サバイバルナイフが手首を掠め、皮膚を切り裂いた。
 痛みより、熱さを感じた。
 熱さがじわりと広がり、血が流れるように腕を伝い、畳へと落ちていく。
 咄嗟に切られた左手首を右手で覆う。
 深くは切れていなかったのか、圧迫する事で血は止まっているが、次第に痛みが出てく る。
 犯人は自分が切られたような顔をしていたが、梓弓が顔を上げて目が合うと、無理にも 睨みをきかせる。
「お前が悪いんだ!」
 梓弓は溜め息を隠し、右手で手首を押さえ、痛む左手で鞄の中を探った。
「な、何をしている!」
 犯人は慌ててまたもやナイフを突き出してきた。
「包帯を出すんだ。このままでは子どもの手当てをできないだろう」
 梓弓が答えると犯人は押し黙まった。それでもナイフを引っ込める事はなかった。
 梓弓はあえてナイフなど見えないようにふるまい、鞄の中から包帯を出すと、器用に自 分の手首に巻いていく。
 まだ血は完全に止まっていなかったが、それでも不自由はない程度には動く。
「包帯を巻いたんなら、次は子どもだ。早くしろ」
 犯人は梓弓を急かした。
 梓弓は諦めて立ちあがった。
「ここで寝てろ。いいな。父ちゃん、すぐ戻ってくるから」
 梓弓にナイフをつきつけているが、子どもに語りかける言葉は優しい響きをしていた。
 子どもは寝ながらも、こくんと小さく頷く。
 熱がまだ上がっているのか、息は小刻みで荒い。
 犯人のナイフに背中を押されながら、階段を降りて奥に行くと、そこが台所になってい た。キッチンの奥に冷蔵庫が見えた。
「解熱剤だ。絶対ある」
 元妻の薬を置いておく癖を知っている。
 子どもの熱が普段高いことを知っている。
 それでも尚、別れなければならなかったのは、夫婦にしか分からない事情があるのだろ う。
 梓弓は冷蔵庫の棚から、扉へと目を転じた。扉の透明の蓋の中に、白い袋を見つけた。
 袋を取り出すと表に子どもの名前が書いてあり、端にボールペンで『熱さまし』と書か れていた。日付を見ると2ヶ月ほど前のもので、使用に問題はないと思えた。
「あっただろ」
 少し得意そうな犯人の声に、梓弓は解熱剤を確かめる。
 5個処方された解熱剤は、3個が残っていた。
 一日に3個が限度のその解熱剤は、特に副作用がきついものではなく、今の子どもの状 態でも問題はないように思われた。
 だが……。
「どうしてあんたが使わなかったんだ? 子どもの病気の事には詳しいように思えるが」
 梓弓が尋ねると、犯人は目元をぴくぴくと痙攣させた。
「関係ないだろ、先生には。早く息子を診てくれ」
 顎で示され、梓弓は冷蔵庫を閉めた。
「水を少し多めに持って上がりたいんだが」
 梓弓が言うと、犯人は目を細めて理由を問いかけてきた。
「熱が上がれば、脱水が心配だ。子どもの場合、高熱より脱水が心配だ」
「……あぁ」
 すぐに犯人は納得し、梓弓にナイフを向けながらも、コップと薬缶を取り出した。
 梓弓に手渡し、薬缶に水を入れさせる。
 そのまま、また階段を上がる。
 子どもは二人が降りた時と同じように、畳の上に寝ていた。
 梓弓はその時『何故』と思った。
 子どもを置いていく事は、隠しマイクを通じて、西中たちに伝わっているはずだ。2階 の窓を破るくらいは簡単だ。
 だからゆっくり薬を取り出し、水の用意までさせた。
 なのに、警察は踏みこんでこなかった。
 何故。何かあったのか。
 その答えはあっさり梓弓の中に浮かんだ。
 マイクのほうなのか、受信する機械なのか、どちらかはわからないが、故障しているの だろう。
 つまり、こちらの様子は相手に伝わらない。
 受信するほうの問題ならば、すぐに対処できるかもしれないが、マイクが故障している なら、直せる見込みはない。
 ならば、子どもの治療を最優先させ、警察が犯人を説得し、投降するのを待つしかない だろう。
 梓弓は子どもの横に座り、袋から座薬を取り出した。
 製薬会社の刻印を確かめて、一つを破る。
 子どもは慣れているのか、その薬を見ても怖がりはしなかった。
「あんたが入れてやるか?」
 梓弓の提案に、犯人は薬を手に取りかけて、すぐに手を引っ込めた。
「だめだ。先生がしろ」
 ナイフを手放す事を怖れているのか、犯人は梓弓の手には乗らなかった。元々梓弓にも、 子どもの手当てをする父親を、無理にも捕まえるつもりはなかったので、そのまま治療を 続けた。
 熱を測ると39度を越えていたので、梓弓は子どもを横向きに寝かせ、声をかけながら 薬を入れた。
 子どもは泣く事もなく、しばらく梓弓に言われた通り、横向きで膝を抱えていた。
「おとなしい子だな」
 梓弓が言うと、犯人は小さく口元だけで笑って、そっと子どもの頭を撫でた。
「俺は医者で、あんたを捕まえたりしないから、ナイフを置いたらどうだ。子どもの前で そんなものを振り回すな」
「うるせー」
 言葉は乱暴だったが、犯人は今は興奮を収めていた。
「こいつの父親でいられねーんなら、もうどうなってもいいんだ」
「どうなったって、父親である事に変わりはないだろう」
「黙ってな、先生。余計な事は言わないでいてくれ。こいつの代わりはいねーけど、医者 の代わりならいくらでもいる」
 梓弓は力を抜くように溜め息をつき、子どもの上体を起こし、水を飲ませた。
 子どもの身体は燃えるように熱かったが、熱が上がりきったのか、先程よりは頬に赤み が戻っていた。
「熱だけ下げても、病気が治るって事はないぞ」
「わかってる」
「熱が上がるのは体内で熱に弱いウィルスを殺すためだ。やみくもに熱を下げるは良くな い」
「わかってるから、黙れよ、先生よー」
 犯人はまたイライラしたように、ナイフの先端を梓弓の鼻先に近づけた。
「あいつが帰ってくりゃ、子どもは解放するさ。先生も一緒にな」
 犯人の目が鋭く光った。
 子どもは助ける。けれど……。そんな覚悟が伺えた。


 小池は上司から命令された通り、犯人が立て篭もった家の周囲に廻らされた立ち入り禁 止のロープの外側に取り巻く群衆の中に、犯人の元妻がいないかと探していた。
 同僚の警官達が元妻の友人を探し回って手に入れた写真は、顔が小さくてハッキリしな いため、幾重にも取り巻く野次馬の顔を見ているとますます、本人がいたとしても見分け る自信がなくなっていく。
 受信を妨げる原因を取り除けなければ、踏みこむタイミングを掴むのは困難になるだろ う。そうなれば、解決が長引く事も考えられる。
 人質が怪我をしているならば、長引いた時には命に関わるかもしれない。
 そう思うと不安でならなくなる。ましてや、人質は抵抗力も弱い幼児である。
 野次馬はよほど暇なのか、小池が数時間前から見ている限り、ほとんどメンバーが変わ っていないように思えた。
 その中にはまるで警察を嘲笑うかのように、こちらに向かって手を振る者がいたりする。 どうにかするとテレビ中継のカメラにも手を振ったりするらしく、そんな者を映すなとか、 ふざけた奴らを捕まえろとか、警察に苦情がくるのだからたまらない。
 うんざりしながら小池はゆっくりと周囲を回っていった。
 元妻らしき女性は見当たらなかったが、そろそろ日が落ちようとする西日の中に、小池 は一人の青年の姿を見つけた。
 どこかで見た顔だと思いながら見つめていると、相手も小池の視線に気づいたようで、 二人の目が合った。
 はっと相手が目を見開くのがわかった。
 どこかで会ったことがあるという記憶は、この時、こんな場所だったと思い起こさせた。
 バスジャックだった。
 そう、バスジャックの事件の時に、梓弓の病院から一緒に現場まで来た人だと、小池は はっきりと思い出した。
 一歩踏み出すと、相手は怯えるように一歩下がった。
「ちょっと、すみません」
 小池が呼びかけると、群集が一斉に小池の視線の先へと興味を移した。
 しまったと小池が思った時には、相手は背中を向けていた。
「待って。待ってください」
 小池が呼びとめるのも虚しく、青年は駆け去っていく。
 みんなの興味津々の表情を無視して、小池は野次馬を掻き分け、青年が角を曲がって姿 を消すのを追って行った。





 立ち入り禁止のロープの内側に立つ人と結弦は目が合った。二人ともはっと して、身体を硬くする。
「待って。待ってください」
 慌てて立ち去ろうとすると、呼び止められる声が背中に届く。
 結弦は足を速めて、彼から逃げた。
 普段はつけないテレビを見ていた。もしかしたら、梓弓が行く事件が報道さ れるかもしれないと思ったからだ。
 鈍く痛む頭を我慢しながら、それでもニュースを見続けた。
 ……そして。夕方近く、速報で入ったニュースに、結弦はテレビの前に釘付 けになった。
 子供を人質に、別れた父親が立て篭もった。
 これだと結弦は思った。
 間違いなく梓弓が呼ばれる。
 本人に知らせるべきかどうかと迷い悩むことなく、ニュースはすぐに医者が 要求された事を伝え、間もなく到着すると報道した。
「梓弓……」
 名前を呼んで聞こえればいいのにと願いながら、結弦は祈る気持ちでテレビ に見入っていた。
 ずっとニュースを見ていたが、報道の規制があるのか、医者らしき人影が家 の前に行くと、カメラは遠くからの撮影となり、医者の顔までははっきりと見 えなかった。
 だから、その医者が梓弓であるのかどうかは確信が持てなかった。
 ただ、その真直ぐな背筋と、高い影から、梓弓に間違いがないと思えた。
 家の中に消えて行く影に、『待って』と声に出していた。
 もちろん、それが聞こえるはずもなく、迷う事のないしっかりした足取りで、 梓弓は入っていった。
 白衣が見えなくなってからも、テレビの画像が変わってからも、結弦の目は 梓弓の背中を見ているように、そのまま画面を見つづけていた。
「入っていった……」
 今更どうしようもできないことはわかっていたが、結弦はテレビの前から動 けなかった。
 医者が入ったことは伝えられたが、その後は犯人の情報や、人質の男の子の 生い立ちなどにニュースの対象は限られて、中の様子はわかろうはずもなかっ た。
 それでもしばらくは、梓弓が出てくるのではないかと待っていたが、家の中 の様子はまったくわからず、警察の動きも希薄なことがわかると、結弦はもう じっと待つ事ができなかった。
 現場にはたくさんの人がいるだろうとか、そこに行ったとしても梓弓に会え るわけもないとか、そんな適切な判断はできなくなっていた。
 電車にすれば二駅ほどを、結弦はタクシーに乗って急いだ。
 現場が近くなると交通規制があったので、タクシーを降り人垣の外側から、 中の様子を覗った。
 そして、彼と目が合った。
 慌てて逃げ出したが、鍛えた相手に叶うはずもなく、角を二つ曲がった所で あっさりと追いつかれた。
「えっと、あの……、常葉木先生のお知り合いの方ですよね」
 背の高い相手が申し訳なさそうに身を縮こまらせて結弦に尋ねてくる様子が 少し滑稽で、結弦は僅かだけ警戒心を解く。
「すみません、仕事の邪魔はしませんから」
 結弦は梓弓に迷惑がかからないようにと、なんとか解放してもらおうとする。
「もう、帰りますから」
「えっ。そんな。ちょっと、警部のところまで来ていただけませんか?」
 結弦が帰ろうとすると、小池は慌てて彼を引きとめた。
「それは……」
 結弦は驚いて首を左右に振った。警部というのは、梓弓が話していた、梓弓 の友人の事だろうと察しがついたが、緊張の高いそんな場所に行きたくはなか った。
「できません。僕は……」
 結弦は怯えるように二歩、三歩とうしろに下がる。
「あの時、貴方は常葉木先生の声が聞こえるって言いましたよね」
 怯える結弦に気づいていないのか、小池はあの事件の時の話を持ち出した。
「もう一度、聞こえますか?」
「もう一度?」
 結弦は嫌な予感に身を震わせた。
「実は、……盗聴機器が故障してしまったようで、家の中の様子がわからない んです、あの時のように」
 結弦は震える足で立っていられず、とうとうその場にしゃがみ込んでしまっ た。
 梓弓が危ない。
 その事だけはわかった。
「お願いします。警部のところまで来て頂けませんか」
「できません……」
「え?」
 か細い結弦の声を聞き取れず、小池は問い返した。
 結弦は座り込んだまま、身を震わせ、必死で首を左右に振った。
「僕にはできません。あんなこと……、初めてだったんです。どうすればいい のか、どうしてあんな事ができたのか、……僕にはわかりません」
 あの時、どうして梓弓の声が聞こえたのか。
 聞こえた梓弓の声を、どうして自分の思い込みだと思わなかったのか。
 あれを信じて、警察に踏み込んでくれと懇願できたのか。
 後から後から、結弦は自分のした事が怖くなってたまらなかった。
 もし、あれが幻聴だったり、踏みこんだのが失敗だったりしたらと思うと、 ぞっとした。
 梓弓は今頃、無事ではなかったと。
 その恐怖をもう一度味わえと言うのか。
 いや、また梓弓の声が聞こえるなんて、どうして思えるだろうか。
 そして、それが幻聴で、踏み込んでしまったために梓弓や人質に危害が加え られてしまったら。
 それを想像するだけで、前身の血が凍りそうになる。
「……できません」
 嫌だ嫌だと結弦は首を振る。
「では、覗くだけでもいらしてくれませんか? それ以上の事はお願いしませ んから」
 梓弓のことが心配で、ここから立ち去る事はできないだろう。
 せめて梓弓の無事な姿を見るまでは。
「常葉木先生が出てこられたら、警察の方で報道から隠しますので、そうなる と会えませんよ。ね?」
 迷惑になる。
 すぐに帰るべきだ。
 それがわかっていても、結弦は梓弓の無事な姿を一目でいいから、遠目でい いから見たいという欲求に勝てなかった。
「本当に迷惑じゃありませんか? その、……常葉木先生にも」
 結弦が恐る恐る尋ねると、小池は相手を安心させるようににっこり笑った。
「もちろんです」
 のろのろと結弦は、萎えた足に力を入れる。
「一目、常葉木先生の姿を見したら、帰りますから。皆さんのご迷惑にならな いように気をつけますから」
 小池が頷くのを見て、結弦は立ちあがった。





「警部」
 ワゴンのタラップに足をかけたまま、小池が西中を呼んだ。
「どうした、見つかったか?」
「それが……」
 小池の様子に不審を感じて西中は出口へと向かった。そして、その人に気が ついた。
「……あなたは」
 西中は驚きに目を見開いた。
 俯きがちに結弦が頭を下げると、西中は慌てて彼をバスの中に引き入れた。
「梓弓から何か聞いていますか?」
 西中は結弦をワゴンの奥の椅子に座らせて尋ねた。
 結弦が唇を固く結んだまま首を左右に振ると、残念そうに『そうですか』と 呟いた。
「梓弓があの中に入って行ったことはどこでお知りになりましたか?」
「……テレビで」
 か細く震える声が答えた。
「テレビでは医者の名前は言いませんし、顔も映らなかったはずですが」
「……遠目で常葉木先生だと」
「正直に答えて欲しいんです。今回のこともご存知だった?」
 西中の問いに結弦がはっと顔を上げた。顔は緊張で強張り、目に怯えの色が 濃い。
「知り……ません」
 結弦は必死の形相で嫌々をするように首を振って、再び俯いた。
「落ち着いてください。貴方を責めようとか、疑っている訳ではありません」
 西中は結弦の肩にそっと手を置いた。びくりと相手が身体を固くするのを見 て、西中は手を引っ込めた。
 以前の時にも思ったが、ガラス細工のような繊細でいて、今にも壊れそうな 脆さを感じる。
 梓弓にある程度の事情は聞いていたが、それ以上踏み込めなかったのは、梓 弓が話したがらなかったからだ。
 梓弓が変わり始めている。
 それを感じとって、西中は梓弓の変化を喜ぶ自分と、変わって欲しくないと いうエゴイズムを抱えていた。
 そしてまた、見守ることしかできない自分に自己嫌悪を感じていた。
 そう決断したばかりのところへ事件が舞い込み、ふたたびまた梓弓と結弦と に出会った。
 前回は突然二人を目の前にし、事件に追われるままに、結弦の言葉に突き動 かされて突入した。
 警官としての自分、友人のとしての自分の狭間で、西中は結弦の再びの出現 に戸惑っていた。
「警部、すみません。その……、前のように、……もしかしてと思いまして」
 西中の苦悩を察知してか、小池が直立不動で言い訳のように口篭もった。
「いや、……いい。わかっているんだ」
 小池は頷いて、結弦に向き直った。
「どうでしょう、梓弓の声が聞こえますか? その……前のときのように」
 小池の質問に結弦は押し黙った。
 外のざわめきが嘘のように、バスの中が静まりかえる。
「…………わかりません」
 苦しそうな答えが小さく響いた。
「前の時も……本当に聞こえたのかどうか、……自信がありま…せん」
 膝の上で握り締めた拳が震えていた。
「けれど、今回の事件のことは、……知っていた?」
 西中が尋ねると、結弦は身体を震わせ、それでも首を振る。
「水原さん、……でしたね?」
 微かに頷き、結弦は『邪魔にならないようにします』と囁くように言った。
「邪魔だとは思いません。けれど、聞かせてください。あの時、水原さんは言 いましたよね? 梓弓に向かって、視えていたんだと」
 結弦の答えはなかったが、西中はそれを肯定として受け取った。
「今日も、事前に視えていましたか?」
「………………」
 結弦は唇を噛み締めた。
 答えはなかった。
「ここにいてください。……もしも、もしもしでいいんです。もしも梓弓の声 が聞こえたら教えてください」
 結弦はそろりと顔を上げた。
「常葉木先生は……」
「小池からお聞きかもしれませんが、盗聴器が何らかの原因で聞こえません。 梓弓は犯人の要求で怪我人の手当てのためあの家に入りました。我々は今、犯 人を説得しながら、人質の母親が来るのを待っています。もちろん、チャンス があれば人質の安全を最優先に突入します」
 西中の突入という声に結弦の瞳が揺れた。
「人質の安全は最優先です。その中に、梓弓も含まれます」
 西中の決意に満ちた声音に、結弦は不安ながらも、ゆっくりと頷いた。
 結弦は祈るように両手を組み合わせ、目を閉じた。
 それはまるで、聞こえるはずのない声を聞こうとしているように見えた。
 西中は小池にもう一度外を見てくるように言い、ワゴン車の中は静かになる。
 時折西中の携帯に、現場周辺や待機中の部下からの連絡が入るが、犯人から の要求もなく、説得が長引いているだけの状態の今は、手出しできない膠着状 態に陥っていた。


 子供は解熱剤が効き始めたのか、父親に抱かれて眠っていた。
 額に汗が光り、それを拭き取っている犯人の姿は、こんな場合でなければ、 いい父親に見えていただろう。
「病院には色々な親子が来る」
 梓弓がぽつりというと、犯人は血走った目を梓弓に向ける。
 興奮と疲れで、犯人の精神と肉体は極限に近いことが覗える目の色だった。
「たいてい、父親はおろおろしているだけだがな」
「こいつ、ほんと、頻繁に熱出すから。おろおろしてらんねーんだ」
 犯人の目つきが一瞬、和らいだ。
「それだけ世話をしていながら、どうして子供を犠牲にするんだ」
 梓弓の指摘に、犯人は苦い顔をした。
「犠牲……か。それはあいつにも言って欲しいもんだ」
「別れた奥さんか?」
 犯人は苦々しく笑うと、それには答えなかった。
「こんな事をしたって、復縁できるとは限らないぞ」
「復縁……ねぇ」
 皮肉げな笑みに、梓弓は違和感を覚えた。
「奥さんを呼んで、復縁を迫るつもりなんだろう?」
「やっぱり、みんなそう思うんだろうなぁ」
 ぐっすり眠った子供を布団に降ろし、上掛けをそっと被せている。
 復縁でないとすれば……。
 それ以上のことは梓弓にはわからなかった。
 元々が人間関係の煩わしさから逃げたい梓弓は、人の感情の深読みには向い ていなかった。
 希薄に、できる事なら関わらず、離れればその瞬間から相手のことは忘れた いと願ってきていた。
 だから犯人の心の奥がわからない。
 今までにも犯人との交渉役のようなこともしたが、事はもっと単純だった。
 金が欲しい。……それだけだった。
 理性や知性で推し量れる相手ではないけれど、感情は呆れるほど単純で、梓 弓にも透けて見えるほどの計画性しかなかった。
 けれどこの犯人の狙いがわからなかった。
 子供の命を盾に、そうすれば元妻が子供可愛さに、復縁を受け入れるとでも 思ったのだろうと、そんな風に考えていた。
 そんな単純な理由でないとすると、梓弓にはもうお手上げに近かった。
「人を傷つけても、得られるものは何もないと思うけれどな」
 梓弓は諭すような口調になっていった。
 正論ではあるが、罪を犯す相手に通じるはずはない。が、それはもっと底の 浅い事件の場合で、かえってこの犯人には、理性に持ち掛けた方がいいような 気がした。
「先生は、本当は警察官か?」
 犯人は唇を歪めて笑った。
「私は医者だ。証明書もある」
「疑っちゃいないが、黙っててくれ。あいつが帰ってくるまで」
 子供が寝ている布団の向こうで、犯人がナイフを持ち上げた。
「……もうすぐ帰ってくるだろう」
 梓弓は腕時計を見ようとして、左手に包帯を巻いている事を思い出した。
 何時だろうかと部屋を見回す。
 午後6時。母親が出かけたにしては、戻ってくるのが遅くはないだろうか。
「帰ってこねーよ。もしかすると、今夜は帰らねーかも。先生も覚悟しといて くれ」
 梓弓が意味を測り兼ねて犯人を見ると、彼は仕方なさそうに鼻で笑ったのだ った。





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