夜も深くなり、事態は何も変わらないように見えた。
 犯人は一時の興奮を収め、イライラしながらも、元妻の帰りを待っていた。
 警察の説得は続いていたが、それに応じようとはしなかった。
 子供は時折目を覚まし、その度に犯人が世話を焼いた。
 その時にナイフを奪えば、奪えたかもしれない。が、梓弓は何故だか、待っ てみたくなっていた。
 何がこの男を犯行に動かしたのか。
 それを知りたいという気持ちになった。
 人質と犯人が一時的に心を通わせるような現象を「ストックホルム症候群」
という。
 梓弓は西中に依頼され、こうした事件に関わるようになって、その事例や症 状、対症方などいくつもの文献を読み、研究してきた。
 梓弓がまず心配しなくてはならなかったのは、人質の治療に入った自分が、 警察の手先として、拒絶されることだった。
 幸いにも今までの場合、そんな現場には潜入したことはない。
 しかし今回の場合、犯人は人質の父親であり、観察した限りでは子供の世話 にも慣れている良い父親である。
 梓弓が現場で気をつけなくてはいけないことは、このストックホルム症候群 に、梓弓自身が陥らないことだった。
 自身の生いたちが孤独だったこともあり、他人との関わりを避けてきた梓弓 は、犯人の心情にかかわることも、立ち入りたいとも思わなかった。
 自分勝手な理由で犯行に至る犯人達に怒りしか感じなかった。冷静に自分の 任務をこなすことだけを考えることができた。
 それなのに今回は、父親としての犯人の行動が気にかかる。
 同情や、連帯感ではなく、病院に付き添ってくるごく普通の父親たちのよう で、犯罪者の身勝手さが感じられない。
 梓弓の父親は、完全に兄と梓弓兄弟の父親であることを拒否していた。拒否 しているようにしか思えなかった。
 生活費と膨大な兄の治療費を運んでいれば、それで家庭内が外見上穏便に運 んでいれば、それでいいと思っているような人だった。
 梓弓が自分らしく、一人の人間として暮らしたいといえば、それを平気で外 聞が悪いからと、冷酷に反対した。
 だから梓弓は親の愛情というものに何も期待しなくなった。
 子供の付き添いで、心配そうにつきそう親たちの様子に感動すらしなくなっ ていた。
 治療が成功したと告げると自分のことのように喜ぶ親を白けた気持ちで眺め るだけだった。
 そんな梓弓を看護婦達が遠巻きに、眉を寄せて見られても、なんら反省の気 持ちもわかなかった。
 そんな梓弓の心に僅かながら、変化が訪れた。
 あるものが大切で守りたいと思ったとき、はじめて自分の体温を知ったよう に思った。それまでは、自分の身体には、冷たい水が流れているように思って いた。
 赤い色をした、冷たい水。
 そうでなければ、こんなにも冷たい気持ちで生きていけるわけがないと思っ ていた。
 結弦と出会った時、全身に何かが駆け抜けるのを感じた。
 衝撃と言っても良かった。
 ああ、自分にも温かい血が流れているのだとはじめて思った。
 そんな変化が、現場での梓弓の気持ちに変化をもたらしている。梓弓はそれ を喜ぶべきなのか、危惧するべきなのか、判断しかねた。
 いや、わかっているつもりだった。
 そんなのは必要ではない。犯人は逮捕するべきだし、人質を傷つけてはいけ ない。
 下手な同情など、一切必要ない。
 同情すべきは、巻き込まれてしまった関係ない人達であり、それによって右 往左往し、長引けば無能だと糾弾される警察だ。
 けれど……。
「また帰ってこないつもりだよな」
 子供の寝息を確かめた犯人がぼそりと呟いた。
「また、なのか?」
 梓弓が問い返すと、犯人は苦々しそうに唇を歪めた。
「そうだよ。子供なんて欲しくねーくせに。母子家庭のほうが色々優遇される からってさ、俺から奪っていきやがった。こいつだって、俺になついてたんだ。 特に別れる前なんて、ほとんど家に帰ってこなかった奴が、子供を引き取れる んだから、世の中、間違ってるよ」
 一気に不平不満をぶちまく犯人を、梓弓は黙って見つめた。
 子供の熱、帰らない妻。苛立ちながら、看病しながら待つ夫。
 これは過去のこの家庭の姿だったのかもしれない。
「そうか……」
 犯人を落ちつかせるため? そうではない。
 こんな男もいるのだと、妙に納得したのだ。
「先生は、結婚してるのか?」
「……いや」
 独身だと言うと、犯人はまた黙り込んだ。
 部屋の壁にかけられた時計の音が、殊更大きく聞こえた。


「まだ原因をつかめないのか」
 西中が小さな声で聞くと、無線機を調べている部下がびくりと振り返った。
「もうしわけありません」
「急いでくれ」
 部下が機械の調整に戻るのを見て、西中は窓の外に目を凝らした。
 窓は閉ざされ、カーテンが引かれている。
 説得の上手な年配の刑事が、数度にわたって説得しているが、犯人からの答 えはまったくなかった。
 食べ物を要求することも、逃亡のための車も、何一つ要求しない。
 元妻を連れて来い。それだけである。
 元妻の父親の事情聴取に当たっていた刑事は、ある有力な情報をもってワゴ ン車へとやってきた。
「警部、もしかしたら居場所がわかるかもしれません」
 興奮気味に刑事は西中の耳に囁いた。
「すぐに向かってくれ」
 はいと短く叫ぶように返事をして、刑事は駆け出ていく。
 沈痛な空気だったワゴン車の中が、僅かに活気づく。
 もちろん彼女が来たからといって、犯人が喜んで出てくるわけではないし、 元妻が拒否すれば、状況はより一層悪くなるだろう。
 それでも、このまま犯人の疲れを待っているよりは、良いだろうと思われた。
 西中はワゴン車の奥に目を移す。
 眠っているかのように、彼は身動き一つせず、首を垂れている。
 眠っていないことは、きつく握り締めた手でわかる。
 声のかけようがなかった。
 本来なら、なんの権限も持たない、事件に無関係な一般人をここにいさせる ことさえ、上層部にばれたら大変なことになる。
 軽くて訓戒、酷くすれば懲罰、降格も有り得るだろう。
 けれど、それよりも大切なのは、自分が巻き込んでしまった親友の身の安全 だった。
 そのためには、彼が必要なのだ。
 西中の視線に気がついたのか、彼がゆっくりと顔を上げた。
 目と目が合う。
 充血し、疲れ切った目だった。
 西中は思わず顔を叛けていた。
 何故だか見ていたくない。見てはいけない。
 そんな気持ちが自分の意思に関係ないように押し寄せてきたのだ。
 ワゴン車の中は再び沈痛な空気に満ちていった。





 一台のパトカーがサイレンの音を響かせて、現場に到着した。
「音を切れ!」
 西中はワゴンから飛び出し、小さな声で、けれどきつく制止した。
「何を考えているんだ」
 パトカーの音を聞きつけて、カメラマン達が押し寄せてくる。機動隊員が必 死でそれらを阻止している。
 西中は車の窓を開けさせて、中を覗き込んだ。
 一人の若い女性が後部座席に座っている。
「幸太君のお母さんですね?」
 西中が確かめると、母親は渋々という感じで頷いた。
「貴方の別れたご主人が刃物を持って、幸太君を人質に立て篭もっています。
彼はあなたと話がしたいと言っています。幸太君を解放し、出てくるように説 得してくれませんか?」
 西中はなるべく穏やかに、ゆっくりと頼み込んだ。
「嫌よ!」
 だが、彼女は途端にそれを拒否した。
「あの人に幸太をどうこうできるものですか。さっさと警察が入って、捕まえ てくれればいいじゃない。私はあんな人と、話もしたくないわ」
 まるで西中が別れた夫のように睨みつけて、歯を剥き出しにして言い返す。
「ですが、幸太君は怪我をしているのかもしれません。医者が治療のために入 って行きました。警察の突入の前に、なんとか貴方が説得して」
「嫌よ。私は嫌ですからね。あの人は幸太には何もしないだろけれど、私の事 は刺すわ。医者を入れたのは警察の責任。私には何の関係もないわ」
 ふんと西中に顔をそむける。
「幸太君が心配ではないのですか?」
「だから、あの男は幸太に何もしないってば。嘘だと思うなら、どんどん入っ て行けばいいのよ」
 話にならないと西中は溜息をついた。
 パトカーから離れ、元妻の父親を呼んでくるようにと部下に指示をした。
 しきりにこちらにカメラを向けている報道陣に背中を向け、西中は閉ざされ た窓を見上げた。
 せめて中の様子がわかれば……。
 まさか父親が我が子を刺すとは思いにくいが、犯罪を犯し異様な興奮状態に 陥れば、何をするのかわからない。
 ましてや別れて暮らした男は、世間で思っているよりも簡単に、子供に刃を 立てる。
 元妻の父親、幸太の祖父が申し訳なさそうに、パトカーへと連れてこられた。
 西中を見て、ぺこりと頭を下げる。
 その小さく丸まった背中は、まるで彼が犯人のような感覚を抱かせる。
「犯人に説得に行くように、お嬢さんに言ってくれませんか?」
 はいとしわがれた声で答え、祖父は窓に顔を近づけた。
「留美子、幸太が心配じゃないのか」
 気弱そうな声で祖父は話しかける。
 娘は不貞腐れた顔で答えもしない。
「どうせ、あの男のところへ行ってたんだろう。幸太が邪魔なら、お前が引き 取る事はなかったんだ」
「うるさいわね。今は関係ないでしょう」
 ヒステリックな声が車の中に響いた。
 西中も多少うんざり気味に祖父と入れ替わる。
「貴方に中に入れとは言いません。犯人と電話越しに話をしてくれればいいの です」
 どうしてもここから逃げられないと諦めたのか、彼女は仕方なさそうに、さ も嫌そうに、わかったわよと吐き捨てた。

 近づいて止ったパトカーの音に、犯人も梓弓もはっと顔を上げた。
「なんだろう」
 まさか警察が突入してくるのでは……と、犯人は緊張する。
「奥さんが到着したんじゃないのか?」
 こんな状態の中、犯人を苛立たせることを警察が、西中がするわけがないと わかっている梓弓は、一つの可能性を口にした。
「俺より先にパトカーに乗る羽目になったのかよ」
 犯人はさも楽しそうに、唇を歪ませて笑った。自分もいずれパトカーに乗る、 つまり捕まる覚悟はできているのだろう。
「奥さんとどんな話をするつもりなんだ?」
 犯人が復縁を迫るとは考えられなかった。けれど、こんな事をすれば、子供 を取り戻す事もできない。
「……先生には関係ない」
 そうだなと梓弓が呟いた時、電話が鳴った。

「幸太は無事なんでしょうね。幸太を放してよ」
 いかにもこう言うように指示されたとわかる言い方で、元妻はぶっきらぼう に電話に向かって言い放った。
 その横顔を見て、結弦は痛そうに顔を顰める。
 子供が人質になっているのに。
 我が子に刃物が向けられているのに。
 どうでもいいように、面倒そうに言う元妻を見て、結弦は胸が痛くなった。
『幸太は大丈夫だ』
 電話はスピーカーを通して、みんなに聞こえるようになっている。
 結弦は犯人の声より、他に何か聞こえないかと耳を澄ませた。せめて梓弓の 声が聞こえれば、無事だとわかるのに…と。
「ばかな事をしないで、出てきなさいよ。こんな事をしても、幸太は渡さない わよ」
 憎しみのこもった声で、元妻は電話に話しかけている。これでは逆効果では ないかと、結弦ははらはらとする。
『もう、幸太を引き取るのは諦めたさ』
「だったら、どうしてそんな事をしたのよ」
『お前とあの男を別れさせるためさ。どうせ今も、あの男のところにいたんだ ろ?』
 皮肉な笑みを含んだ声が響いてきた。
「ばっかじゃないの。だからって、あんたと縁りを戻すなんてしないわよ」
 息子という人質の存在など眼中にないように、元妻は犯人の神経を逆撫でる ように話す。
 救いようがない……。結弦も西中も思わず目を閉じる。
『俺だって、お前と復縁するつもりはないさ。ただな、こうして事件を起こし て、お前とあの男が別れればそれでいいんだ』
「わ、別れたりしないわよっ!」
 西中は電話口を押さえて、「落ちついてください」と制した。
 元妻もさすがにまずいと感じたのか、唇を引き結んで頷いた。
「幸太を放してくれれば、あの男と別れてもいいわ」
 西中が紙に走り書きした文句を、元妻は読み上げた。
『どうせ、誰かに言わされてるんだろう? だが、いいさ。こんな面倒を抱え たお前なんか、すぐに捨てられるさ。そうすれば、お前と、あの男から幸太を 守れる』
 犯人の言葉にはっと結弦は顔を上げた。
 元妻は怒りで顔を赤らめている。
「わ、わたしは、幸太のこと、ちゃんと……」
『可愛がってるとでも言うつもりか? お前とあの男が一緒になれば、幸太を 邪魔者にするのはわかっているんだ。幸太を虐待から守るには……、この方法 しかなかった』
 西中は黙って元妻の顔を見た。
「私は幸太に虐待なんてしないわよ!」
 元妻は首を振って、まるで西中に弁明するように叫んだ。
『俺が何も知らないとでも思っているのか? 幸太はお前があの男のところへ 連れていくたび、今までにも叩かれていたそうじゃないか』
「だ、誰がそんな事をっ!」
『お義父さんが教えてくれたよ。このままじゃ幸太が殺されてしまうってな』
 元妻はきっと父親を睨みつけた。父親は自分の娘の視線から、顔を逸らせた。
『お前は養育費のために幸太を手放さない。けれどあの男と別れるつもりはな い。お前から幸太を引き離すには、……これしかなかったんだ』
「そ、そんなの、あんたの勝手な言い草よっ。犯罪者の言うことなんて、誰が 信じるものですかっ!」
 元妻が焦って、言い訳をしているとき、結弦ははっと顔を上げた。
 何かが……、何かが聞こえた。
 電話からは犯人の声しか聞こえてこない。
 人質となった男の子の声も、動く気配も感じられない。
 けれど……。
 それは結弦の心に直接話しかけるような、優しい声だった。
 自分の名前を呼ばれているような、そんな気がした。
 ……待っていたのは、この声。
「あ……」
 結弦が青い顔をして立ちあがると、西中ははっとして振り返った。
 西中が目で問うのに、結弦は息を飲むようにして頷いた。





 犯人が守ろうとしたもの。それはこの幼い命そのものだった。
 電話でのやりとりを聞きながら、梓弓は安心して眠る男の子を見ていた。
 良く熱を出してしまう子、白衣を来た医者を怖がらない子。病気がちの子を 育てるのは大変だと思う。
 子供が病気になれば、すべての予定をキャンセルせざるを得なくなる。
 あまり可愛いと思えない母親や、血の繋がりもない愛人にとっては邪魔者で しかないだろう。
 ならば手放せばいいものを、ただ金のために手元に置く。
 そんな母親がいるのかと聞かれれば、梓弓は「いる」と答えるだろう。
 世の中には、可愛いわが子を救うためにだけ次の子を産んだ女がいるのだ。
次の子は、臓器を提供するためにだけ、この世に生み出され、役に立たないと わかると、存在すらも否定された。
 今更、金のために我が子を利用する女がいても、驚きはしない。
 けれど、この男は我が子を守るためだったとしても、罪に問われるだろう。
 情状酌量の余地があったとしても、罪を犯した人間を会社は首にするだろう し、子供を引き取ることも不可能になるだろう。
 数年、刑務所に入って出て来た時は子供も大きくなり、人伝に聞かされた父 親の罪は、本人の記憶以上にひどい話になっているかもしれない。
 それでもこの犯人は良かったのだ。
 いつか、我が子が虐待の被害者として、新聞に載ってしまうよりは……。
 電話の向こうで元妻がかなり興奮しているのが梓弓にもわかった。
 電話からきぃきぃと、わめく声が漏れてくる。
 梓弓は壁にもたれたまま、これからこの犯人がどのように子供を解放するの だろうかと、それを考えていた。
 もし、犯人が子供を抱きかかえて外に出て、元妻に子供を手渡そうとして、 子供が母親に抱かれるのをいやがり父親にしがみついたなら、かなりの見物に なるだろうにと、意地の悪いことを考えてしまう。
 自分の想像が可笑しくて笑いそうになり、犯人に気づかれないように、腕で 顔を隠すようにした。
 左手首には犯人に切りつけられた時に巻いた包帯が残っている。傷自体は見 えないが、包帯の端から、今朝結弦の爪が擦った部分が見えた。そして、血を 吸い取るために結弦がつけた薄い紅い跡も。
 結弦……。
 今頃、どうしている?
 今夜は何か用事があると言っていた。あの時の口振りからは決して楽しい相 手ではないことは梓弓にもわかっていた。
 どんな用件なのかと自分が詮索するのも憚られたし、行くなという権利もな かった。
 結弦と一緒に暮らしていけたら……。それを真剣に考える自分がいた。
 どれだけそれを願っていても、まだ結弦にそれを話せないでいた。
 一緒に暮らすだけの収入もあったし、覚悟もある。けれど、結弦を自分の人 生にまきこむ勇気がなかった。
 自分の生い立ちや、両親との確執を話す勇気がないのだ。
 自分の生きてきた生き方も、決して自慢できるようなものではないという自 覚もある。
 そして、……結弦に蔑まれるのが恐怖だった。
 包帯を少しずらすようにして、結弦のつけた淡い跡を指先で撫でる。
 そうすれば、自分にも温かい血が流れていると感じられる。
 ふと自分を見つめる目に気がついた。
 子供が目を開けて、梓弓を見ていた。
 興奮した様子で話す父親の声で目が覚めてしまったのだろう。
「苦しいか?」
 梓弓が小さな声で言うと、子供は首を横に振った。
 掌を子供の額に当てると、少し汗ばんでいた。熱は下がっているようである。
 二人の動きに、犯人は元妻と電話で話しながら、視線を寄越した。
 梓弓は安心させるように頷いた。
 包帯が気になるようで、子供が熱を測る梓弓の手首を掴んだ。
 強くはないが、切られたところに触れられて、ちくっと痛みが走る。
 梓弓の顔が僅かに歪んだのを見て、子供は慌てて手を離した。大人の機嫌の 微かな変化を読み取る小さな子が不憫で、梓弓は微笑んで大丈夫と囁いた。
 子供の澄んだ瞳は結弦を思い出させる。
 今頃どうしているだろう。会いたい……。
 梓弓は心の中で再び結弦を呼んでいた。


 パリンと音がして、窓ガラスが割れた。梓弓は咄嗟に子供にガラス片が当た らないようにと、白衣で覆ってやった。
 犯人も一瞬子供を守ろうとしたが、梓弓の手によって守られている我が子を 見て、すぐに動きを止め、突入してきた警官に、無抵抗で手錠を掛けられた。
 梓弓は子供を抱きかかえ、彼の目から父親が逮捕され、連行される姿を遮断 した。
 割れた窓の向こうは真昼のように明るかった。警察の投光と報道陣のフラッ シュが派手に瞬いている。
「大丈夫ですか? お怪我は?」
 警官の一人に聞かれ、梓弓は子供を抱いたまま、大丈夫だと答えた。
 誰かが子供を抱き取ろうとしたが、梓弓は首を振ってそれを断わった。
 子供は梓弓の腕の中で震えていて、小さな手が梓弓の白衣を握り締めていた。
 梓弓は子供を抱いたまま階段を降りた。
 玄関を出るとブルーのシートの通路ができていた。青い通路をワゴン車へと 急いだ。
 ステップのところで母親が待っていた。
「幸太……」
 母親は子供の無事を確認するように、両手を伸ばしてきた。
 が、子供は嫌々と頭を振って、梓弓にしがみついた。
 その様子を見て、母親は眉間に深い皺を刻み、唇を噛み締めた。
「幸太、ママでしょ、こっちにいらっしゃい!」
 きっと電話でもこんな風にヒステリックに話していたに違いないと梓弓は思 った。そして、普段からこの子にも。
 怒鳴られると子供はビクンとして、恐る恐る顔を上げた。
「お子さんは熱を出しています。扁桃腺が腫れているようですね。保存されて いる座薬を一つ投与しました。疲れもあるでしょうから、念の為入院された方 がいいでしょう。救急車の手配はできているだろう?」
 最後は西中に確認するために言った言葉だが、その西中のうしろに、ここに いるはずのない人物を認めて、梓弓は驚いて動きを止めた。
「……結弦」
 梓弓の言葉に、顔色の悪かった結弦も、少しは安心したのか、泣き出しそう になりながらも笑みを作ろうとした。
「救急車は来ている。お前は大丈夫なのか?」
 西中が梓弓の左手首の包帯に気づいて、心配そうに尋ねた。
「ああ、たいしたことはない。……それより」
 梓弓は西中に視線でどうして結弦がここにいるのかと問うた。
「詳しいことは後で。すぐに病院へ行ってくれ。病院には小児科医も待機して いる」
「あ、あぁ……」
 救急車が横付けされて、子供はストレッチャーに寝かされた。梓弓が大丈夫 だからなと言うと、小さく頷いた。
「お母さんは我々といてください。まだお聞きしたいことがあります」
 西中が告げると、彼女は「私は母親なのよ、付き添うのが当たり前でしょ!」
とわめいた。
「お子さんの身体はこれから医師が念入りに診察します。結果次第では、面倒 なことになるかもしれませんが、まずは我々に正直にお話下さい」
 母親は憎々しげに西中を睨んでいたが、婦人警官に宥められるようにパトカ ーに乗せられた。
「梓弓も救急車に乗るか?」
「いや、俺は別の車で行くよ。それよりも……。結弦、今夜の予定は……大丈 夫なのか?」
 梓弓に尋ねられると、結弦は今思い出したのか、あっと小さく叫んだ。
 そして、梓弓を心配していた時のように、また顔色をなくして立ち竦んだ。





「何か予定があったのですか? なら、覆面で送らせますが」
 西中の申し出も聞こえない様子で、結弦は痛々しい表情で立ち竦む。
「もう、間に合わないのか?」
 梓弓も心配になって結弦に話しかける。
「結弦?」
 梓弓が結弦の肩に手を置くと、ビクンと震える。
「あ……」
 ようやく結弦は小さな声を出す。
「大丈夫か?」
 結弦はうんと頷いて、不安げに辺りを見回した。
「送らせますよ。どこへ行かれる予定ですか?」
「いえ……、大丈夫……です。一人で……行けます」
 結弦は震える声で告げた。
 まだ混乱している現場の中で、結弦は自分の場違いさをあらためて感じる。
「近くの……駅は……どこでしょう」
 周囲は野次馬で埋め尽くされ、報道陣のカメラが列を作っている。
「じゃあ、そこまででも」
 西中は小池に覆面を一台手配させる。
「俺も一緒に乗って行くよ。彼を降ろして、病院へ回ってもらうから」
 梓弓の案に、西中も同意して、二人は小池の後に続き、覆面パトカーに乗っ た。

 パトカーに乗ってからも、結弦はずっと言葉もなく、足元に視線を落として いる。
「どこへ行くつもりだったのかな?」
 人との接触を極力避ける結弦が、誰かと会おうとすることに、梓弓は強い興 味を引かれた。
 だが、結弦は答えようとしない。梓弓の声さえ届いているのか、疑問だ。
「ここが一番近い地下鉄の駅になりますが」
 小池は駅の入り口に近い場所で車を寄せてくれた。結弦は唇を噛みしめ、し ばらくは動けないようだったが、やがて小さな声で礼を言うと、ドアを開けて 降りた。
 その思いつめた様子と寂しそうな背中が入り口に消えるのを見送っていた梓 弓は、意を決して白衣を脱いだ。
「俺もここで降りるから、病院には連絡を入れておく。西中には後で説明に行 くからと伝えておいてくれ」
「えっ、常葉木先生!」
 小池は慌てて引きとめたが、梓弓は白衣を車内に脱ぎ捨て、車を飛び降りた。
 既に地下鉄への階段を下りて行った結弦を追いかける。
「結弦!」
 切符売り場で追いついて呼びかけると、結弦は信じられないというように、 ゆっくりと振り返った。
「邪魔はしないから、近くまで付いて行くよ。用事が終わるまで待ってる。帰 りも送って行く」
 梓弓は息を切らせて話すが、結弦は悲しそうに首を振る。
「相手に見つからないように、邪魔もしないから。……心配なんだ」
 梓弓はこんなにも相手のために言葉を尽くす自分が、別人のように感じた。
 もともと誰が何をしようと、まったく気にしない人間だった。
 誰が自分をどんな風に評しようと、それも気にかけなかった。言わせたい奴 には言わせておく。自分はそんな人間を相手にしない。そんな時間があるなら、 自分のためだけに使う。
 医者になろうとする、あるいは医者であろうとする自分を邪魔されない限り、 誰が何をしようと、何を言おうと、関係無しで生きてきた。誰にも自分をわか ってもらおうとは思わなかった。
 それが……。
 相手を心配し、迷惑も顧みずに追いかけた。その自分が信じられない。
「あの……、でも……」
 結弦は梓弓の左手の包帯を見て、自分が痛いように顔を歪ませる。
「あぁ、……これは大丈夫だから」
 梓弓はさりげなく左手を背中に隠す。
「行こう、相手の人に遅れてきたことを侘びるなら、俺も説明するから」
 梓弓が促すが、結弦はそれでもまだ、歩き出せないように見えた。
「結弦? 迷惑かな?」
 心配になった梓弓が尋ねると、結弦はそうじゃないと呟くように行った。
「もしかして……行きたくない?」
 結弦はそれに笑おうとして失敗し、唇を歪ませた。
 梓弓がついてくることよりも、足が進まないことが苦痛であるように見える 結弦に、梓弓は胸が痛む。
 それほどまでに会いたくない相手ならば、無理しなくてもいいのにと思う。
けれど、そんな相手だからこそ、どうしても出かけなくてはならないのだろう。
 そんな相手なら、梓弓にもいる。
 母親と、…………その主治医だ。
 行かなくて良いという言葉を口にしそうになり、梓弓はゆっくり息を飲んだ。
「さっさと済ませてしまおう。結弦の力になるから」
 どんな形でもいい、結弦に勇気を分けることができたらと梓弓は心から願っ た。
 どれだけ請われても、母親との面会を拒み続ける自分。それを強いと父親は 言うが、母親の主治医は梓弓を弱いという。
 梓弓にとっては、強くても弱くても構わない。母親に会わないでいられれば それでいい。弱いといわれようとも、強いといわれようとも、どちらでもいい。
その気持ちを結弦にすべて渡せたらと願う。
「一人で……」
 梓弓を拒もうとする結弦の気持ちもよくわかった。
 梓弓自身、会いたくない人を拒む自分を、結弦には見せたくないのだ。
「邪魔はしない。……結弦がもし、傷つけられたら、すぐに治したいんだ」
 梓弓の真剣な思いも、結弦は泣き出しそうに首を横に振る。
「怪我したり……しないから。……大丈夫」
 結弦はまぶたを伏せ、頼りない表情で俯く。
「結弦のここが、誰かに傷つけられるんじゃないかと、心配なんだ」
 梓弓はそっと結弦の胸を指差した。
 こんなにも怯える結弦を一人にしたくないし、約束の人に会ったあとで、傷 つけられた結弦が一人で帰るのを想像すると、胸が張り裂けそうになる。
「それは……」
 否定できない結弦に、梓弓はゆっくり話しかけた。
「一緒に行こう。嫌なことがあれば逃げ出してくればいい。その時はどんなこ とがあっても守るから。俺は……現場に突入する医者なんだから」
 梓弓の言葉に、結弦は少し顔を上げた。
「長く……なるかも」
 ようやく気持ちを傾けてくれた結弦に、梓弓は安心させるように微笑む。
「徹夜なんて、慣れてるさ」
 梓弓が冗談ぽく応じると、結弦は小さく頷いた。

「母に……呼ばれたんだ」
 かなり遅い時間の地下鉄は、乗客もまばらだった。
 並んで座り、電車が動き始めると、その音に紛れ込ませるように、結弦が重 い口を開いた。
「お母さんに……? 用件は?」
 わからないと結弦は首を振る。
「聞いてもきっと、ちゃんとは答えてくれないから」
 諦め切った結弦の返事に、梓弓は痛々しそうに唇を噛んだ。
 梓弓は今まで、自分の生い立ちを悲しみ、悔しがるしか知らなかった。他の 誰かが、こんなふうに、……自分と同じように、過去を隠したがり、親に苦し む人がいるとは、思わなかった。
 それだけ、自分のことで精一杯だったし、ひたすらに母親を憎むことでしか 乗り越えられなかった。
 人と交わらないことで、当然のことながら、人の苦しみを見ることもなかっ た。
 梓弓は、自分の浅はかさに吐き気さえ感じた。
「すぐに済む用事かな?」
「……わからないけど、……多分、それは……大丈夫。……母は長く僕といる と、…………気持ちが……」
「無理に話さなくてもいいよ」
「…………僕とは……、気持ちが悪いから、……一緒にいたくないって」
 結弦は一度口にすると、吐き出さずにはいらないというように、つっかえな がらも、それ言葉を口にする。
 そして、自分で自分を傷つけ、口元を押さえた。
「結弦……」
 梓弓は思わず結弦の肩を抱いた。
 以前、はじめて会った時、気分が悪そうだった結弦の肩に触れたとき、それ で結弦が、楽に息をしたように見えたのを思い出して。
「結弦は悪くなんかない」
 過去の自分が言って貰えなかった台詞を、梓弓は目の前の大切な人に届けた。



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