられてしまったのではないだろうかと、そんな不安に押し潰され
そうになる。
門田の手をなくしたら。もう一度この部屋に閉じこもればいいだけだと思う
のに、それを考えると寒気がした。
もう一度あの生活を……。それはできそうにないと思う。
なのに変化が嫌。
これではもう、子どもよりも我が侭だ。聞き分けのないダダッコのようだ。
窓を開けていると、外の喧騒が聞こえてくる。
車の音。人の話し声。どこかの工事の音。飛行機が上空を渡っていく。
時間の流れは緩やかなようでいて、呆気なく過ぎる。堪らないほど長い一日
は、透の中では今、惜しいほど大切な一日になっていることに気づく。
夕陽が沈んでいく窓を閉め、カーテンをとじ、部屋をロックしてから、透は
門田と暮らす部屋へと向かった。
エレベーターは使わず、階段を昇り、ドアの前に立ち、鍵を取り出した時、
エレベーターのドアが開いた。
小さな箱から出てくる門田を見て、透は少し悲しいような、辛いような、け
れど幸せだと思う、そんな笑顔を浮かべた。
鍵を差し込んだまま、門田を見ていると、彼のほうでも透に気づいたらしく、
優しそうな笑顔を浮かべた。
「おかえりなさい……」
その言葉と共に涙が溢れ出た。いろんなことを思い出し、不安な一日が透に
涙を流させる。
そんな透を門田は抱きしめ、優しく告げた。
「ただいま」
「俺、泣き過ぎだよね。情けない」
透は涙を拭きながら、門田に背を向けた。リビングに入ってから、部屋の灯
かりが気になって、泣いている自分を見られたくなかった。
そっと頭に手を置かれる。広く大きな温かい手。くしゃりと髪をかきまぜら
れると、ほっとする。
「感情が豊かなんだよ」
そのまま引き寄せられる。門田の広い胸に、背中から抱かれる。胸に手を回
され、抱きしめられると、新たな涙が零れる。
「男なのに……」
男を愛して。愛した男を亡くして、忘れられずにいて。
それを許してくれる男に甘えて。
「男だって、人間だよ。感情をコントロールできない時は、身体が涙を流して
調整してくれるんだ」
……でも。
透は門田の腕の中で、首を振った。
「私は男の方が、実はよく泣くと思うよ」
「え?」
透はその言葉に驚いて、自分を抱きとめる男を見上げた。
「芝居でもね、男の方が、オイオイと声を上げて泣く。それだけ、昔は感情を
殺せない場面が多かったんだろうね。男は戦に出るのが当たり前だったし、危
険は女性より遥かに大きかっただろう」
「でも……」
今は平和な時代なのに。
透は抱き寄せられたまま、俯き、自分の足元を見つめた。
「透は、それだけ、辛いことがあったのに、一人で処理しようとした。その時
間が長かったからね」
頭の上から降ってくる言葉は、昔なら聞きたくなかった言葉だっただろう。
けれど今なら、門田の言葉なら聞ける。
「その倍は時間をかけて、倍は泣かなくちゃ。恥ずかしい事じゃない」
「甘やかし過ぎだよ、直道さん」
透が指摘すると、門田は秘めやかに笑った。
「透は甘え方を知らないからね」
「そうかな……」
胸に回された暖かな手に、透は自分の手を重ねた。昨夜の激情が嘘のように
遠い。それが自分でも不思議だった。
「若い人はもっと物欲も、私欲も、大きいものだと思っていたよ。それが透は
恐ろしいくらいに少なかった。…………それが私には怖いんだ」
「怖い? ……どうして?」
「今にも透が消えてしまいそうで」
門田の苦しそうな声に、透は腕をほどいて向き合った。門田が透を見つめて
いる。
吸い込まれそうな深い瞳。けれど、見ているだけでいつも安心できる。その
目が、本当に不安そうに揺れていた。
「消えたりしないよ……」
透が苦しそうに言うと、門田はわかっているよというように、優しく微笑ん
だ。
「誰かに、何か言われた?」
不意に聞かれ、透は息を止めた。
昨夜の諍いの原因は、透が働きたいと言いだし、それを門田が反対したから。
透が突然働きたいと言い始めたことに、門田は門田で何か思い当たる事があっ
たのだろう。
そう言えば、門田が帰ってきた時に、透は電話で言い争いをしていたのだ。
「………………そうじゃ、ない」
透は誰かを庇うとかではなく、つい否定した。
誰かに何かを言われたからではなく、透自身考え始めていたことでもあった
から、つい「働きたい」と口に出た。
「直道さん、どうして俺が働く事に反対するの?」
透は門田の着物の袂を握り締めて、恐る恐る聞いた。
「反対じゃないよ」
「でも、昨日は!」
「まだ、賛成できないって言ったんだよ」
「まだ? ……って?」
透が見詰める先では、いつもは穏やかに自分を見る瞳が、今は真剣な色をし
ていた。
「そのままの意味だよ。透の身体が本当に健康になったら、透がしたい仕事を
見つけられればいいと思っている」
「もう元気だよ。自分でもわかる」
確かに、いつ死んでもいいと思っていた。そんな身体になっていた。それが
怖いとも思わなかった。むしろ幸せなまま、死ねると思っていた。
あの頃に比べたら、今は健康過ぎるくらいだ。
だから透は健康だと訴えた。今は健康なことに自信さえあった。
けれど門田は静かに首を横に振った。
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