熱情

 




 門田直道が玄関のドアを開けると、透の怒鳴るような声が響いてきた。
「うるさいな! お前に関係ないだろ!」
 それに対する答えは無い。
「いいだろ、もう! そんな事、言われたくない!」
 どうやら相手は電話の向こうらしい。
 透の叫び声というのも珍しいが、それが悲痛な色をしていれば、門田として も黙ってはいられなかった。
 急いでリビングに戻るのと、透が激しい音を立てて電話を置くのと一緒だっ た。
「大丈夫かい?」
 門田が呼びかけても、透は聞こえていないのか、驚いたように目を見開いた まま、微動だにしない。
「透?」
 ようやく門田の声が届いたのか、透はぴくりと肩を震わせ、目からはみるみ る涙を溢れさせた。
「何があったんだい?」
 透を胸に抱き寄せ、門田は静かに透の背中を、何度も優しく撫で下ろす。
 声も出せずに泣く透は、激しく首を振りながら、門田の着物の襟元にしがみ ついてくる。
 二人が出会ってから、ようやく半年、季節は二人の周囲を秋色に変えて いっている。
 透が正彦と暮らした部屋はそのままに、門田が同じマンションに部屋を借り、 透が門田のところに通うという形で、二人は一緒に暮らしている。
 透より一回りも年上の門田は、とても穏やかな人柄。透は恋人を亡くして日 も浅く、一人きりで過ごした時間が長く、物静か。
 そんな二人の部屋は愛情に溢れてはいても、時間の流れさえ緩やかに感じる くらい落ち着いた空間だった。
 こんな感情が破裂したような事態そのものが珍しいと言える。
 だが、門田はただ黙って透を抱きしめてやった。
 無理に問い質さない。聞き出さない。
 気の済むまでゆっくり抱きしめる。
 自分の感情が鎮まり始めるのと同時に、門田の心臓の音が聞こえてくるよう になった。
 彼の人柄と同じような、穏やかな鼓動に、透はその拍動と同じ速度で自分を 取り戻していく。
「……………………ごめんなさい」
 やがて透は、ゆっくりと長い息を吐き出し、弱々しい声で謝った。
「何があった?」
 門田は優しく微笑みながら、透の髪を梳き、まだ濡れたままの瞳を見つめて 問いかけた。
「…………なにも……」
 何も無い。そう言いかける透に、門田は軽く眉根を寄せる。
「透、何も無くて、泣くのかい?」
「…………」
 けれど透は何も言うまいとするように、唇を固く引き結び、首を振った。
「透……」
 心配しているんだよ。そう言いかけてやめる。
 透が門田のそんな様子をわからないわけがない。だからこそ言いたくないの ではないのかと思う。
「…………何でもない。ちょっと、桑田と言い争いになっただけ」
 門田の心配そうな表情に、透は無理にも笑おうとした。
「電話の相手は桑田君だったのか?」
 笑おうとして失敗し、透はまた門田の胸に顔を伏せる。
「落ち着いたらかけ直せるかな?」
 友人同士の言い争いで、こうまで透が崩れるだろうかと不安になりながら、 普段の透と桑田の話し方は、門田から見ても年相応の男同士の友人のふざけあ いというものを感じさせて、微笑ましく思っていたのだが、その延長のように 喧嘩してしまったのだろうかと推理する。
「…………うん」
 透の頼りない返事に、門田はぽんぽんと透の背中を叩いてやる。
「でも、透の気持ちが落ち着いたら話して欲しいよ」
 今まで自分が知らなかった透のことを話してくれる透の友人達。門田は彼ら が大好きだった。
 透が過去にしがみつき、閉じこもっていた間も、振り払われるとわかってい る手を差し伸べていてくれた。だから、透は今、この腕の中にいる。
 そう思うだけで、感謝の気持ちが溢れる。
「桑田には……、何も聞かないで」
 透は顔を上げ、縋るように門田を見た。
 ふと、疑問がこみ上げる。
 桑田や他の友人と門田が打ち解ける事に、透は最初の頃、不安を感じていた ようだが、最近ではそんなことも言わなくなり、ごく自然に彼らの話題も出せ るようになっていたというのに……。
 何か自分は失敗したのだろうかと、急に不安が押し寄せる。けれどその不安 を透に見せる事はしたくないと、門田は微笑んだ。
「何も聞かないよ。透が望まない事はしない」
 門田はまだ露を含んだ透の目尻に口づけ、そして透の唇を吸った。
「おかえりを言ってくれない唇に、お仕置きだよ」
「おかえり……」
 少し驚いて慌てて挨拶をしようとする唇を、全ては言わせずに、唇で塞いだ。
 泣いていた勢いで吐き出させれば良かったのだと、それはもっと後になって 思ったこと……。





 些細な気持ちのすれ違いは、『感じてはいけない』とわかっているからこそ、 胸の中に降り積もり、積もり積もって、『そんなことはない』と否定すればする ほど、わだかまりを強くしていく。
「……透?」
 門田に不思議そうに話しかけられて、透はびくりと身体を震わせた。
「あ……」
 ガチャンと食器同士のぶつかる音が、静かな食卓に苛立つように響いた。ま るで森の中にショベルカーが乗り入れ、木々を薙ぎ倒すような、異質な音。
「どうした?」
 静かな湖面のような、穏やかな瞳が、透を見つめていた。
 ふと、透は、自分の身体の中から沸きあがってきた想いに、震えた。

『どうして自分はここにいるのだろう』

 そんな事、思ってはいけないのに。いや、その前に、自分がそんな事を考え るはずがないと思った。
 なのに、急に、二人用のテーブル以上の距離が、自分と門田の間に広がった ように感じる。
 門田が急に遠くなったように感じ、その恐怖感に怯えているのに、これでい いのだと、何故か安心している自分がいる。
 門田に申し訳ないと思いながら、自分を見つめる大切な人に対して、『その作 業』を再開してしまっている。
 そしてまた慌てて、そんな事をしてはいけないと、自分を否定する。
 息苦しくなり、泣き出し叫びたくなる。そんな事で解決できるはずもないと いうことを、透は知っている。
 泣いて全てが解決するなら、透はここにいなかった。そう思うことが既に門 田を裏切っているのだとまた思い、透は浅い呼吸を繰り返す。酸素の薄い水に 放り込まれた魚のように。
「透、何かあったんじゃないのか?」
 しばらく様子を見ようと決めていた門田は、どうしても我慢できずに、透に 問いかけてしまった。
 門田に聞かれ、透は一瞬、泣き出しそうな表情になる。
 その顔を見て、門田までも後悔に捕らわれる。
 何もかもを包み込むと決めたのに、透の悩みの一端も自分では見つけ出せな いし、聞き出すことさえこんなに下手だ。
 苦しそうな透の様子を見て、門田はなるべく優しい笑顔を作る。
「まだ話したくないのなら、無理に話さなくてもいいんだよ」
 きゅっと眉を寄せて、透は不自然に重なったままの食器の位置を直した。
 ゆっくりと深い呼吸をして、「あの……」と、その重い口を開いた。
「何だい?」
 透は唇を少し舐め、何度も何度も心の中で練習した台詞を、弱々しい声で吐 き出した。
「俺、働きたいんだ」
「透……」
 驚いたような門田の様子を、透は見れなかった。俯いたまま、テーブルの木 目を見つめる。
「外で働こうと思う。あてもあるんだ。どう…………かな?」
 シンとそれきり音を発しなくなった、二人の空間。
 透は門田の視線を痛いほど感じながら、身を竦ませていた。息をする事すら、 ままならないような緊張が身体を支配する。
 テーブルの下でぎゅっと手を握り締めた時、優しい声が降ってきた。
「私は……、まだ賛成できないな」





『私は……、まだ賛成できないな』
 門田の言葉を聞きながら、透は溢れそうになった涙を、ぐっと堪える。
 透はどこかで期待していた。門田が、いつものように微笑んで賛成してくれ るのを。
 あの穏やかな声で、『外に出ようと思うのはいいことだ』と言ってくれると思 っていた。
 けれど、門田は優しい口調はそのままに、透の決意を否定した。
「……どうして、反対?」
 かろうじて透の口から出た言葉は、微かに震えている。
 何かが、暗くて厚みのある何かが、透の目の前に押し出されたような気がし た。その何かによって、門田が見えなくなったような気さえする。
「それよりも透、どうして働きたいと思ったのか、聞かせてほしい」
 諭すような質問をされて、透は唇に力を入れる。
 本当のところは答えたくないと思っている。いや、答えられるはずがない。
 本当の理由なんて……。
「透……」
 いつも自分を受け入れてくれる、ありのままに全てを受け入れてくれる優し い大人の声が、突然、たまらなく、透には重く感じる。
 テーブルに箸を力無く置き揃える。
「優しくしないで」
 それは本音だった。
 いつも心の中で、門田の気持ちを嬉しく思いながら、それを素直に受け入れ られないことを申し訳なく思っていた。
 門田に対する感謝の気持ちと、謝罪の気持ち。
 それらを咀嚼しながら、自分の気持ちを整理しようとすればするほど、ある 疑問点にいきつく。
 自分は、本当に愛されているのだろうか……と。
 自分は迷っている猫だ。森の中でさ迷っている。
 深く傷つき、それを癒す術を持とうとしなかったし、差し伸べられる手を振 り払って来た。
 そんな憐れな猫を見捨てられなかったのではないだろうか……、と透は考え てしまう。
 同情だったら、堪らない。
 だが、門田がそんな人ではないことくらい、わかっている。
 わかっていると、言い聞かせている自分がいる……。
 そんな自分が嫌なのだ。
 優しくされなければ……。普通に喧嘩して、言い争そって、時には手近にあ る物を投げて。涙を堪えて強がりを言って、謝りたいのに、謝れよと叫んで。
 相手だって絶対謝らないと思っていたのに突然シュンとして謝って、慌てて 飛びつくように抱きつく。
 そんな……、そんな……。
 透は目を閉じようとして、一瞬浮かんだそんな光景を慌てて打ち消した。
「優しくしないで。嫌だ……」
「透?」
 いたわる声が、俯いた透の上にふわりと被さる。
「優しくしないで!」
 それ以上は言えなくなった。
 ガタンと立ち上がり、部屋を出ようとした。
 ドアの所で門田に腕を掴まれた。
「透、どうした。何があった?」
「だから、それが嫌なんだ。もう……、嫌だ」
「透……」
 透は自分の腕を掴む門田の手にそっと自分の手を重ねた。
「今日は……、向こうに行く……」
 一人になりたい。
 透はそっと外された腕を擦り、門田の脇をすり抜けた。
 長い、一人の夜だった……。

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