「結弦は悪くなんかない」
 少し低めの声が、結弦の胸に暖かく広がっていく。
 誰かに言ってもらいたくて、けれど誰も言ってくれなかった言葉が今、結弦 に届けられた。
 母親のことを口にするのは怖かった。
 母親に受け入れてもらえなかった自分を、大切な人に告白するのも辛かった。
 梓弓は結弦の能力も知ってくれているので、母親のようにそれが原因で、嫌 われるとは思えないが、確信を持てなかった。
 梓弓に打ち明けるのは、辛くて、苦しくて、情けなかったが、今の気持ちを 一人で抱えて、母親に会いに行きたくなかった。
 それで思わず梓弓に打ち明けていた。
 気持ちが沈むと体調も悪くなるのか、気分も悪くなり、何も食べていないは ずなのに、胃からせりあがってくるものがあった。
 口を押さえて、吐き気を押さえようとすると、ふわりと肩が温かいもので包 まれた。
 同時に囁かれた優しい声。
 一番欲しかった言葉を言ってもらい、結弦は大きく息を吸い込んだ。
「……ありがとう……ございます」
 呼吸が楽になる。
 あの時、……初めて梓弓と会った時も、同じように息が楽になったのを思い 出す。
 そして梓弓と会っている時は、心が安らいで、いつも穏やかになれる。
 ずっと一緒にいたいと願いながらも、それを口にすることはできずにいた。
 傍にいれば、その分、その人は結弦の力を知るだろう。そうして、その力に 驚き、戸惑い、やがて恐れ、気持ち悪がり、離れていくに違いない。
 そうなることは、簡単に予想できた。
 傍にいたいと願うより強く、傍にいられないと感じていた。
 けれど、こんなふうに優しくされると、縋りつきたくなる。
 ずっと一緒にいて欲しいと、言いたくなってしまう。
 呼吸は楽になったけれど、違う胸の痛みを抱えこんでしまう。
 頼ってはいけない。そう言い聞かせるのは拷問のように辛かった。
 縋りついてはいけない。わかっていても、今だけと思ってしまう。
 今だけ……。肩にかかる暖かい重みを感じながら、結弦は今だけと繰り返す。
「結弦が家に帰っている間、俺は外で待ってるから。何か辛いことを言われた ら、飛び出してきて」
 これ以上は望むまいと思うのに、それ以上の言葉をかけてもらえる。
 この上もなく嬉しいはずなのに、同時にこの腕をなくすことが怖かった。
 一度知ってしまったこの優しさを、もしもなくしてしまったら、これからど うやって生きていけばいいのだろうか。
 それを想像すると、ぞっとした。
 背中を恐怖が駆け上る。
「大丈夫か?」
 恐ろしくなって、無言になる結弦を、梓弓は優しく気遣う。
 心配させてはいけない。そう思って、結弦は息を飲んで頷いた。
 ガタンと軽い振動と共に、電車が最寄の駅に着いてしまう。できることなら、 永遠に梓弓と電車に乗っていたかったのに。
 結弦は憂鬱さを吐き出すように、溜め息をついて立ちあがる。梓弓も立ちあ がり、結弦の背中に手を添える。
 震えそうになる足に、しっかりしてくれと祈る。
 そっと背中を押されると、心配していたよりずっと楽に一歩を踏み出せた。

 駅を出ると、どれくらい歩くのかと梓弓に聞かれ、10分ほどと答えると、 梓弓はタクシーに乗ろうかと提案した。
 でも、と結弦が迷っていると、梓弓は外で待つのに、立ったままだと不審が られるからと言うので、結弦も梓弓のためならと頷いた。
 歩いて10分ほどだが、車に乗ると、あっという間に到着してしまう。
 いくら長く乗っても、覚悟を決めることはできないだろうが、何も考えられ ないほど、近くなってしまった、
「行ってくるから……」
 結弦はドキドキと緊張の高くなる気持ちを抑えるように、ぎゅっと目を閉じ、 手を握りしめた。
「無理しないで。ここにいるから」
 梓弓は結弦についてタクシーを降りてきた。
 握りしめた結弦の拳を、そっと大きな掌で包んでくれる。
「あ……」
 結弦が梓弓を見上げると、優しい瞳に見つめられた。
「お守りをつけてあげるよ」
「お守り?」
 なんのことだろうと不思議で、結弦が首を傾げると、梓弓は結弦の拳を持ち 上げる。
 されるがままに、結弦は梓弓の目の前に拳を持ち上げる格好になった。
 その腕の、手首の内側に、梓弓は唇を寄せる。
「先生……」
 慌てて手を引っ込めようとするが、思いのほか強く手首を捉えられ、腕を引 くことはできなかった。
 梓弓の唇が触れた部分が熱かった。
 そこに心臓が移ってしまったように、全身の血が集まっていくように感じる。
 強く吸われるような感触は、気持ち悪いのではなく、快感に身体が震える。
 梓弓が唇を離すと、急にその部分が冷たく感じられるほど、梓弓の唇が熱か ったと思える。
「今朝、結弦がつけてくれた痕が、俺を守ってくれたから」
 梓弓は左手を見せた。その手首には白い包帯が巻かれ、所々、血が滲んでい る。今はその血が黒っぽく見えるのだが、結弦は自分のことのように痛みを感 じる。
「ここに痕がある」
 梓弓の指差したところに、薄い痕があるらしい。今は暗くて、はっきりとは 見えないのだけれど。
「これがあったから、犯人の包丁を避けられたし、あの時ずっと、これを見て 結弦に呼びかけていた。まさか、本人が来ているとは思わなかったんだけれど」
 梓弓はそう言って微笑む。
「結弦にも同じ痕ができたから」
 梓弓は結弦の手首も同じように指差した。
 その部分が、ドクドクと脈を打っている。
「今から一人で行く、結弦の力になれるように。一緒にいると思って」
 梓弓が囁いて、結弦はこくりと頷いた。
 感極まって、言葉にならなかった。
 こんなにも梓弓は、結弦の欲しい言葉をくれる。傍にいるといってくれる。  そして自分も、梓弓の力になれていたことが、結弦の勇気を呼び起こした。 「行ってくる……」
「無理しないで」
 結弦が一歩、踏み出す。梓弓の手が離れる。
 急に頼りなく感じるが、手首の熱さを思い出す。
 一人じゃないと言い聞かせ、結弦は急ぎ足になった。
 自宅の門灯が点いていた。
 本当なら、来客に対して出迎えるその灯りが、結弦には拒絶しているように 感じられる。
「大丈夫」
 結弦は梓弓が痕をつけた手首をもう一方の手で掴む。
「今は一人じゃない」
 彼がいるから。彼が一緒にいてくれるから。
 結弦は震える手で、インターホンを押した。
 中からの応答はなく、結弦は緊張の極限の中で、その人が出てくるのを待っ た。
 玄関のドアのすりガラスに人影が映る。
 その影の主が母親だというのはわかった。
 カチャリと鍵の外される音がして、ドアがゆっくり結弦に向かって開かれて いった。





 ドアが開くと、玄関の灯りが結弦を照らした。眩しいほどの光に、結弦は目 を細めた。
「いったい、何時だと思ってるの!」
 潜められてはいるが、きつい口調の母親の声が結弦の耳を打つ。
「ご、……ごめんなさい」
 条件反射のように口に出た謝罪。母親はふんと息を吐いて、ドアを開けたま ま、奥へ消えた。
 結弦は恐る恐る玄関に足を踏み入れる。そのまま引き返したい思いは強いが、 そうすればどんなふうに責められるのかを思うと、前に進むしかないのだと自 分に言い聞かせる。
 ドアを閉じようとして、振り返る。
 夜の闇に梓弓の姿は見えないが、タクシーの黄色い車幅灯が見えた。
 大丈夫。僕は、大丈夫……。あの人がいてくれる。
 結弦は右手で左手の手首を掴むようにして、呪文のように梓弓の名前を唱え る。
「早く上がってきなさい」
 今度は潜めることもなく、母親の声が奥から聞こえてきた。
 リビングではなく、奥の座敷から聞こえたことを不思議に思いつつ、結弦は 廊下を進んだ。
 和室の襖は開けたままになっていた。部屋の灯りが廊下にも漏れている。
 結弦は開けられたまま襖から、中を覗き込んだ。
「……おばあちゃん」
 室内に布団が敷かれ、結弦の祖母が眠っていた。
 眠ってはいるが、頬はこけ落ち、眼窩も窪んでいて、決して健康とは言えな かった。
「おばあちゃん、どこか悪いの?」
 結弦は思わず母親に尋ねていた。母親は何も答えてくれなかった。
「おばあちゃん、僕だよ、わかる?」
 結弦は祖母の布団の横に座り、祖母に話しかけた。が、閉じられた瞼はぴく りとも動かない。ときおり、顎を震わせるように、苦しそうな息をする。
 結弦の祖母は、結弦の能力が発現した時に、結弦を抱いていた。
 まだ幼かった結弦を抱いて散歩に出かけた祖母は、突然の雨に近くの神社の 軒下に雨宿りをした。すぐに止むだろうと、結弦を抱いて待っていると、突然 結弦が泣き出した。
 火がついたような異様な泣き声に、孫の身体に何かあったのかもと不安にな った祖母は、雨にも関わらず、家に戻ろうと駆け出した。
 直後、眩しい光と、地面も揺るがす雷鳴に、祖母は孫を抱えて思わずしゃが み込んだ。
 バリバリという激しい音と共に、大きな樹が今まで彼女が立っていた場所に 倒れかかっていた。
 あのまま雨宿りしていたらと思うとぞっとして、祖母は結弦を覗き込んだ。
 突然の光と音に驚いているだろうと思っていた結弦は、何事もなかったかの ようににこにこしていた。さっきまで泣いていたのが嘘のように。
 釈然としないながらも、ただの偶然だろうと思っていた。
 が、結弦が成長し、言葉を喋るようになり、その力が具体的に家族にわかる ようになっていく。
 母親は自分の子供の変な力を恐れ、嫌い、周囲の目ばかりを気にして、結弦 に何も喋るなと叱ってばかりいた。父親も母親と同じだった。
 祖母だけは結弦を可愛がってくれたが、結弦の力があの日の雷のせいだとで も思っているのか、その可愛がり方もどこかぎこちなく、母親に遠慮するよう になり、結弦を遠ざけるようになってしまった。
『結弦ちゃん、黙ってたらいいことのほうが、世の中には多いよ』
 まだ小さかった結弦に、あまり理解できないようなことを繰り返して言って いた祖母だった。
 その祖母が、結弦が話しかけるのもわからずに眠っていた。
 母親が和室を出ていく。結弦は心残りながらも、母親の後についていった。
「どうなの?」
 リビングで突然母親に尋ねられて、結弦は答えに詰まった。
 何を聞かれているのか、わからなかったのだ。
「もう、何をボケっとしているのよ。おばあちゃん、どうなの?」
「…………どう、って」
 母親の聞きたいことがわかったような気がしたが、結弦は本能で拒否してい た。
「何か見えた? あんたにはわかるんでしょ。人の死ぬのが」
 母親の台詞に結弦は目を見開く。
「見えなかったの?」
 結弦は真っ青になって、母親から視線を外した。
 見えたことを話せば、母親が喜んでくれるのだろうか?と一瞬の迷いが起き た。
 だが、結弦の頭の中で母親の記憶といえば、「どうして黙ってられないの!」
と叱る姿しかない。
 なのに今更喋れと言われても、言葉が出てこない。
「本当に……お前は、役立たずよね」
 呆れ果てたような母親の声に、結弦は唇を噛む。
「おばあちゃんが病気だから……、僕を呼んだんじゃないの?」
 あんなに酷いと知っていれば……、そう考えて、結弦は首を振る。いくら祖 母の様態が悪いと聞かされても、自分はこの家に帰ってくる勇気がどれだけ持 てたかは疑問だった。
「何かあっても、あんたは葬式の時だけいればいいから。親戚皆がいるところ で、ウロウロしないでよ」
 重りを飲まされたように、胸が苦しくなる。呼吸まで苦しくなる。
「わかったの?」
 結弦はなんとかわかったと声を出す。もう一度祖母の顔を見ようと、リビン グを出ようとした。
「おばあちゃんに何かあったら連絡するから。あんたは病院とか駄目でしょ。
来られても困るし」
 これで帰れとばかりに、背中に言葉がぶつけられる。
「おばあちゃんに帰るって……」
「言ってもわからないわよ。どうせボケているんだし」
 さっさと帰れとばかりに、煩そうに言われて、結弦は玄関へと方向を変える。
 母親は見送りにも来なかった。
 一人で靴を履き、玄関を開ける。門を出るとタクシーから梓弓が降りるのが 見えた。
 少し息が楽になったような気がした。そのまま、梓弓の元まで歩く。
「どうだった?」
 優しい声。思いやりのある声。静かに、結弦を気遣う声に、ぽとりと涙が落 ちた。
「何か……言われた?」
 梓弓の問いに首を振って、結弦は祖母の状態を話す。
 顎を揺らすような息と結弦が話した時に、梓弓は眉を寄せた。
「……やっぱり、悪いのかな?」
 わかっていることとはいえ、結弦は恐る恐る尋ねた。
「医者にはかかっているんだろうか。老衰というより、肺の方の病気かもしれ ない」
 結弦は梓弓の疑問に答えられるだけの知識もなかった。
「……わからない」
「手の尽くしようがないとしても、呼吸器をつけるだけでずいぶん楽になるん だけれど」
 梓弓の医者としてだけではなく、人としての思いやりに溢れた言葉に、結弦 は覚悟を決めた。
「……もう、だめだと……思う」
 結弦の言葉に、梓弓は一瞬息を詰め、結弦の肩に手を置いた。
「辛かっただろう? 大丈夫か?」
 優しい声に、結弦は小さく頷いた。大丈夫というにはかなり無理のある精神 状態だったが、梓弓が傍にいてくれるだけで、気持ちが楽になる。
「せめて結弦のおばあさんが、少しでも楽になる方法を、話してみようか?」
 結弦は迷った。気持ちとしては、梓弓の提案通りにしたい。けれど、あの家 に引き返すには、祖母を思う気持ちより、恐怖のほうが強い。
 迷うことは祖母の苦しみを長引かせることだとわかるのに、祖母のためには 引き返すべきだと思うのに、行きたくないという気持ちが結弦を引きとめる。
「帰ろうか……」
 梓弓の声に結弦ははっと顔を上げた。
「でも……」
「余計なことを言って悪かった。病人の治療に、俺が口を出せる立場じゃない。
まして、結弦の気持ちも考えずに、つい、医者根性が顔を出してしまって」
 梓弓がタクシーに乗り込もうとするのに、結弦は意識せずに、上着の裾を引 っ張っていた。
「……結弦?」
「話すだけでも……」
 結弦の決心に、梓弓は表情を引き締め、しっかりと頷いたのだった。





 再び家に引き返してきた結弦を、母親は不機嫌そうに見た。そして、結弦の 隣に立つ一人の青年に、怪訝そうな目を向ける。
「あ、……母さん、この人は……」
「はじめまして。私は結弦君の友人で、M総合病院で外科医をしております、 常葉木と申します。今、結弦君にお婆様のお加減をお聞きしまして、差し出が ましいと思ったのですが、少しでも、今後の治療にお役立てればと思いまして」
 梓弓の丁寧な挨拶に、母親はいかにも迷惑そうな顔をした。
「母はもう、治療の手立てがないと、かかりつけの医者にも言われましてねぇ」
 それで帰ってくれとばかりに、母親は結弦に目で帰れと指図する。
「お聞きした様子では、下顎呼吸が始まっているように思えます。治療はもは や効果がないにしても、苦痛を和らげることはできます」
「下手に長引かせるのは、可哀想ですし、本人も入院はしたくないと言ってる んですよ。年寄りは頑固だから」
 煩そうに言われ、梓弓はそっと結弦を盗み見た。玄関に入ってから、一度も 顔を上げようとしない。母親の怒りをひたすらに耐えている。
 それは祖母をなんとかしてやりたいという想いの表れであるだろうと、梓弓 は思った。そうでなければ、結弦はこんな空気に耐えられないだろう。
「下手に延命はしません。みせていただければ、自宅でできる苦痛緩和の方法 もあります」
「迷惑です。この子に何を吹き込まれたのか知りませんけど、病人をずっと見 てきたのは私なんです。貴方には関係ないでしょう。まして、この子は、この 家から出ていったんですよ。そんな子に、口を出せる権利なんて、ありません よ」
 結弦がびくりと震えた。まるで、結弦から出て行ったような台詞に、もう傷 つくまいと思っていた心に、また深い傷を引っかかれたような痛みが走る。
「お言葉ですが、結弦君を追い出したのは、貴方たちでしょう」
 梓弓の言葉に、母親は顔色を変えた。
「それこそ、貴方には何も関係のないことです。この子は我が家にとって、疫 病神なんです。貴方ももっとつきあえばわかりますよ。この子がどんなに恐ろ しい子か」
「それが我が子に向かっていう台詞ですか」
 梓弓は自分の心の中に、ゆらりと暗い炎が立ち上るのを感じた。
 目の前の母親にというよりは、自分の母親に対して感じたような、冷たい炎 だ。
 その炎を感じる時、梓弓はいつも、自分の身体の中には、冷たい黒い水が流 れていると思っていた。
 自分は人ではなく、母親によって作り出された、感情の欠けた醜い人形だと。
「我が子。この子を愛しいと感じたのは、この子を産んだときだけ。それ以外 は、訳のわからないことで泣く、扱いにくい子供だったわ。どうして泣くのか わかったのは、この子のあの忌まわしい力のせい。その力をこの子は、言葉で 話したのよ。どれだけ私たちが冷たい目で見られたことか。この子がいなけれ ばと何度思ったか、わからないくらいよ」
「やめろ!」
 梓弓は聞くに耐えない母親の言葉を、怒鳴りつけるように遮った。どうして そんなことを本人の前で言えるのか、それが腹立たしい。
「いいんです、先生。……慣れてるから」
 もう帰ろうと、結弦は梓弓の上着の裾を引っ張った。
「ほら、そうやって、自分が悲しいような顔をする。あんたのために、どれだ け白い目で見られてきたと思ってるの! 可哀想なのは、こっちよ! 出て行 って! 二度とこの家の敷居をまたがないで!」
 結弦の蒼白な顔色を見て、梓弓はそっと結弦の前に立った。母親と向かい合 う形で。
「では、私が結弦君を戴きます。本当に、二度と会えなくても、よろしいんで すね」
「……先生」
 背中から結弦の驚く気配が伝わってくる。それは梓弓の目の前に立つ母親も 同じだったらしい。
 だが、二人の反応は、まるきり違っていた。
 結弦はただ、目の前の広い背中を見つめていた。自分が守られているという 思いは、結弦から僅かながらも、恐怖や悲哀というものを消していってくれた。
 母親は梓弓を嘲笑うかのように見た。実際、しばらく梓弓を見た後は、何が 可笑しいのか、声をたてて笑い始めた。
「なるほどね。そういうことなの。はじめからまともな子じゃなかったけれど、 男を咥え込むなんて、ますますまともじゃないわ。どうぞ、その子は引き取っ て行って下さい。その代わり、後でどれだけその子の変な力が恐ろしくなって も、こちらに返したりしないで下さいね」
 自分が母親から嘲笑されながらも、冷静でいられたのは、世の中には我が子
を愛せない母親がいると、見をもって知っているからだろうと、梓弓は思った。
 そして、この母親から引き離せるなら、どんな罵詈雑言も平気だった。
「別に貴方にまともと認めて頂かなくてもかまいません。どのように見られよ うとも、我が子を愛せない女よりは、私はこの世は生きやすいと思っておりま すので。結弦君の能力のことも知っています。彼がどれほど苦しんできたかも。 それが貴方のせいだということも今夜わかりました。後は私が彼をどんなこと からでも守ってみせます」
「し、失礼な。まだわからないだけよ。この子といると、どんな目で見られる のか。それがわかったら、貴方もこの子を捨てるわよ。貴方は捨てられても、 私は捨てられなかった。親だから。もっと世間を知るといいわ」
「冷たい目で見られたのは、貴方が彼を愛さなかったからだ。どんなことから でも守るのが、母親だと、世間は思っている。それをしなかったから、貴方は 冷たい目で見られるしかなかったんだ」
 母親は険しい顔で梓弓を見ていたが、やがてぽつりと涙を流した。
「出て行って。その子を連れて出て行って。二度とここへは来ないで」
 梓弓は向きを変え、結弦を見た。
 結弦は顔色は悪かったが、今までのように深い悲しみに沈んでいるようでは なかった。
「力になれなくて、悪かった。……行こう」
 梓弓が結弦の背中に手をかけると、結弦は一歩、母親へと足を踏み出した。
「僕は、……母さんに感謝してる。今まで、我慢してくれて、ありがとう」
 母親は何も答えなかった。
 母と息子の間に存在する深い溝は、埋められないほどに深く、そして遠かっ た。
「きっと、今にわかるわ。世間の目が」
 玄関を閉じる時、梓弓の耳に、潜められた呟きが聞こえてきた。
 先に結弦を外に出していたので、母親の声は、彼には聞こえなかっただろう ことが、せめてもの救いだった。
「ありがとうございました。先生」
 結弦は門から出ると、梓弓に深く頭を下げた。
「かえって険悪にしてしまった。……すまない」
 梓弓は結弦に侘びた。だが、結弦はどこか吹っ切れたような淡い笑みを浮か べている。
「いいんです。……本当は、きっと、僕が母に言わなければならない言葉だっ たんです。もっと、早くに言えてれば、……もっと……」
 それで何かが変わったとは思えなかったが、決定的な決別にはならなかった かもしれない。
 愛してと叫べば、せめてもう少し……。甘い幻想でしかないけれども。
「……帰ろう」
 梓弓は待たせていたタクシーに、結弦を乗せて、自分のマンションの住所を 告げた。
「……先生……」
「あの言葉は、本気だから」
 梓弓のマンションに帰ること。
『私が結弦君を戴きます』
 本気だから。
 結弦は今になって、その言葉が心に響いてきた。





『私が結弦君を戴きます』
 梓弓の言葉に、嘘や偽りはなかった。
 本気で結弦が欲しいと思っていた。
 それがどんな形になるのかは、梓弓自身にもわかってはいなかったが、今夜、 具体的な気持ちがわかり始めていた。
 他人を愛しいと思う気持ちや、愛するという感情は、梓弓の中では物語のよ うに遠い世界の、まるでそれは架空の出来事であると思っていた。
 それが今、身近なことと感じとられるのは、やはり彼が隣にいてくれるから だろう。
 タクシーの運転手に自分のマンションの住所を告げる。
 梓弓の隣に座った結弦は、焦点の定まらぬ目を足元に落としていた。
 そっと結弦の手を握ると、ぴくりと彼の身体が震えたが、ゆるりと梓弓の手 を握り返してきた。
 それは梓弓の気持ちに応えるというよりは、不安な気持ちを梓弓にすがるこ とで消そうとしているようにも感じられた。
 窓の外を、街の灯りが帯になって流れていく。
 梓弓のマンションまで、二人は一言も話さなかった。
 言葉は必要なかった。
 どんな言葉も結弦を慰めることはできなかったし、慰めを言えば嘘っぽく聞 こえただろう。
 それよりも。手の温もりをわけあい、伝え合う暖かさのほうが結弦の圧し縮 められた心を慰めた。
 高速を降りて、幹線道路から入る道を梓弓が説明する声だけが響く。
 結弦が梓弓の部屋を訪れるのは、あのバスジャックの事件以来で、久しぶり のことだった。
「入って」
 梓弓の声に促されて入ると、二度目の空間は、思っていたよりも結弦を温か く迎えてくれた。
 梓弓が部屋の灯りをつける。眩しい光に、結弦は一瞬目を細めた。
「座って。話したいことがある」
 梓弓の言葉に、結弦は息をつめて頷いた。
 梓弓はソファに座った結弦の前に、膝をついた。
「さっき、お母さんに行った言葉は本気なんだ。結弦をもう一人にはしたくな いし、俺も一人にはなりたくない。……一緒に暮らさないか?」
「一緒に……」
 今すぐにでも頷きたい。けれど、結弦の頭の中にはまだ生々しい母親の呪い が渦巻いている。
『一緒に暮らせばわかるわ。この子の恐ろしさが』
「君が必要なんだ。傍にいて欲しい」
 自分が出会いたいと思っていた人に、望まれることは震えるほどに嬉しかっ たが、素直に頷けなかった。
「でも……、僕は……」
「あの人の言った事は気にしなくていい。俺はもう君の力も知っている。その 力で、あの時も今日も、俺自身を助けてもらった。あの人の言うような気持ち にはならないと誓う」
 心はその言葉を信じたいと切望している。たとえ信じられなくても、今だけ その言葉に縋ってもいいとさえ思う。
 けれど結弦が踏み止まろうとしているのは、そんな気持ちとはうらはらの、 梓弓を想う気持ち、ただそれだけであった。
 いつかきっと、自分のこの忌まわしい力が、梓弓に迷惑をかける。それだけ は耐えられなかった。
 子供の頃はわけもわからず、現実に見えることと、自分の力が視せる幻と、 区別なく喋ってしまった。
 母親はそんな結弦を扱いかね、ただ黙らせることに苦心していた。
 結弦にすれば、誰かに告げずにはいられなかった。目の前の人が酷い怪我を していれば、『大丈夫?』と聞かずにはいられなかったし、聞くなと言われれば その人から逃げ出したいと訴えるしかなかった。その怪我が幻だとわかるよう になっても。
 母親は隠すことに専念するようになり、結弦が普通に喋ろうとするだけでも、 苛立ち、叱り、精神的にも息子を遠ざけていった。
 そんな現象が、もし、自分と梓弓の間に生じてしまったら……。
 それくらいなら……。
 今の自分なら、力を隠すことを知っている。
 梓弓に話してしまったのは、梓弓自身を救いたいという強い思いから出たこ とであって、それ以外のことなら、隠せる。離れて暮らしていれば……。
 だから今のように、離れて暮らしていればいい。いっしょになど暮らせない。
 こんな自分は…………、母親でさえ受け入れられなかった。
「結弦……」
 名前を呼ばれると、嬉しさがこみ上げてくる。泣きたくなるほど幸せだと想 える。だからこそ、今の関係だけはなくしたくない。
「……無理です。……僕は一人が……いいから」
「俺のことは気持ち悪い? 君に好きだと言う俺は、受け入れられないだろう か?」
「そんなことっ」
 結弦は慌ててその言葉を否定した。
「そんなこと、ありません。そう言ってもらうのは……、嬉しいです」
 梓弓は自分にとって、ただ一つの救い。梓弓の存在があったからこそ、出会 う前から、巡り会えることだけを信じて、どんなことにも耐えられた。
「俺は、今まで人を好きになるという気持ちが、どんなものか知らなかった。
だから、上手く君を愛せるのか、正直なところ、自信がない。けれど、君とず っと一緒にいたいと願っている。君の不安が何かもわかっているつもりだ。こ れから俺たちは、それを一つずつ話し合って、理解し合って、乗り越えていか なくてはならないと思うんだ。俺はそのための努力は惜しまない」
 梓弓はそこで言葉を切って、結弦の両手を握りしめた。
「君が俺のこの気持ちを気持ち悪くないと思ってくれるなら。傍にいてくれな いか? 君を一人にしたくないという気持ち以上に、俺ももう一人でいたくな いんだ」
「先生……も?」
「君は自分の力を怖れている。俺も自分がいつか、君に嫌われるのではないか と怖れている」
「どうして、先生が」
 梓弓の言葉に結弦は驚いて目を見張る。
「俺も決して幸せな子供じゃなかった。だから、人の温もりを知らない。人を 好きになるという感情も、君と出会ってはじめて知った。だから、人を大切に することを知らない。こんな俺は、いつか君に疎まれるのではないだろうか… …と」
 結弦は黙って首を横に振った。
「まだ俺たちは出会ったばかりで、お互いに知らないことばかりだろう? け れど、君は俺のことを救おうとしてくれた。俺も君を救いたい。それさえ見失 わずにいれば、乗り越えられるんじゃないだろうか」
「……先生」
 結弦は梓弓の手に包まれた手を握り返した。
「君を愛している。一緒に暮らして欲しい」
 いつか、この日に頷いたことを後悔するかもしれない。そう思ったが、後悔 してもいいと思えた。
「僕で……いいんですか?」
 恐る恐る発した結弦の小さな声は、梓弓の心にしっかりと届いた。
「君しかいない。……結弦」
 握られていた手が離れ、梓弓の腕が伸びてきた。
 肩を抱かれ、引き寄せられる。
 人の温もり。肌の暖かさ。
 触れ合う場所が熱くなっていく……。
「先生……」
 結弦の吐息のような声に、梓弓は笑って自分の名前を告げた。
 その名前を呼ぶ前に、結弦の唇に梓弓の唇が重なった。
 結弦がその名前を呼べたのは、けれど、二人が一緒に暮らすようになってか
らである。



                           Fin.