「……秋良」
そっと触れても、小さな反応さえなかった。叫び出しそうになるのを、洋也は懸命に堪えた。
一番冷静だったのは、的場だった。
震える手で洋也が秋良の頬に触れているのを半ば押しのけるようにして、白衣のポケットから聴診器を取り出した。
シャツのボタンを開け、胸の音を聞く。
「安藤君! 安藤君!」
軽く頬を叩いてみるが、秋良は目を開けなかった。
瞼をこじ開け、小さなペンライトを翳す。
「的場……」
洋也の震える呼びかけに、首を振り、的場はドアへと振り返った。
「何をした」
ドアの傍にいて、その光景を見ていた薫は、一歩、足を踏み出す。
「何も。何もしていません」
「もう一度聞く、安藤君に何をしたんだ?」
薫はベッドまで数歩を残し、立ち止まった。
「私は治療をしただけですよ。この人に必要だったから」
シュッと空気を切り裂く音がした。薫の目の端を何かが横切ったと思った時には、頬に熱い衝撃を受けていた。
立っていられず、薫は床に倒れこんだ。
その衿首を掴んで引き戻される。
「秋良を戻せ。秋良を元に戻せ!」
薫は暗い瞳で、自分を睨みつける彼を見ていた。
自分の襟首を掴み、拳を振り上げて睨みつけている人。
この人の、どこが機械なのだ。どこが冷たいコンピューターなのだ。
こんなに冷静さを失い、燃えるような瞳で、憎しみのこもった目で、自分を見ている。
この人の、どこが……。
「元に戻す方法は、あなたが知っているのでしょう?」
「なんだと!」
拳が握り締められる。薫は殴られるのを覚悟して目を閉じた。
だが、それは来なかった。
彼に似た人が、彼の腕を掴んで、止めていた。
「勝也、離せ!」
「まだ駄目だよ。アキちゃんがどうすれば目が覚めるのか、こいつに聞くまでは」
少年も憎しみの強い目で薫を見ていた。
「秋良に何をした!」
喉を締め上げられる。
「催眠をかけただけです。2年前に意識を戻した。そうしたら、あんな風にね。起こそうと思ったのだけれど、僕の声はもう聞こえないようです。だから、どうすれば目が覚めるのか、催眠が解けるのか、私には……わからない」
憎しみで人を殺せるのなら、自分はもう死んでいるだろうというほどに、薫は二つの強い視線に射すくめられた。
「教えて下さい。どうすれば、治せるのか。あなたはご存知のはずです。もう一度、あの時のようにすればいいんですよ」
突き放され、身体が床に叩き付けられた。殴られると衝撃を覚悟したが、それは来なかった。
「殴る価値もないってさ」
床に倒れた薫を勝也が見下ろしていた。憎しみと憐れみの混じった視線から薫は顔をそむける。
洋也は既に秋良の身体を抱き上げていた。
勝也が薫の足を押さえるように踏んだ。
「洋也、すぐに病院の救急車が来るから」
的場が診察所のドアを開けて呼んでいた。
まるでそこにはもう薫がいないかのように、洋也は素通りして行く。
階段を降りる足音が遠ざかり、聞こえなくなる。同時に遠くから救急車の音が聞こえてくる。
「君は……、いかないのか」
多分、この少年は彼の弟なのだろう。こんなに彼に似ている。自分に向けられる、憎しみの視線さえ。
「的場先生に頼まれちゃったんだよ。病院からの迎えが来るまで、あんたが逃げないよう、自殺しないよう、見張っててくれって。でも、俺、あんたが逃げるなら捕まえるけど、自殺するなら止めないよ?」
さらりと恐ろしいことを言い、少年は踏んでいた足を退ける。
「あんたを見張るなんて、保護するみたいで嫌なんだよな。逃げてくれれば、あんたを犯罪者として訴えられるのにさ」
「逃げなくても犯罪者だよ。それは覚悟できている」
薫は弱々しく笑い、壁に擦り寄るように上体を起こすしかできなかった。
「ふざけんなよ!」
救急車が下で停まる。ドアの閉じられる音が響き、また発進する。そして遠ざかる。
「あの人がどんな病気だったのか、どうして治癒したのか、知りたかったんだ」
「それで? そんな理由で秋良さんの心を消したのか? たったそれだけの理由で?」
「心を……消す?」
階段をかけあがってくる音が聞こえてくる。数人の足音が近づいてきている。病院のスタッフだろうか。
「俺、人を殺したいと思ったのははじめてだよ」
勝也は目に涙を溜めて薫を睨んでいた。
「兄貴はあんたが殴るのにも、殺すにも値しないと思ったみたいだけど、俺は……殺してやりたいほど、あんたが憎い」
ドアが開き、かけこんでくる足音。
「どうして、……あの人なんだろう」
薫はぽつりと呟いた。
何が彼を引き付けたのだろう。
ごく平凡な人なのに。困っていると言えば他人の車にも簡単に乗りこむようなお人よしで、彼につりあうようには思えない。
誰も……、彼につりあう人なんていないと思っていた。
彼は……そう、まるで階級が違う人のようだった。誰も彼の心に触れられないと思っていたのに……。
「それがわからないから駄目なんだよ」
冷ややかに見下ろす勝也を薫は見上げた。言われた意味がわからずに、意識に空白ができる。
自分にはわからなかった。
彼の本当の熱さ。あの人の本当の良さ。
なにもわからなかった。
それが答えなのかと。
「そう……か…。君、伝えてくれないかな」
勝也は病院のスタッフに腕を捕まれ、連れて行かれる薫を蔑むように見ていた。
「あの人は催眠術なんかで眠っちゃいないんだ。ただの麻酔だよ。あと一時間ほどで目が覚める……」
勝也が驚くのを見て、そんなに驚くのなら、彼に言った方が面白いものが見られたかもと、薫は顔を引きつらせて笑った。
結局、自分は何をしたのだろう。
彼は……、彼は……。
自分の想いはどこで間違えたのだろう……。
弱々しく、渇いた笑いを漏らす薫を、スタッフ達は病院の車に押しこんだ。
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