舞う華の夜に
貴方の為に舞いましょう
貴方の笑顔を見たいから
苦しいほどの孤独も
震えるほどの寂しさも
貴方の為なら耐えられた
貴方の為に舞いましょう
花が咲くように
風が吹くように
貴方の為に舞いましょう
『透、……透』
名前を呼ぶ声がとても懐かしく感じられて、透は顔を上げる。
けれど、その人の姿は見えなかった。
見渡す限りの草原の真ん中に透は立っていた。
風が透の髪を撫で、くすぐるように耳元を吹き抜けていく。
『……正彦?』
どこで呼んでいる?
透は焦って四方八方に目を凝らす。
けれど、目に映るのは、緑の草原。地平線まで見渡せるほどの広い緑の絨毯が見えるだけ。愛する人の姿は見えない。
『透……。透』
なのに、すぐ近くにいるように、正彦の声が聞こえる。
『どこだよ。意地悪すんなよ。正彦ってば』
どこ? どこにいる?
出て来いよ。
正彦の姿が見えないことがこんなにも不安で、透は焦ってきょろきょろと見回す。
『…………透』
名前ばかり呼ばないで。
出て来いよ。
……そうじゃない。……そうじゃないんだ。
……だって、正彦は……。
正彦。
迎えに来いよ。
俺、……ここにいるんだから。
『正彦!』
「透、……透」
肩を揺すられて、透は短く息を吸った。そのまま、呼吸が止まる。
心配そうな門田の顔を見て、透は詰めていた息を吐き出した。そうすると身体が小刻みに震え出した。
「嫌な夢を見ていたのかい?」
震える身体をゆったりと抱きしめられ、透は気持ちを落ち着かせようと、深呼吸を繰り返す。
この暖かい腕の中にいれば大丈夫だと、何度も自分に言い聞かせる。
「何か飲む?」
その問いに首を振り、透は自分を抱きしめる腕のパジャマの袖をぎゅっと握りしめた。どこへも行かないで欲しいという意思表示は、正しく相手に伝わったようだ。
「大丈夫。……ここにいるから」
ここにいる。
その言葉ほど透を落ちつける言葉はない。
透は次第に静まってきた呼吸を整え、自分を抱きしめる人を見上げた。
「眠れそう?」
労わるような深い黒曜石のような瞳に見つめられ、透は小さく頷いた。
本当は眠れそうになかったけれど、余計な心配をかけたくないばかりに、透は支えられる腕に甘えて、再びベッドに横になる。
「俺、何か言ってた?」
彼の名前を呼んだのではないだろうか。
今更隠さなくても、門田はすべてを受け入れてくれるだろうが、それでも、できる事なら聞かせたくない。正彦の名前を必死で呼ぶ自分などは。
「魘されているようだったから、起こしたんだよ。言葉らしい言葉は、聞き取れなかった」
「……そう」
少しの安堵を感じて、透は目を閉じた。
肩に布団をかけられる。
眠ればまた夢を見そうで怖い。けれど、夜明けまではまだ遠い。
「大丈夫……。もう、辛い夢は見ないよ」
優しく髪を撫でられる。
その指先から微かに香の薫りがする。最近、門田が調合した華夜という薫りだ。
「……一人にしないで」
こんなに近くにいるのに。
それでも心が寒いのは、今見た夢が、あまりにも孤独だったからだろうか。
「傍にいるよ。透を一人にしたりしない」
そう言ったのは……、正彦も同じだったのに……。
閉じた瞼から涙が溢れるのを感じる前に、透は再び眠りの中へとゆるりと落ちていった。
頭の奥が鈍い痛みを訴える。頭痛がするのは、寝不足が原因だと思いながら、透は朝食の用意をしていた。
まだ眠っていていいよと門田は言ったけれど、透は無理にも起き出した。何でもないのだと、門田に見せたかった。
毎日のように、夢を見る。
それはいつも哀しく、寂しい夢で、透は真夜中に目を覚ましてしまう。
魘されたのは一度だけで、それ以降は一人で目が覚める。
横で眠る門田を起こす事はできずに、じっと眠りの波がもう一度訪れてくれるのを待つ。
そしてそのまま夜明けを迎える事もあった。
最近、塾の講師という仕事を始めた透は、比較的朝はゆっくりなので、門田を見送ってから、昼過ぎまで横になる事もできたが、それで睡眠不足が解消できるほどでもない。
頭痛と睡眠不足で身体が揺れるような感じがするのを必死で堪える。
「直道さん、食事の用意、できたよ」
明るく笑う。門田の顔を見れば、自然に笑みが浮かぶ。笑う事ができてほっとする。
大丈夫。門田がいれば、大丈夫。
そう言い聞かせ、透も食卓につく。
ほとんど食欲はなかったけれど、門田に心配をかけたくなくて、砂を噛む思いで、自分の作ったものを喉に押しこむ。
「そろそろ定期検診の頃じゃないのかな」
「あ、来週だ」
カレンダーを見れば、翌週の水曜日に丸をつけてあった。
「もう……、一年になるね」
「…………うん」
一年。門田と出会って、一年。
透を亡くして、二年。
「定期検診には一緒に行くから」
「でも、直道さん、忙しくないの?」
「予定は空けてあるから。病院へ行く前に、お墓参りに行こう」
「…………いいの?」
透が控えめに聞くと、門田は微笑んでもちろんだと頷いた。
透は小さな声でありがとうと呟いた。
門田を見送って、透は張り詰めていた緊張を解いて、ソファに倒れ込むように寝転んだ。
頭痛は脈打つように響き、目の奥に銀色の光を散らす。
むりやり食べた朝食が、逆流してくるような不快感がこみ上げる。
冷たい水を飲みたい。そう思いながら、身体を動かす気持ちにはなれなかった。
「正彦……」
俺に何か言いたいの?
だから、夢に出てくるの?
もうすぐ命日だから、こんなにも頻繁に夢を見るのだろうか。
「俺、幸せだよ。それが……許せない?」
そんなはずない。
そう思っていいのだろうか。
それとも、そう思いたいだけなのだろうか。
答えの出ない問いを自らの中へと落とし、透は頭痛を鎮めるために薬を飲もうと、重い身体を引き起こした。
桜。……さくら。
正彦の眠る墓地は、周囲に桜の木が植えられている。
正彦の逝った春に来ると、満開の桜が出迎えてくれる。
門田と二人、砂利道を踏みしめると、静かな墓地に二人分の足音が響く。
「今年はまだ蕾が固いね」
枝を見上げて門田が呟いた。
「来週には、咲くかな」
正彦の命日には、咲いてくれるだろうか。せめて正彦が寂しくないようにと。
「予報では、咲くらしいよ。来週も来るだろ?」
透は頷いて、胸に抱いた花を抱え直し、正彦の墓に目を移した。
「……あれ?」
墓の前に誰かが立っていた。遠目にもそれがまだ若い男性である事はわかった。
だが細い影は、正彦や透の友人のものではない。
「知っている人?」
門田が聞くのに、透は首を横に振りかけて止まる。
二人の足音に気がついたのか、墓地の前に佇む人が振り返った。
「あ……」
その顔を見て、透は驚きに目を見張る。
「透?」
驚く透と、心配そうに見つめる門田に向かって、彼は静かに頭を下げた。
「お久しぶりです。透さん」
透き通った凛とした声に、透は痛々しい表情で、僅かに視線を逸らせた。
「……幸彦君」
透が呟いた名前に、門田は目の前の青年が正彦の弟なのだと気がついたのだった。
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