夕食の準備をしていると、携帯が震えた。テーブルの上に置いた携帯は、普段からマナーモードになっているので、ブーンと揺れて、着信を洋也に教える。
 画面には鳥羽の名前が表示されていて、洋也は眉を寄せた。
 朝、出かける前、秋良が今日は鳥羽と会うから少し遅くなるかもと言っていたが、それなら秋良から電話がかかってくるだろう。
 もしかして、秋良の気分が悪くなったりしたのだろうかと、心配になる。
『洋也さん、県立病院の若い医者、知ってるかな』
 挨拶もなく、いきなり鳥羽ががなりたてた。
「県立病院の若い医者?」
 洋也は目を細めた。今、思い当たるとしたら、一人しかいない。
「もしかして、真崎ですか?」
『あ、なんだ、知ってるんなら、いいや。念の為聞いておこうと思ったんだけど。秋良、その医者と一緒に病院に行きましたから』
「なんだって!」
 洋也が知っていることで安心した鳥羽に反して、洋也は驚いて大声を上げた。
『え……もしかして、まずかったのか?』
「病院に行くと言ってましたか?」
『ああ、病院に行って、血液検査するからって。あと、胃カメラの予約がどうのこうのいってたかな。秋良もそれならとついて行っちまったんだけど』
「……どれくらい前のことですか?」
『あぁ、そりゃ、ついさっきだよ。何分も経ってない』
「わかりました」
 洋也はそれだけを言うと携帯を切った。家の電話を取り、県立病院へと繋ぐ。
「的場先生を呼んで下さい。三池です」
 保留のメロディーを聞きながら、洋也は料理の火を止め、車のキーを握り締めた。
 的場に繋がるのを待っている間に、洋也は秋良の携帯に、自分の携帯から電話をかけてみた。だが、秋良の携帯の電源は切られているらしかった。
 秋良の携帯が切られている事実が洋也の焦りを深くする。
 胸の焼けるような焦燥の数分が過ぎ、的場が電話に出た。
『どうした? 何かあったのか?』
「秋良が真崎に連れて行かれたようです。本人は病院に行くと言ったらしいです。今からすぐにそちらに行きますから、一応病院内を探して下さい」
「わかった」
 詳しく話す必要はなかった。
 的場は洋也の言葉でおおよそを察し、すぐに外科病棟を飛び出した。
 洋也は車を病院に向けながら、無事でいてくれと祈った。
 うまくいけば、病院に入る前に秋良達を捕まえられるだろう。真崎が言葉通りに、病院へと向かっているのなら。
 病院に向かっていないとすれば、どこかで秋良が気がついて、逃げようとしているかもしれない。それなら携帯に連絡が入るだろう。それよりも家に直接帰るかも。
 そう気がついて、信号待ちの時に洋也は一本電話を入れた。
「今どこにいる?」
 相手の居場所を聞いて、洋也は家に行ってくれるように頼んだ。秋良が帰れば、必ず守れと付け加えて。
 どうかしたのかと聞きたがる相手を無視して電話を切り、洋也はアクセルを踏み込んだ。
 ほどなくして、病院が見えてくる。駐車場に車を突っ込んで玄関に駆け寄ると、タクシーから鳥羽が転び出てきた。
「すまなかった。どんなことしても、秋良を止めれば良かったんだ」
「まだ、どうなったかもわからないから」
 洋也は後悔の色の濃い鳥羽を連れて、心療内科病棟へと走った。
「洋也!」
 診察室の前で的場が待っていた。
「駄目だ。真崎はここに来ていない。今、車を調べに行かせてる」
 タクシーで後から来た鳥羽がついているのだから、真崎がまだということはないだろう。
「どこへ……」
「真崎先生の自宅の連絡先は?」
 的場が室内の看護婦に訊くと、今かけているんですがと答えが返ってきた。つまり、連絡はとれないということだ。
「携帯の方は?」
「そちらは電源を切ってあるみたいで」
 他に探すなら……。洋也は焦る気持ちを必死の自制で抑えこみ、携帯をとりだした。
「止せ、お前のは使うな。安藤君から電話が入るかもしれない」
 的場は洋也の手を抑え、自分の携帯を差し出した。本来なら病院内の携帯の通話はご法度であるが、それを今咎める人はいない。
「三池です。ご無沙汰しています。ちょっと調べてほしいことがあるんです」
 相手の返事を待って、洋也は秋良の携帯会社と、電話番号を伝える。的場にも聞いて、真崎の携帯の情報も伝える。
「電源は切られているかも知れません。ですが、なんとか居場所をつきとめたいのです」
 電源が切られていると難しいかもしれないことは念を押されたが、それでもと洋也は頼みこんだ。
「誰に頼んだんだ?」
「……ちょっとね」
 洋也は言葉を濁し、唇を歪めるだけの笑いを残した。
 看護婦が手分けをして、真崎の自宅と携帯にかけ続けてくれるが、相手の応答は以前としてなかった。
 こうして立っているだけの一分、一秒が惜しくてならない。
「真崎の家に誰か行かせては? もしかしたら、電話に出ないだけかも」
 それを聞いて洋也は頷き、また一本の電話を入れた。
 調査事務所の島崎は、腕の立つものを選んで現場に向かわせると約束してくれた。
 それを済ませると、また何もすることがなくなってしまう。どこかから連絡が入るのを待つばかりだ。
 気持ちばかりが焦ってどうすることもできなかった。的場は病院のスタッフ数人を連れて、病院内を探すからと行ってしまった。
 鳥羽には自宅へと向かってもらった。家で留守番を頼んだ勝也と入れ替わってもらうためだ。
 やがて一時間が過ぎようとしていた。
 これ以上は我慢できない。けれど、どうすることもできない。
 そう思った時、洋也の携帯が震えた。
 画面の表示には秋良の名前。
「秋良!」
 叫ぶ洋也に視線が集まった。
『すみません、安藤さんではなくて』
 聞こえてくる声は、カウンセラーとしては充分な落ち着いた声だった。
「お前……!」
『安藤さんなら、すぐ傍にいますよ』
「無事なんだろうな」
『ええ、何も問題はありません』
「代われ」
『それはできません。今は眠っておられるので。迎えに来られますか?』
 目の前に相手がいたなら、殴っていただろう。胸が熱く焼けるほど腹が立った。だが、どうすることもできない。
「どこだ。どこにいる」
 熱くなった方が負けだ。わかっていても、秋良の姿を確認しなければ、冷静になれそうもなかった。
 相手は病院からそう離れてはいない、秋良が連れ去られた場所からすぐのビルの名前を告げた。
『お待ちしています』
 丁寧な言葉使いに、乱暴に通話を切る。
「洋也、見つかったのか」
「一緒に来てください」
 戻ってきた的場を引っ張るように病院を飛び出した。
「ヒロちゃん!」
 病院についたばかりの勝也が、驚いて駆け寄ってくる。
 的場と勝也を車に乗せ、洋也はアクセルを踏み込んだ。
 タイヤの滑る音と、ゴムの焦げる匂い。
 悲鳴を上げて車は駐車場を飛び出した。
 
 こんなに近い場所に……。
 洋也たちは車をビルの前に停めた。相手の指定したビルの3階には、個人が開いているらしい、カウンセリングセンターの看板が出ていた。
 エスカレーターは最上階で止まっており、待つのももどかしく、三階までかけあがった。
 来訪も告げずに、洋也はドアを乱暴に開けた。
 室内は明るかったが、人影はなかった。
 奥に続くらしいドアが、向こうから開けられる。
「秋良!」
 洋也は叫び、その部屋に飛びこんだ。
 照明は壁際のオレンジ色のライト一つきりだった。薄暗く、空気も重く感じられる。
 部屋の奥に診察用の小さなベッドが置かれている。
 そしてそこに人が寝かされている。
 洋也は息を詰め、恐る恐る近づいて行く。
「…………秋良?」
 秋良はただ寝ているだけのように思われた。
 静かに、すやすやと寝ている。
「秋良、秋良!」
 だが、何度呼びかけても、瞼さえ動かさない。
「……秋良」
「アキちゃん……」
 勝也も部屋の入り口で立ち竦んだまま、動けないでいた。
 恐いのだ。
 洋也も勝也も恐かった。
 まるであの日のように、秋良が目を覚まさない。 
 身体中の血が凍るような想いで、洋也は秋良の頬に手を伸ばした。
 
 

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