土曜日までに。
薫は土曜日までに、できる限りの情報を集めようとした。
安藤秋良の入院中に、彼に何らかの形で関わった看護婦に尋ね回ったが、薫の望む回答は得られなかった。彼女たちは総じて、『覚えていない』もしくは、『カルテの通り』としか答えてくれない。
業を煮やした薫は、彼が入院するきっかけになった交通事故で、最初に診察をした外科医の西田を訪ねた。
「あぁ……、この人なぁ……」
西田は秋良のカルテを見て眉を寄せた。
「俺が見たのは、事故の日だけだからなぁ」
「ですが、何かあったから心療内科に回されたのでしょう?」
「う……ん。君は確か、笠原教授のところにいるんだね?」
「はい」
「なら、教授に聞くんだな。俺はこの人のことに関しては、何も言えない。外科の治療は1日で済んだ。それ以外のことが知りたいなら、聞く相手を間違っている」
「わかりました。……ありがとうございました」
手がかりの一つも得られず、薫は力なく立ちあがった。カルテを閉じ、頭を下げる。
「あ、君」
退室しようとした薫を、西田が呼び止めた。
「はい。……何でしょう?」
薫が振り返ると、厳しい目をした西田が立って薫を見つめていた。
「それを調べてどうするつもりだ?」
「とても貴重な研究サンプルになると思ったのですが」
「それだけか?」
それだけ……。それだけのことが、とても重要なのだと思う。
人の心はどんな細菌より、どんなウイルスより複雑で、彼のように全快するというのは本当に稀な存在なのだ。再発どころか、回復の見込みさえたたずに苦しむ人がどれだけ多く存在するか。
言わば、彼は希望の光なのだ。
何故、その治療経過を知ってはいけないのだ。
「とても重要なことのように思いますが」
「それだけならやめておけ」
「何故ですか」
どうしてみんな隠すのだろう。
どうしてみんな、彼を守るのだろう。
どうして、『彼』は……。
「治療が済めば、我々医者の出る幕じゃないということだ」
むきになって訊く薫に、西田は諭すように告げた。
「それはっ! それは、外科の治療ならそうでしょう。けれど、僕たちは!」
「治療が済んだ患者を弄くって、また患者を作るつもりか?」
「そんなつもりじゃありません。僕は、これからの治療のために!」
薫は必死になって食い下がった。どうしても、彼のデータが欲しかった。
「それは医者の都合でしかない」
医者の都合……。果たしてそうだろうか。治験データが揃えば、それは未来の患者の大切な礎になるはずだ。
「……わかりました」
これ以上は何を言っても無駄だ。薫はそう判断して、納得したふりをして西田の元を去った。
薫が出ていってから、西田は院内回線で電話をかけた。
「西田です。的場先生、いるかな? ちょっと呼び出してくれる?」
応対に出た看護婦に頼んで電話を回してもらった。
結局、新しい事実は何も掴めぬまま、土曜日を迎えてしまった。
朝から落ちつけなかったが、それでもなんとか三人のカウンセリングを終わらせた。
そして、いよいよ秋良の順番が回ってきた。
看護婦の古田が、患者を呼ぶ前に物言いたそうな目で薫を見たが、それには気づかないふりをした。
「安藤さん、どうぞ」
古田に案内されて入ってきたのは、秋良の両親と思われる夫婦と、そして『彼』だった。
古田は彼らを案内すると、奥に入ってしまう。
秋良の両親は、薫が予想とは大きく違っていた。
病院内のことに口を出せるような、政財界の大物を想像していたのだが、二人は田舎から出てきたんだというような、言い方は悪いが平凡な中年の夫婦に見えた。
母親の方は、診察室に通された最初の時から、不安そうに薫を見ていた。
二人を椅子に座らせ、洋也が後ろに立った。
「秋良のことで何か問題がありましたでしょうか」
口火を切ったのは、父親の方だった。
「問題ということではないのです」
薫は安心させるように微笑み、そしてちらりと洋也を見た。
「あの……、できればご両親とお話をしたいのですが。ご家族ではない方は、席を外していただきたいと」
薫の申し出に、両親、特に母親の方が驚いた。
「どうしてでしょう。洋也さんにも話を聞いてもらわなくては、私たちだけでは不安で」
母親の言葉に父親が頷く。
薫が洋也を見ると、彼はまったく表情を動かさずに、視線を床に落としている。
「それに、秋良のことでしたら、私達より、今は洋也さんのほうが詳しいですし。…………何か、あったのでしょうか。私達が見た限りでは、何もないように思いますが」
母親は膝の上でハンカチをぎゅっと握り締めていた。
「今の安藤さんの事ではないのです」
薫は意を決して、カルテを開き、両親に話しかけた。
「以前、入院されていましたね。その時のことでお聞きしたいことがあるのです。ご本人は入院中のことは良く覚えていないと仰っていたのですが、ご家族から見て、どのような状態でしたか?」
薫の言葉に、母親は驚き洋也を振り返って見た。父親は苦い顔をして薫を見た。
「どうしてそんなことを聞くんですか、先生は」
父親に問われ、薫はゆっくり説明をした。
秋良の症状は非常に稀であること。その経過や治療方法が詳しくわかれば、これからの医療に非常に役立つこと。だから話を聞かせて欲しいと言葉を尽くして説明した。
両親はしばらく黙り、顔を見合わせた。
「秋良は治っているんでしょう、今は」
漸くというように、父親が口を開く。
「はい。治ったというのが、妥当な表現であると思います」
それを聞いて父親は洋也に向き直った。
「治ったのならどうして秋良は今も、ここの診察を受けているんですか?」
父親が洋也にたずねるという事実に、薫は戸惑いながらも、洋也の答えを待った。
「僕も治ったと思っていますが、何事も真面目過ぎるくらいに取り組む秋良の、ストレスの軽減のためと、秋良自身の不安解消のためです」
本来の診察目的は、洋也の言う通りだった。
「それなら、先生はどうして、昔のことを掘り返すんですか」
「ですから、今申し上げた通りです。これからの医療のために」
「お断わりします」
薫が再度説明しようとするのに、母親のほうが急ぐように口を挟んだ。
「そんな、まるで秋良をモルモットみたいにするなんて」
「そうではありません、お母さん」
薫は誤解を解こうと更に説明を加えた。
秋良自身に対して、ひどいことは決してしない。本人が負担と感じるようなことも。
「でも……」
母親は心配でたまらないというように、洋也を見た。父親はむっつりと押し黙っている。
どうしてこの二人は、息子の診察の決定権を洋也に委ねるような態度をとるのだろう。薫にはそれが不思議でならなかった。
いや、薫にはその不思議さと共に、忍びこむ不安があった。
「僕も反対です。秋良は完治した。それ以上の事実は必要ありません」
洋也の言葉に、秋良の両親はあきらかにほっとしていた。父親に至っては、既に帰ろうとするかのように、腰を浮かしかけている。
「待ってください。安藤さんが治癒されたことは、今も治療中の患者にとって、どれほどの希望になるか、考えてみてください」
「関係ありません」
一言で切り捨てられたような気がした。
洋也が答えると、母親も安心したのか、申し訳なさそうにしながらも、断わりの言葉を述べる。
「私達にとって、息子はいつまでも息子です。人様の前でこんな病気になった、こんな治療をした、だから治ったと報告されるのは辛いです。特にあの子は、そういうのをとても気にする子ですから」
「もちろん、安藤さんの名前や個人データが出るようなことはいたしません。秘密はどんなことがあっても守ります」
薫が尚も言い募ると、父親は不快さを隠さずに立ちあがった。
「秋良は治った。それを今更蒸し返されたら、あいつはまた気に病む。そんなことはさせたくない。医者は患者の気持ちを優先させてくれるんではないのですか」
「それは……そうですが。ですから、安藤さんやご家族の許可を得てですね」
「ですから、それは断わります。あいつにも、そんなことは聞かせんでやってください」
父親が診察室を出て行くのに、母親がそのあとを追う。申し訳ありませんと小さく呟き、深々と頭を下げて部屋を出た。
「本人には、再診の必要はなかったと伝えておきます」
両親を部屋から出して、洋也は薫に告げた。感情のこもらない、事務的な声に薫は胸を引っ掻かれたような気持ちになった。
「カルテが改竄されているのはあきらかですよ。そんなことが公になったら、笠原教授が困るでしょう。僕はどうしても、今困っている多くの患者たちを救いたいんだ」
「誰が困ろうと関係ない。貴方が治したいと思う人がいるように、僕には守りたい人がいる。カルテが改竄されていると訴えるのなら訴えればいい。笠原教授がどうなろうと、僕には関係ない」
薫は息を飲んで、洋也を見つめた。
あれだけ笠原に可愛がられながら、どうなっても関係ないと言いきる彼の気持ちがわからなかった。
「本気なんですか……?」
「もちろん」
平然と答える彼が信じられなかった。
「僕がそうできないとでも思っているんですか?」
「西田先生にまで事情を聞きに行くくらい本気なのでしょう。したいようにすればいい。ですが僕も看過するつもりはありませんので、そのつもりで」
洋也は刺すような視線で薫を見据えてから、部屋を出ていった。
一人取り残された薫は、呆然と立ち尽くす。
頭の中には、洋也の言葉だけが渦巻いていた。手が震え、足が震え、身体中の力が抜けていくようだった。
西田を訪ねたこともばれていた。
笠原の心配すらしない。
そして、思い出す。彼が学生時代に影でなんと呼ばれていたのかを。
少しでもその微笑みが柔らかくなったと感じたのは、思い過ごしだったのだろうか。
力なく椅子に座ると、古田が戻ってきた。気の毒そうに薫を見たが、慰めの言葉はなかった。
「次の患者さんをお呼びしていいですか?」
こんな状態で次の患者など診れるわけがない。けれど、できないと言えるわけもなかった。
「どうぞ」
吐き出すように答え、きつく目を閉じた。平常心と言えないまでも、心を無理にも切りかえる。
患者が入ってきた時には、優しいカウンセラーの仮面を取り繕うことができた。
その日の夜、薫は笠原の出張先に国際電話をかけた。声が震えそうになるのを懸命に抑える。
最初から直接笠原に聞けば良かったのだ。そうすれば、こんなにつらいことばかりが押し寄せはしなかった。
『どうしたね?』
電話の向こうから聞こえる教授の声は、優しい響きをしていた。まるで自分がカウンセリングを受ける患者のような気分になった。
「安藤秋良さんのことでお聞きしたいのです」
直接聞くと決めたからには、遠まわしに訪ねたりはしない。それで誤魔化されたと感じるくらいなら、最初から嘘をついて欲しいと思った。
『どんなことを聞きたいんだね? そろそろ定期検診の頃じゃないかな?』
「そうです。それでカルテをみたのですが、おかしいと思ったのです。先生、カルテを書き換えられたのではないですか?」
電話の向こうで笠原は黙り込んだ。
「投薬された薬もおかしいです。ただの記憶喪失とも思えません。誰に聞いても、憶えていないと言うだけで話になりません。先生ならお分かりかと思います」
『安藤君の何を知りたいんだね?』
薫の話を肯定するでもなく、否定するでもなく、笠原は薫に話を続けさせた。それで薫は自分の考えが間違っていなかったのだと、確信した。
「本当の病名と、その治療方法です」
『それを知ってどうするつもりだね?』
「貴重な研究データとなると思います。彼のような治癒患者を無視していいわけがない」
『無駄だね。やめなさい。どんな世界にも奇跡という言葉があるように、彼はその奇跡に助けられたのだ。治療が功を奏したのではない』
それはまるで笠原らしくない言い方であった。
理論派である笠原が、軽々しく奇跡という言葉を使うなどと。
「それがカルテを改竄された理由ですか?」
『そうだと思ってくれてかまわない』
正直、薫は笠原のこの言葉に失望を感じていた。
頬を熱くしてこれからの精神医学を語り、自分を導いてくれた人とは思えなかった。
『真崎君、人の心はまだまだわからないことばかりだ。無闇に引っ掻き傷を作っていいものではない。安藤君のことは、このままそっとしておいて欲しい。君なら彼のその状態をわかってくれると信じたから任せたんだよ』
最早、笠原のどんな言葉も、薫の心には響かなかった。
みんな間違っている。
そうとしか思えなかった。
だが、誰も薫の味方にはなってくれないだろう。
それほど秋良の周りは強固に固められていた。
なら……。
それなら、もう一度、彼が同じようになれば?
心を立て直すより、突き崩す方が簡単なんだ。
薫が心の病を学ぶようになってから感じた不条理である。
心を治すより、壊す方が簡単。
特に、彼のように脆い人は……。
駄目だ。そんなこと……。
けれど薫の心にブレーキをかけてくれるべき人物は、誰一人として存在しなかった。
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