『出勤の前に少しそっちに寄ってもいいかな?』
 予知の夢を視た結弦は、梓弓に気持ち悪がられないだろうかと怯えながら電 話をかけた。
 その返事に、梓弓はこれから訪ねてくると言った。
 彼を待ちながら、結弦は少しずつ気持ちが落ち着いていくのがわかった。
 信じて貰えた。
 それが結弦の心の負担を取り除いていく。
 夢が現実になるのは怖い。
 けれどそれで梓弓を救えるのなら、この力があってよかったと思える。
 自分の力をそんな風に受け入れられるのは、結弦にはもちろんはじめてのこ とである。
 できる事なら、引き止めたい。
 けれどそれができないのなら、せめて危険を回避して欲しい。
 結弦の願いはただそれだけだった。
 大切な人。
 結弦の心を包み込んでくれる人。
 出会えただけで嬉しいのに、梓弓に優しくされて、結弦は最近、それ以上の 何かを求めていて、自分が怖くなる。
 バスの事件の翌日、梓弓の部屋で目覚めて、『あなたが好きだから』と言って もらえた。
 それ以外に望む事などない筈だった。
 けれど、梓弓の傍にいると、自分の心が静かに落ち着いていく。
 それだけで過ぎる幸せだと思っていたのに、それ以上を欲しがる自分がいる。
 この部屋に梓弓がいると、もっといて欲しいと思い、帰る彼を引き止めたく なる。
 けれど、それを口にする事はできなかった。
 梓弓がそれを鬱陶しいと感じたら。
 だから結弦は梓弓が来てくれたらほっとし、彼が帰るのを無理にも笑顔で見 送るのだった。
 カタンカタンと外階段を昇る足音がして、結弦ははっと顔を上げた。
 梓弓との電話を切ってから30分。彼が来る頃だった。そう思って腰を上げ ると、インターホンの音が室内に響いた。
 結弦は慌てて玄関へと走り、ドアを開けた。
「おはよう、結弦。でも、ちゃんと確かめてからでないと、ドアを開けるのは 危険だよ」
 梓弓はスーツとスプリングコートを着ていた。
「…………」
 いつもと変わらぬように。いつもと同じように梓弓を出迎えようと思ってい たのに、彼を見ると言いようのない不安が押し寄せてきた。
「行かないで」
 言ってはダメだと思う前に口にしていた。
「危険だよ。行っちゃダメだ」
 結弦の必死の願いに、梓弓は穏やかな笑みを向けた。
「……先生……」
「俺はね、結弦。……行きたいんだ」
 梓弓の動揺の全く見えない言葉に、結弦は目を見張って彼を見詰めた。
「結弦は以前言ってくれただろう? 俺に会うために、その力を持っていたの かもしれないと」
 梓弓のためにこの力を使えるのなら、それならこの力も受け入れられる。
 そう思った事を正直に打ち明けた事がある。
 結弦は弱々しく頷いた。
「俺はね、誰かを救うために医者になった。どんな人でも救いたい。そうして いなければ、俺は存在していられないと思うくらいに」
「…………そんな」
 結弦は梓弓に肩を掴まれ、首を振る。
「医者として生き、医者として死ねるなら、それでいいと思ってた」
 嫌だ。死ぬなんて言わないで。
 結弦は今にも泣き出しそうに梓弓を見詰めた。
 どんな言葉も彼を引き止められるとは思わなかったけれど、けれどどうにか して、引き止めたい。
「だけど今は、死んでもいいとは思わない。何故だかわかるか?」
「わからない」
 結弦が呟くと、梓弓は白い歯を見せる。
「結弦がいるから」
 梓弓の答えに結弦は息を呑む。
「結弦の元に帰る。そのために、俺は死んでもいいなどとは思わない」
 梓弓の真摯な言葉に、結弦は涙を浮かべる。
「信じてくれないかな」
 結弦は俯き、首を振った。
 引き止められない。けれど行かせたくない。
 そんな葛藤が結弦から言葉を奪った。
 ふわりと暖かい温もりに包まれた。
 それが梓弓の腕だと気づくまでに、少しの時間を要した。
「…………あ」
 梓弓の腕の中で結弦は身体を固くする。
「俺が昔から結弦の夢の中に出てきていたのだとしたら、俺はこれからはその ために生きていく。だから、必ず結弦の元へ帰る。待ってて欲しい」
「…………うん」
 背中に腕を回され、抱きしめられているという事が、返事をした後になって、 結弦を困惑させた。
 あまりにも梓弓の腕の中は暖かい。
 抜け出したくないと思うほどに。
「何かあったら連絡するから」
 強く抱きしめられた後、梓弓の腕が自分の身体から離れていくのを知って、 結弦は僅かに怯え、その腕を掴もうとした。
「……ぁ」
 梓弓の小さな声に、結弦は自分の爪が梓弓の手首を傷つけたのを知った。
「ごめんなさい」
 結弦はその事で更にうろたえた。
「大丈夫。これくらい、何ともないよ」
 梓弓は微笑んで、カッターシャツの袖をめくった。
「血が……」
 結弦が引っかいた小さな傷に、小さな血の粒がプツリと浮かんでいた。
「なんともないよ」
 安心させるように言う梓弓に、結弦はその傷口に唇を寄せた。
「……結弦?」
 傷口を舐め、血の粒を吸い取る。
「……ごめん」
「ありがとう」
 梓弓を見上げると、切れ長の目が結弦を見詰めていた。
 手が伸びてきて、梓弓の指先が結弦の唇に触れた。
「血がついてしまった」
 結弦の唇を撫でた手が、再び結弦を抱きしめる。
「結弦が好きだよ。……愛してる」
 耳元で囁かれ、結弦は目を閉じた。
「だから必ず、戻るから」
 結弦は頷いた。
 怖いのは変わらなかったが、それでも梓弓の言葉を信じる事ができた。
「あなたを……俺のものにしたい」
 低めの声が耳に吹き込まれ、そっと唇を重ねられた。
「そのために……戻ってくるから」
 深い瞳に見詰められ、結弦は頷いた。
 もっと確かな繋がりが欲しい。
 結弦は部屋を出て行く背中に、どうぞ無事でと、それだけを祈った。





 午前の外来診察が終わった時、梓弓は無意識のうちに壁に掛けられた時計を 見ていた。
 午後1時40分。その時間が早いのか遅いのか、判断がつきかねた。
 また事件の最中へと入っていく。
 それは梓弓にとって、特に感情を揺さぶるものではなかった。
 怪我人や病人がいる。ならば、患者を助ける。
 たとえそれが犯人側であっても。
 ただ、今日のように、事件が起こるかもしれないと、前もってわかっている のは梓弓にとっても初めての事で、軽い緊張感が身体の中に広がっていく。
「何かあるんですか?」
 看護師が不思議そうに梓弓を見た。
 梓弓が無言で彼女を見返すと、看護師はたじろいだように、上体を後ろに引 いた。
「今日は何度も時計を見てらしたから」
「あぁ、……なんでもない」
 梓弓は短く答えると、聴診器を首から外して立ち上がった。
 看護師が困ったように梓弓を見ていたが、あえてそれには気づかないふりで、 診察室を出た。
 そのまま病院内の職員食堂へと向かう。
 昼食には遅い時間に、座っている職員の数は少なかった。その事に梓弓はほ っとして、奥の椅子に座り、ピラフセットを頼んだ。
 特に食欲があったわけではないが、食べないと体力がもたない。その理由だ けで、運ばれてきた食事を胃の中へ詰め込んだ。


 警視庁へ緊急出動の連絡が入ったのは、午後12時を少し過ぎた頃だった。
 住宅街のある家へ、刃物を所持した男が押し入り、別れた妻に会わせろと要 求した。
 元妻は不在で、元妻の父親と、4才になる息子が留守番をしていた。
 男は息子を抱き上げ胸にナイフをかざし、父親に元妻を呼んで来いと家から 押し出した。
 父親はそのまま駅前の派出署に駆け込んだ。
 警官たちがやってきたのを見て男は逆上し、息子を盾に、家の中に篭城した。
 男の要求はただ一つ、元妻との復縁であった。
 元妻を呼んで来い。来なければ、息子共々死んでやる。
 警察の説得にも応じず、警視庁から西中たちがやって来た時には、事態は膠 着状態に陥っていた。
「犯人と人質の様子は?」
 西中の問いに最初から現場にいた警官が答えた。
「犯人は大変興奮しております。一時も子供を放さず、突入のタイミングが掴 めません。子供は今のところ泣き叫ぶ事も泣く犯人に抱かれていますが、普段 から感情を表さないところがあるらしく、この先もおとなしくしていてくれる かどうかはわからないとのことです」
「それで、別れた妻の方は?」
「それが……。どうやら2、3日前から連絡がとれないという事で。普段から 留守がちで、子供の世話をしていたのは祖父のようですね」
 複雑な、だが至って荒んだ家庭の事情に西中は眉を寄せた。
「とにかく、別れた妻を探し出してくれ。ニュースを見て、戻ってくるかもし れないから、周辺にも注意をしておくように」
 わかりましたと言って、警官は命令を伝えに行った。
 数度の説得交渉も犯人の興奮が酷く、失敗に終わり、西中たちは焦り始めた。
 人質が幼い子供で体力の限界があることと、まさか実の父親が子供を傷つけ はしまいという希望に縋るしかない状態で、突入の機会を探っていた。
「日が落ちてからでしょう。向こうもそれ以上は興奮状態も続かないでしょう し、こちらの動きも見えにくいです」
 小池の意見に皆が同意し、その準備を始めた時、犯人から別の要求が出され た。
「医者を呼べ。医者だ!」
 西中は慌てて拡声器を手に持った。
「怪我人がいるなら解放しなさい」
 たった一人の人質を解放するはずがないとわかっていても、怪我の状態だけ でも確かめたかった。
「うるせー! 医者を連れて来い。すぐにだ!」
 それからは何を言っても医者を連れて来いと、それだけを繰り返した。
「警部……」
 西中は警備車両に戻り、携帯電話を取り出した。
 唇を噛み締め、覚悟を決めるようにきつくその電話を握り締め、一つの番号 をダイヤルした。


 食事を終え、入院患者のカルテに目を通していると、ポケットベルが鳴った。
 ポケットベルを取り出してみると、院長室の番号が表示されていた。
 正直な所、結弦の予知を疑っていたわけではないが、事件が起きなければい いと願っていた。
 何故それを願うのか、梓弓はまだその具体的な理由にたどりつけないでいた。
 自分が事件現場に行きたくないとかいう、そんな理由ではない事だけはわか っていた。
 むしろ、今までの自分は、極限に近い状態での治療をどこか楽しみにしてい て、そんな暗い己を遺棄したいと思いながら、そこに身を置きたいという願い も隠し持っていた。
 それが事件の発生を望まなかった。
 起きないでいて欲しいと思った。
 その理由がわからず、梓弓は自分の気持ちの整理に苦しんでもいた。
 呼び出しに応じるために、梓弓は院長室へと急いだ。
 院長室には西中の部下が既に到着していた。
 梓弓が入室するのを見て、小池は90度に近く腰を折る。
「常葉木君、警視庁から協力の要請が入った。行ってくれるかね?」
 嫌とは言わせない口調でといかけ、梓弓が無言で頷くと、院長もまた満足そ うに頷いた。
「すぐに用意をしてきます。事件の内容は車の中でお聞きします」
 小池は間間に車を回してきますと告げて、院長室を出ていった。梓弓もその 後に続く。
「やっぱり……、ダメだったのか……」
「え?」
 数歩先に行っていた小池が振り返った。
「なんでもない。すぐに行くから」
 梓弓は廊下の角で別れた。
 自分の呟きに、先ほどまでの不可解な疑問の答えを見つけた気がしたのだ。
 ダメだった。
 事件は起こってしまった。
 もし、外れれば、事件が起こらなければ、何故だか結弦が救われるような気 がしていた。
 外れる事もあるよ。気にしなくていいよ。
 そう言ってやりたいと思う自分がいた。
「救われないのか? 俺が関わる事で、彼の予知を増やしているとしたら……」
 却って苦しめる事になるのでは……。
 梓弓は必要だと思われる医療品を鞄に詰めながら、自分の行きついた考えに 深く苦しみ始めていた。





 梓弓が現場に到着すると、西中が本部バスから下りてきた。
「すまない」
 梓弓は口元に薄い笑みを浮かべて『気にするな』と友人の肩を軽く叩いた。
「犯人はサバイバルナイフを持っているらしい。人質は4歳の長男だ」
「怪我の状況は?」
「全くわからない。酷く興奮していて、話し合いもまともにできない状況だ」
「そうか……」
 梓弓は西中からボールペン型の盗聴器を受け取り、白衣のポケットに差した。
「犯人が要求している元妻が見つかるまで、なんとか持ちこたえて欲しいんだ」
「努力するよ」
 梓弓は鞄を手に持ち、犯人が立て篭もっている民家へと歩いて行く。
 西中は拡声器で犯人に、医者が入ることを伝えた。
 玄関は施錠されていなかった。
 梓弓が手をかけると呆気ないほど軽く開いた。
 ただし、玄関からすぐの階段の一番上に、犯人が人質にナイフを付きつけて 立っていた。
 ドアを開くとか細い泣き声が漏れ聞こえた。
 人質の長男が泣いているのだろう。その声を聞いて、祖父がおろおろと家に 近づこうとして、数人の警官に引き止められた。
「ドアを閉めろ!」
 犯人に叫ばれて、梓弓はドアを閉じた。
「鍵とチェーンもだ!」
 梓弓は言われるままに、鍵を閉め、ドアチェーンをかけた。
 警官が飛び込むとしても、玄関から突入するわけではない。犯人の近く、2 階の窓から入ることになるだろう。
 それがわかっているので、鍵をかけることに抵抗はなかった。
「ゆっくり上がってこい。いいか、変な事、すんじゃねーぞ」
 梓弓は一段一段を踏みしめるように2階へと昇る。
 犯人も人質も、怪我をしているようには見えなかった。
 梓弓が階段をほとんど昇りきると、犯人は子供を抱いたまま後退り、手前の 部屋に入った。
「怪我をしているのはどっちだ?」
 梓弓が話しかけると、犯人は梓弓に立ち止まれと命令した。
 言われた通りに立ち止まる。
 犯人は自分より背の高い医師が来たことで、しまったと感じているようだっ た。
「そこに座れ」
 梓弓は持ってきた鞄を畳において、その横に腰を下ろした。
「妙なものを持ってきてねえだろうな」
「もちろんだ。俺は治療に来たのだから。で、どっちを診ればいいんだ」

 梓弓が家の中に入ったあとで、本部バスでは西中たちが予想しなかった事が 起こり、小さな騒動が持ちあがっていた。
「どうして聞こえないんだ」
 西中の苛立った声に、機械を操作していた警官がおろおろと、配線を確かめ たり、ボタンを押したりしている。
 犯人の『ゆっくり上がってこい』という声が聞こえたあと、妙なノイズが混 じり、室内の声が途切れてしまった。
 今もザーザーという耳障りな音の向こうに、かすかに声は聞こえるが、何を 話しているのかは全く聞き取れない状況になっていた。
 人質が怪我をしているのか、犯人が怪我をしているのか、それすらもわから ない。
 梓弓は自分たちの様子が西中たちに伝わっていると思っているだろう。彼の 今までの実績からすると、治療が済めば、こちらに有利な情報を流すように会 話を運んでくれる。
 そのタイミングによって、突入のチャンスを得ていた西中たちは、盗聴マイ クが使えないという緊急事態に慌てていた。
「どうしますか?」
 小池の緊張した声に、西中は渋面を作る。
「ここの騒ぎをマスコミには知られないように注意しろ。今は治療優先だ。終 わる頃を見計らって、また説得する。それと、元妻だ。とにかく緊急で探すん だ」
「わかりました」
 小池は背筋を伸ばすと、バスを降りていった。
「何が原因だろうな」
 西中が焦りの気持ちを押さえるように呟くと、必死で無線を直そうとしてい た警官が振り返った。
「多分、近くで、同じタイプの盗聴器、もしくは電磁波の強い無線機を使って いる人がいるか、妨害電波を出している者がいるか、……あとは高圧電流を流 している電線が近くにあるか、だと思うんですが」
「それがどこにあるか、調べる事はできるか?」
「できますが、……少し時間がかかります」
 言いにくそうに言った警官の言いたいことはわかっていた。それに時間をか けている間に、事件の方が解決するのではないだろうか、結果が良きにしろ、 悪しきにしろ。
 またそれ以上の時間をかければ、中にいる怪我人の方がもたないのではない かという不安。
 どちらにせよ、突然電波状態が良くなるという期待がもてない以上、犯人説 得と、その隙を見て突入という方法にしか活路はないように思えた。
「無理をするな……梓弓」
 いつだって、梓弓は怖気づくことなく現場へと、周りの者から見ればむしろ 淡々として入っていく。
 感情の端すら見せず、誰の目にも彼が平気でいるように見えるらしい。
 学生時代からそうだった。
 梓弓の心の苦しみや、情熱を、誰も気にもしなかった。
 西中でさえ、その事に気づくのにはかなりの時間を要した。もっとも、西中 にとって、時間よりも、梓弓の傍に居続けることのほうが、大変だったのだが。
 梓弓は他人に関わろうともせず、一人でいることを望んだ。
 そんな梓弓と打ち解けるようになるまで、西中の努力は続いたのだ。
 だからこそ知った梓弓の苦しみを、少しでも取り除いてやりたいと、切実に 願っているのだが、実際はこうして、梓弓に頼っている自分がいるのである。
「絶対、無事に助けてやるんだ」
 西中は強く心に念じた。

「こいつを診てやってくれ」
 犯人は自分の膝の上に、抱きかかえていた息子を下ろした。
 泣き疲れたのか、今は声を上げていないが、目にいっぱい涙を浮かべている。
 顔色は悪く、息も喉を鳴らすように喘いでいる感じがした。
「怪我をしているようには見えないが?」
「熱がある。……かなり、高い。さっきから苦しそうで……」
 犯人の顔に、わずかな変化が現れた。
 覗き込むようにして我が子を見ている目は、外に向かって叫んだ時のような 猛々しさはない。
「俺は小児科医じゃない。子供が病気なら、解放してやれ。人質には俺がなる」
「うるせー、小児科だろうが、そうじゃなかろうが、とにかくこいつの熱を下 げてくれりゃあいいんだ。薬がいるんなら、持ってこさせろ」
 犯人が声を荒げると、子供はびくりと身体を強張らせ、父親を不安そうに見 上げる。
「熱だけ下げても、具合が良くなる事はない。大人よりも病気の進行は早くて、 重くなる事が多いんだ。だから、その子を解放しろ」
「黙って治療しろよ! こいつじゃなきゃ、あいつは帰ってこねーだろうが」
 別れた妻をなんとしてでも呼び寄せようという執念に、梓弓は眉を寄せた。 そこまでの執着心が理解できない。
 梓弓は諦めて鞄を開き、聴診器を取り出した。
 痛み止めや解熱作用のある薬も持って来てはいるが、それらはいずれも大人 用のものだ。4歳の幼児には使えない。
 膝の上で抱かれている子供に近づくと、犯人はナイフの切っ先を梓弓に向け た。
 梓弓は溜め息を一つ吐くと、子供の額に触れた。予想していたよりも熱は高 いように思えた。
 目を開けさせて、瞼を引いてみる。両手で喉に触れると、リンパ節が少し腫 れていた。
「僕、口を大きく開けられるかな?」
 梓弓が優しく問いかけると、子供は口を開いた。
 決して充分とは言えなかったが、梓弓は胸ポケットからペンライトを出して、 喉の奥を見る。やはり扁桃腺が赤く腫れている。
 梓弓は子供の服の前をはだけて、大きく上下する胸に聴診器を当てた。
 息は荒いが肺の音は綺麗で、ほんの僅かだがほっとする。
「扁桃腺が腫れている。このままじゃもっと熱が上がる。適切な治療をしない と、肺炎になりかねないし、こんな所では脱水が心配だ。この子を開放してや れ」
「うるせー! こいつはいつだって、熱を出せば高いんだ。熱さえ下げてくれ ればいいんだ。きっと、こいつ用の座薬が冷蔵庫に入ってる。いつもそうして たんだ。来いっ、探すんだ」
 犯人は言葉の荒々しさとは反対に労わるように子供を畳に寝かせ、梓弓の白 衣の衿を掴んだ。
「俺は解熱用の座薬は使いたくない。そこまで知っているならわかるだろ。解 熱剤の乱用は危険なんだ。この子は解放してやれ」
「黙ってろ!」
「……っ!」
 梓弓に怒鳴りつけ、犯人はナイフを持った手で、梓弓の腕を掴んだ。その表 紙に、持ったままのナイフの刃が、梓弓の手首に触れて、擦れるように引いて いった。
「あ……」
 子供が驚いたように小さな声を漏らした。
 梓弓の手首から血が滴り落ちていった……。





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