For Tomorrow

 

 

初出 ; Vol.60〜76

 

 





 * * *


 深い闇。
 一人きりで膝を抱えて、ひたすら待ち望む。
 早く、速く。
 朝はまだなの?

 漆黒。
 何も見えない。
 叶うなら……、
 このまま、もう、何も見えなくていい。

 もう、何も……
 何も……いらない……


 * * *


 結弦はゆっくりと深い眠りから覚醒した。
 目覚めたくない。
 そう思いながら、まぶたを持ち上げる。
 暗い闇の眠り。見えない灯り。
 まだ何も見えないほうが幸せだったと思い直し、結弦は身体を起こした。
 そろりそろりと夜明けが部屋の中を照らしていく、まだ朝の早い時間。
 結弦は深い溜め息をつき、冷たい床へと素足を下ろす。
 高校を卒業した時に『一人で暮らしてみたい』といった結弦に、両親はどこ かほっとした顔をして、この部屋を見つけてくれた。
 実家から遠く離れ、結弦の事を知る人の少ない街。
 寂しいかと問われれば、結弦は黙って首を振るだろう。
 一人でいれば、それを寂しいとは思わずに済む。
 本当に寂しいのは、皆の中にいて孤独を感じること。
 家族の中にいて、自分は一人だと感じること。
 ここに一人でいれば、何も寂しくはない。
 コップにミルクを入れ、電子レンジで温める。
 結弦はテレビもつけないし、ラジオも聴かない。
 何も知りたくない。外の世界のことは。
 けれど、そんな結弦の生活に一つの変化が訪れた。
 常葉木梓弓。
 結弦が幼い頃から夢に見ていた、自分を撫でてくれる暖かい手の持ち主。
 今結弦が寂しいと感じるなら、今日は梓弓に会えないと思うことくらいだろ うか。
 結弦は自宅で翻訳をしているので、時間は自由になるが、梓弓は近くの病院 で勤務医をしているので、連絡も決まった時間にしかとれない。
 会えないけれど、梓弓のことを思うと、気持ちが暖かくなる。
 今日も一日頑張れば、夜には声を聞ける。
 それが最近の結弦の励みになっていた。
 梓弓はどんなに忙しくても、会えない日には夜に電話をかけてくれた。
『おやすみ』
 電話のラストにその声を聞くと、本当にゆっくり眠れる。
 夢に怯える必要もないくらいに。
 会えた時にはゆったりと抱きしめてくれて、囁くようにお休みを言ってくれ る。
 そのまま離れたくないという気持ちになるが、結弦はそれを言えずにいる。
 何かを、どんな小さなことでさえ、梓弓に無理を言えば嫌われるのではない だろうか。
 今の結弦にとって、それが最大の恐怖でもあった。
 バスジャックの事件の日、結弦は無理にも梓弓に同行し、血まみれの梓弓を 見た。
 自分が予知した事とはいえ、全身の血が凍るような恐怖だった。
 梓弓だけが結弦を救ってくれる人。
 会えたのに。ようやく会えたのに。
 離れたくない、失いたくない。
 結弦にはそれしか考えられなくなっていた。
 そのためには自分の梓弓といたいという欲望を抑えることくらいは簡単だっ た。
 そして……、あまりに梓弓の近くに行く事も、結弦にはまた恐怖だった。
 もしも……、万が一……、梓弓の未来を、結弦の見たくない未来を見てしま ったら。
 結弦の中では渇望と恐怖が同居し、危ういながらもバランスを保っていた。

 午前中に掃除や洗濯をし、店が空いている時間帯に買い物を済ませる。
 午後から翻訳の仕事をする。
 小さなアパートながらも、大きな通りからは離れており、人の声も、車の音 も、結弦にはあまり届かない。
 結弦はそれが気に入っていた。
 ドイツ語の短編小説を翻訳していた結弦はキリのいい所で切り上げると、丁 度窓の外は薄暗くなり始めていた。
 食事の支度でも始めようかと、結弦が伸びをした時、電話が鳴り始めた。
「…………」
 軽やかなメロディーを奏でる電話を、結弦は無言で見つめる。
 出たくない。
 なんだか、この電話には出たくない。
 そういうわけにもいかず、結弦は恐る恐る電話に手を伸ばす。
「……水原ですが」
「元気にしているの? 結弦」
 まるで元気にしていて欲しくないと言うような聞き方の、母親の暗い声が結 弦の名前を呼んだ。





「結弦? 聞こえてるの?」
 返事をしなければと思うのに、声が喉に貼りついて出てこない。
「そこにいるんでしようね」
 暗い声はやがてイライラしたものに変わる。
「な、なに?」
「いるのならちゃんと返事をしなさいよ。嫌な子ね」
 嫌な子ね。
 母親はいつもそう言って結弦を責めた。
『お母さん、あのね、あの人ね……』
『しっ! 黙ってなさい!』
 まだ結弦がその力を自覚できない頃、視えたものをそのまま口にしてしまっ た頃から、母親は『言うな』と結弦を叱り、そしてその台詞の最後に必ず、『嫌 な子ね』と言うのだった。
「ごめんなさい……」
 そして結弦は、心がちくちく痛むのを堪えながら謝るのだった。
「今月の家賃なんだけれどね、やっぱり払えそうにないわ」
 用件はそれだったのかと、結弦は少しほっとする。
 結弦が家を出る時に、母親は嬉しさのあまりか、家賃ぐらいは払ってあげる と言ったのだ。
 最初の頃は本当に払ってくれていた。
 結弦自身、まだ仕事も今ほどは貰えなくて、家賃を払うと食べて行くのに困 ったので、出してもらえることは本当に有難かった。
 それがしばらくして、結弦がコンスタントに仕事を貰えるようになった頃か ら、『今月は払っておいてくれないかしら』と言われるようになった。
 一度結弦が『いいよ』と言うと、それからはもう済し崩しになっていった。
「もう、自分で払えるから、お母さんは心配しないで」
「そう?」
 ほっとするように、母親の声がいくぶん明るくなる。
 それで電話を切ってもらえるかと期待する結弦に、母親は何かを言いよどむ。
「どうか……した?」
 用件があるなら早く済ませて欲しい結弦は、先を促すように尋ねてしまう。
用件さえ済めば、この電話を切れるのだとばかりに。
「お前、一度、帰ってこない?」
「え……」
 思いもかけない母親の言葉に、結弦は驚きに身を固くする。
 結弦が家を出てから、一度も母親の口から「帰って来い」と言われたことは ない。
 結弦がどうしても取りに戻りたいものができた時も、渋々認めてくれたよう なもので、用件がすめば早く出て行けどはかりに追い立てられたのだ。
「何かあったの?」
 ようやくそれだけを聞く。
 何もなくて、結弦に帰って来いという母親ではない。
「それは帰ってきたら話すわ」
 できる事なら今聞かせて欲しいと思ったが、結弦は母親に逆らえない。
 ずっと抑えつけられて育ってきて、それは大人になった今でも変わらない。
「いつ……かえればいいの?」
 まさか今すぐとは言わないだろう。
 近所の人の目につく時間にも帰れというわけがない。
 結弦の懸念に、母親は「そうね」と考える素振りを見せる。
「そうねー……、明日の夜は? 食事を済ませてから来なさいよ」
「わかった」
 結弦の返事を聞くと、母親はそそくさと電話を切った。
 ツーツーツーと無機質な音とともに結弦は取り残される。
 通話ボタンを押して、結弦は床に座りこんだ。
 実家に帰るのは、本当に久しぶりになる。
 帰りたくないというのが本音。できる限り近づかないで暮らしたい。
 それが結弦なりのささやかな幸せだったのだ。

 ずるずると座りこんでいると、窓から差し込む日差しが長くなって、結弦の 足元に忍び寄ってくる。
「ご飯の支度、……しなくちゃ」
 そう思うが、身体が動く事を拒否している。
 ぼんやりと差し込む日差しに踊る塵を眺めていると、握り締めていた電話が 鳴り始めた。
 びくりと結弦は身体を震わせる。
 じっと電話を見つめる。
 通話ボタンを押す前に、電話は何度かベルを鳴らし、音を止める。
「……あ」
 切れてしまった電話を床に下ろし、結弦は膝を抱えた。
 気持ちをしっかり持とうと思うのに、『嫌な子ね』と言われた言葉が頭に、心 にいつまでも残る。
 伸びた日差しが夕闇に消える頃、再び電話が鳴る。
 結弦はのろのろと手を伸ばし、電話を持ち上げた。
「はい、水原です」
『結弦?』
「あ……」
 電話の向こうから響いてくる優しい声に、結弦はほっと身体に溜めていた息 を吐き出した。
『少し前にもかけたんだけれど、出なかったけれど、今、忙しい?』
 あの電話は梓弓だったのかと、結弦は出なかったことを後悔する。
「ううん、忙しくない。大丈夫」
 結弦は大切そうに、両手で電話を握り締めて話す。
『今夜は早く終わりそうだから、そっちに行ける。結弦の都合は?』
「待ってる」
 梓弓が来てくれる。そう思うと、心が軽くなっていくのがわかった。
『何か買っていくよ。何がいいかな』
「先生が欲しいもの」
 結弦が答えると、電話の向こうで梓弓が軽く笑う。
『結弦はいつもそう言う。俺は結弦が欲しい物を買っていきたいんだけど』
「いい……。欲しい物、……あまりないから」
 梓弓が来てくれるだけでいい。
 それが結弦の一番望む事。
 会いたい。結弦の中は、その想いだけでいっぱいになっていく。
『なるべく早く行くから』
「気をつけて」
 梓弓のわかったという声に、結弦は待ってるからと答えて、電話は切れた。
 結弦は長く同じ姿勢でいたために軋む身体を宥めて、食事の用意に取り掛か る。
 少しでも梓弓に美味しいものを食べて欲しくて。

 1時間ほどしてやってきた梓弓は、お土産と称して、ケーキの箱を持ってい た。
「ありがとう」
 結弦はケーキの箱を宝物のように両手で受け取った。
「ケーキ屋さんで俺の前にいた客が、ケーキを買い占めそうな勢いで詰めさせ るもんだから、ちょっと焦ったな。2つだけ残してくれよって」
 二人で食事を済ませ、梓弓の持ってきたケーキを開けると、おいしそうな苺 の匂いがふわりと広がる。
 梓弓の話に笑いながら、同じケーキを皿に取り分ける。
「甘いもの、好きなの?」
 結弦が問うと、梓弓は嫌いじゃないと笑った。
「結弦、明日は時間あるかな?」
 落ちついたところで梓弓が話しかけてきて、結弦はどきりと手を止めた。
「明日?」
「もし暇なら、付き合って欲しい所があるんだけど」
「明日は……」
 滅多にない実家からの用件が、梓弓の誘いに重なってしまったことに、結弦 はとても残念に感じた。
 母親の用件を後回しにしてもらえばいいのだと思うのだが、それを彼女にき りだすことは、結弦にはできそうにもない。
「何か予定が入ってる?」
「……ごめん」
 唇を噛んで謝る結弦に、梓弓は優しく「謝る事じゃないよ」と微笑んだ。
「明後日じゃダメかな」
 明日以外ならいつでもいい。そう思った結弦だが、梓弓は僅かに首を傾げる。
「明後日からは少し忙しくなるんだ。……また、来週くらいに話すよ」
「何の話?」
「その時にね」
 梓弓が笑うのに、結弦は少し不安に感じたものの、その笑顔に元気づけられ る。
 母親の用件さえ乗り切れば、梓弓との楽しい話が待っているのだと、そう思 えば、頑張れるような気がした。
「楽しみにしておく」
 結弦がようやく笑顔を浮かべると、梓弓もそれ以上の笑みを返してくれた。

「おやすみ」
 玄関で梓弓が結弦を抱きしめ、低い声で囁く。
「おやすみなさい」
 離れ難い思いで結弦も言葉を返す。
 ポンポンと背中を叩かれ、梓弓の身体が離れて行った。
「いい夢を」
 まるでおまじないのように梓弓の指が結弦の頬に触れ、ゆっくりと離れてい く。
 その温もりを逃さないように、結弦は一人の部屋で、ベッドに潜り込む。
 梓弓の夢を見れますように。
 そう願いながら……。


* * *

 白い刃。
 子供の泣き声。
 黒い影。

 白衣の彼が結弦に背中を向ける。

 白い刃。
 黒い影。
 誰かの叫び声。

 あぁ……、
 これは、夢。

 嫌だ。
 視たくない。
 視たくないのに。

 白い刃が彼に向けられる。

 やめて!
 にげて!

 逃げて! 梓弓!


 * * *

 叫んだところで目が覚めた。





* * *

 白い刃。
 子供の泣き声。
 黒い影。

 白衣の彼が結弦に背中を向ける。

 白い刃。
 黒い影。
 誰かの叫び声。

 あぁ……、
 これは、夢。

 嫌だ。
 視たくない。
 視たくないのに。

 白い刃が彼に向けられる。

 やめて!
 にげて!

 逃げて! 梓弓!


 * * *

 結弦ははっと目を見開いた。
 心臓は早鐘のように打ちつけている。
 何……?
 この夢は……何?
 あの日、梓弓がバスジャックの現場に行く日に見た夢と同じような、何かを 伝える夢?
 まさか……。
 結弦は身体が震え出しそうになるのをなんとか堪えて、ゆっくりと身体を起 こした。
 これは……、自分の力だろうか……。
 自問する。
 答えはYES以外のなにものでもなかった。
 彼が……、梓弓が、またあの時のような危険な場所に行かなくてはならない ような事が起こる?
 自分の中で問いかければ、「そうだ」という答えがする。
 どうしよう。
 まず、結弦は迷った。
 これを梓弓に伝えるべきか、否か。
 バスジャックの時、結弦はそれを伝えられず、けれど、血まみれの梓弓の予 知に耐えられず、何とかして梓弓を引きとめようと出かけた。
 結果的に自分の力を梓弓に知らせ、それでも彼を止められなかった。
 今回はどうすればいいのだろう。
 どうするのが一番いいのだろうか……。
 何度も何度も考えてみるが、結弦には答えが出せなかった。
『黙ってなさい!』
 母親のヒステリックな声が甦る。
 結弦が何かを告げようとすれば、必ず叱られた。
 事実、結弦が視たものは、言わないでいたほうが結果としては、結弦のため にはなった。
 いくら事実であろうと、人の死期や事故の発生を事前に教えたとして、感謝 される事はなく、気味悪がられ、悪魔の子供といじめられるのが常だった。
 そして結弦は友達を作ることもなく、何も見ないように、一人の部屋で本を 読むことだけが、時間を過ごす事のすべてだった。
 けれど……。
 梓弓の身に、何かが起こるなら……。
 知らせないでいることのほうが怖かった。
 何も知らないで、梓弓が出かけてしまって……。
 その結果がもしも……。
 梓弓は自分のこの力を知っているのだから……。
 言い聞かせるように、何度も何度も心の中で繰り返してみても、受話器を握 る手は、おかしいほどに震えていた。
 梓弓の家の番号を押そうとするが、それは何度も失敗した。
 指先は震え、力が入らず、数字を押し間違える。
『はい、常葉木です』
 ようやく繋がった電話は、数度の呼び出し音のあと、梓弓の少し硬質な声が 響いてきた。
「あの、……水原です」
『あぁ、結弦? おはよう』
 結弦の声が聞こえると梓弓の声は少し柔らかくなった。
「あの……、……今日は……」
『あぁ、予定が空いた?』
 梓弓に尋ね返されて、結弦は昨日の彼との会話を思い出した。
 彼は今日、結弦に時間がないかと尋ねていた。それを実家の母親の呼び出し があって断ったのは結弦だった。
「ごめんなさい……、そうじゃ、なくて……」
 ちゃんと話をしなければと思うのに、結弦は思うことの10分の1も話せな いでいた。
『元気がないようだけど、身体の調子でも悪いのかな? ……あ』
 心配そうに尋ねた梓弓の言葉が途中で止まった。
『何か視えた?』
 何気ない口調で尋ねられる。今までと変わらぬ調子に、結弦は泣きたくなる ほどほっとした。
「……警察から要請があったら……、行くの?」
 その答えは聞かなくてもわかっているはずなのに、結弦は尋ねずにはいられ なかった。
 できることなら、行かないで欲しい。
『要請があればね。……けれど、ないかもしれない』
 電話の向こうの優しい声に、結弦は見えもしないのに、首を激しく横に振る。
「……視たんだ。視えちゃったんだ……」
 結弦は苦しげに呟く。
「子供の泣き声がして、刃物が見えた。何を言ってるのかわからなかったけれ ど、叫び声もした。刃物が……、先生に……」
 ぼんやりと、断片的にしか見えなかった夢を上手く説明できるはずもなく、 結弦自身しどろもどろで、きっと梓弓にも何を言っているのかわからないだろ うと思われた。
 けれど、口をついて出るのは、自分の視てしまったものと、それに対する不 安ばかりで、却って梓弓に迷惑をかけているのではないだろうかと、言ってし まってから心配になる。
『落ちついて。何も心配ないから』
「でもっ!」
 電話を通して聞こえる梓弓の声は、いつにも増して優しく響いてきた。
『何かがあるのだろう。多分、近いうちに、もしかしたら今日かもしれないけ れど、警察から救助の要請が入るかもしれない』
「……ある」
『うん。そうだね。だから、俺はそのつもりで今日、出かける。結弦に心配を かけるような危険な事は絶対しない』
「でも……」
 そんなこと、わからない。そんなこと、断言できるはずがない。
『この前、きちんと説明しなかったのは悪かったけれど、俺の仕事は、決して 犯人を捕まえる事じゃないんだ。現場に怪我人がいれば、その人の手当てをす るだけ。つまり、毎日病院でしていることと、少しも変わりはないんだ』
 梓弓の話は嘘ではなかった。ただ、その中にもう一つの依頼事実を省いただ けで。
『無理はしない。必ず、無傷で戻る。結弦に約束するよ』
「そんなこと……」
 わかったと言いたい。言わなければならない。たとえどれだけ言葉を尽くし ても、彼は出かけて行くだろう。
 それを引き止める権利は結弦にはない。
 わかっているのに、うんと言えない自分に、結弦は唇を噛み締めた。
『子供の泣き声と、刃物。叫び声。それ以外に何か見た?』
「え?」
 問われた意味がわからず、結弦は言葉に詰まった。
『他に何か見えたかな?』
 次にごく自然に尋ねられた事実に、結弦は呆然とした。
「しん……じる……の?」
 自分の言った事を。
 こんなあやふやな話を信じるのか?
 自分で告げておきながら、結弦は戸惑う。
『信じるよ。この前も、それで助かったんだから、俺は』
 その時、結弦は泣いていた。
 何が悲しかったのでも、何が嬉しかったのでも、何の感情でなかった。
 ただ、胸がいっぱいになった。
 どう表現していいのかわからない、強いて言えば、初めて自分の存在を許し て貰えたような、強烈な歓びだったのかもしれない。
「ありがとう……」
 涙を飲みこみ、ようやくそれだけを言った。
『出勤の前に少しそっちに寄ってもいいかな?』
 梓弓の申し出に結弦は、予知を視た日は誰にも会いたくないと思いながらも、 うんと頷いていた。
『じゃあ、あとで』
 梓弓の声で通話が切れる。
 受話器を戻しながら、結弦は床に座りこんだ。
 どうぞ……、無事で。
 何事も起こりませんように……。
 ひたすらにそれを願った。





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