病院へ一緒に来て下さいと頼めば、あの人は断りませんでした。
 病院へは向かわずに、車を近くの友人が開業している医院につけました。
 あの人はもちろん不安そうな顔をしました。
 機械類が心配だから携帯の電源を切って下さいと頼むと、あの人は疑うこともなく電源を切ってくれました。あまりにうまく行くので僕のほうが心配になったほどです。
 検査のために注射をしますと言うと、さすがに心配そうにしましたけど、それでも腕を出してきました。
 本当に……信じられないほど素直な人ですよね。
 麻酔が効くまでに少し話しをしたんですが、あの人は何も覚えていないし、思い出さなくていいと言われたと説明してくれました。
 後学のために役立てたいのだとお願いすると、あの人は少し迷って、説得してみると言いました。
 これから勉強する人達の役に立てるならと。
 僕は……、僕はどうすればいいのかわからなくなった。
 自分が本当は何を望んだのかも。
 麻酔で眠るあの人を見ていると、憎くて憎くて……。
 だから自分が何かをする前に、彼に返そうと思いました。
 あの人の首に指をかけそうな自分が……怖かったんです。
 結局、誰のためでもない。僕は自分のエゴのために、医師免許に泥を塗るような真似をしてしまいました。
 もう……、人をカウンセリングする資格などありません。
 
 
 薫は淡々と、事情を尋ねた的場に話をした。
 的場は黙ってそれを聞き、薫の処分を保留とした。
 精神内科の部長である笠原は出張中だし、院長は激怒したまま、どうとでもしろと突き放した。薫が辞表を出してくれるのを待っているのだろう。
 首にするには、事件を公にしなければならず、大学側はそれを渋り、洋也も公にすることは望まなかった。
 何より、拉致されて麻酔で眠らされた患者自身が、何もなかったと言って薫の処分すら望まなかった。
 救急車で病院に着き、これから検査をしようとなった時、勝也から連絡が入った。秋良は麻酔で眠らされているだけで、一時間ほどで目が覚めるだろうと。
 実際、秋良はそれから一時間もたたずに目を開けた。
 しばらく麻酔に酔っているようにぼんやりとしていたが、大きな体調の変化もなく、念のため一晩の入院を勧めたが、本人は帰りたいと主張し、血液検査でも問題が出なかったので、洋也と共に帰宅した。
 そして洋也は……。処分は総て笠原に任せると言ったきり、何も言って来ない。
 だから的場は薫を処分もできず、笠原を緊急で帰宅するように頼み、帰りを待った。
 
 
「君は……、患者に対して、まず何をするように習った? 私は、それを何度も説明したはずだけれど」
 病院の一室で笠原は薫に尋ねた。突然呼び戻され、取る物もとりあえず病院に戻ってきた笠原は、一部始終を的場から聞いて、暗い溜め息をついた。
 洋也を呼び出し、幾重にも侘びて、今は一緒に薫の話を聞いてもらっていた。
 洋也はここに来てからずっと、厳しい表情をして、一言も口を開いていない。
「……信頼関係から始めなくてはならないと」
 薫の返答に笠原は重々しく頷いた。
「安藤さんが何故回復したのか、君にはわからないか?」
「……わかりません」
「安藤さんは君が疑ったように、ほぼ精神意識を持たない状態だった。そんな患者に、君ならどんな治療をする?」
「……それは……」
「その状態で信頼関係をどのようにして築く?」
 畳むように聞かれ、薫は首を振った。相手がこちらの話を聞いてくれて、はじめて信頼関係が築けるのではないのだろうか。
「私も無理だと思った。気が遠くなるほどの時間をかければ、そのうち意識が外を向くかもしれないと、それだけがあの時の私の治療方針だった」
 笠原は噛んで含めるように話した。小さな沈黙が落ちる。
「けれどね、安藤さんには誰にも勝る信頼関係を築いている人がいた。君は看護婦達にも聞いただろう? だが、誰も君の問いには答えてくれなかった。何故だかわかるか? 私は誰にも口止めはしていない」
 薫は首を左右に振る。
「彼女達は知っているんだよ。自分たちの誰も、三池君のようには世話はできないと。強い信頼関係で結ばれ、看護婦達でさえできないほど献身的にケアをする人が、24時間ずっと傍にいる。君はこれを誰にでもできることだと、学会のレポートにまとめることができるか? 同じ患者がいたとして、このようにしろと強制するのか? 君のジレンマの一つに、患者の家族の理解が得られないという項目があったと思うが」
 笠原の言葉を聞きながら、薫は息苦しい重みを胸の中に落とした。
「安藤さんの事はこのままそっとしておいて欲しいと、私は重ねて君に頼んだのは、そのためでもある」
「僕は……」
 言いかけて薫は口を閉じた。どんな説明も独り善がりにしかならないと気が着いて。
 静かに時間が過ぎる。
「ドイツに行きなさい。君の処分は誰も望まなかった。だが、ここにいるのは君も辛いだろう。ドイツでもう一度、勉強してきて欲しい」
「…………それだけでいいんですか?」
 薫は尋ねたが、笠原は疲れた様に口を閉じたままで、洋也は黙って部屋を出た。
 それだけで……。だが、薫にとって、それは戻れない道である事にかわりなかった。
 
 
 
「先生は……悪くないのに」
 秋良が呟いたけれど、洋也は何も言わなかった。
「僕に聞いたよ。三池さんは……どんな風に笑うんですかって。……その時はもう、なんだか眠くて、眠くて、答えられなかったんだけど……」
 洋也は不機嫌な表情のまま、秋良から視線を逸らした。
「あの人……、洋也が好きだったんだね」
 秋良の悲しい言葉に、洋也はそっと秋良を抱き寄せた。
「僕も……、僕も洋也が好きだよ」
 洋也は秋良を抱きしめ囁いた。
 ありったけの想いを込めて。ただ、自分の想いのすべてを。
 
 




 好きな人がいました。

 『彼』は僕にとっては遠い人。

 『彼』の笑顔も見たことはなかった。

 けれど『彼』が愛した人は言いました。

 『優しい笑顔だよ』と……。

 

 好きな人がいました。

 けれど『彼』は遠い人。

 遠い人……。

 
 

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