安藤秋良という患者の診察は、予定の時間をかなりオーバーして終わった。
 予約患者の最終診察になっていたので、時間を超過しても困ることはなかったが、それなりに成果があったかといえば、答えはノーである。
 むしろ、アフターケアの診察目的としては失敗だろう。
 最初はごくありきたりの問診をして、何か心配なことがないか尋ねるくらいだった。
 はじめての患者との診察であれば、この程度で留めるべきであっただろう。薫も、患者側にも、面識がほとんどなく、精神サポートのしやすい関係ではなかったのだから。
 それがわかっていながら、薫は訊いてしまった。
「入院中、覚えている事は?」と……。
 薫が質問すると、秋良は不思議そうに見つめてきた。
「あの……、どうして入院中のことを?」
 不安に揺れる瞳が薫に向けられていた。
「薬について、ちょっと気になったことがありますので」
 なるべく優しく話しかけた。
「薬……ですか? その……、僕が知っているのは、栄養剤を点滴しててもらったことくらいしかわからないんですけれど」
 カルテに見られるのは、確かに高カロリーの栄養補給が目的の点滴も書かれている。しかし、その点滴は本来、物を食べられない患者に打たれるものである。
 逆行性健忘症でそのような処置が必要とは思えない。
 しかも、ある時点から、その栄養点滴は、確かに補助的なものに切り替わっている。
 それはまるで、ずっと昏睡状態だった人が、ある日を境に完全治癒したような。
「24時間点滴は辛かったでしょう? 胸から管を入れられるのですし」
「あの、……でも、それは、僕が気がついた時に、すぐに外してもらえましたから」
「気がついたとき、ですか?」
 記憶が戻ったときと言わない秋良に、薫は不審を覚えた。
「はい。ずっと眠っていた間は点滴をして頂いていたみたいです。あの、……カルテに書いてありますよね?」
 書いてない……。
 薫は緊張しながらカルテを見た。
 ずっと眠っていた……?
 記憶喪失じゃないのか?
「では、その間のことは……、今も思い出せませんか?」
 秋良は首を傾け、視線を落として木目調の床を見ていた。
「……思い出せません」
 そう言うと、また不安そうな瞳を薫に向ける。
「思い出したほうがいいんでしょうか?」
「いいえ、……そんなことはないです。思い出すことは無理でしょう。……ずっと、眠っていたのでしょう?」
 自分の問いかけを薫はドキドキしながら聞いた。とんでもない事実が隠されているのではないだろうか。
「僕は全然わからないんですけれど、眠っていたんだと思うんです。食事したり、目を開けていたりもしたみたいですけど。誰も本当のところは教えてくれませんし。あの……、笠原先生にお聞きになってください。ずっと診て頂いていましたから」
 薫は優しい精神科の医者の笑顔を作って『そうですね』と話しかけた。それで秋良がほっとしたこともわかった。
 だが、教授に聞く事はできないのだ。カルテが改竄されているのだから。
 どんな理由があるにせよ、それは医師法に違反している。
 薫が問い質せば、教授はそれを認めないわけにはいかないだろうし、薫に口止めをするだろう。
 そんな教授を見たくなかった。
 それに……。
 大きな獲物を目の前にした漁師の気分なのだ。
 珍しい症例。完全治癒すること自体が奇跡といってもいいのではないだろうか。
 どうして隠す。これを学会で発表すれば。
 名誉だけが欲しいわけではない。
 目の前の彼がそんな状態から治癒し、今もなんの後遺症もないのなら、それによって希望の持てる患者がどれだけいるのだろうか。
 何故隠す。
 薫は教授のしている事のほうが信じられなかった。
 秋良が帰る時、次の予約を早く取らせた。
 教授の出張の間に、何かの手応えを掴みたかった。
 そして知りたかった。教授が、彼をどうしようとしているのかを。
 その夜、薫は病院に泊まりこみ、教授のパソコンのデータを引き出した。
 患者の名前は安藤秋良。隠されたカルテがあるのではないか。
 もしも教授が彼の治療実績をデータに落とし、発表するために用意しているのなら邪魔をしてはならない。
 しかしそれは、薫のかすかな望みでもあった。教授がカルテを改竄するはずがない。それをしているのは、彼のデータを秘密にして、データを盗用されないためだ。そう思いたかったのかもしれない。
 自分のしていることも犯罪である。だが、確かめずにはいられなかった。
 一晩を費やし、いろんな方法を試みたが、薫の望んだものは得られなかった。
 教授が次に学会用に論文を書いているのは、まったく別の症例であり、安藤秋良のカルテもたった一つだけだった。それは薫がここ数日、ずっと見ていたものとまったく同じのものだった。
 
 
 教授が何故隠そうとしているのか、薫にはわからなかった。
 その理由を考えると同時に、看護婦達の態度にも疑問がわいた。
 まるで示し合わせたように、秋良の病状については思い出せない、知らないと言う。
 特別室に入院し、高価な保険外の薬を使い、1ヶ月あまりも入院していれば、誰かの記憶には残るものである。
 まして若い独身男性である。薫が見た感じも、優しくて人当たりのいい彼を、看護婦達が気に入らないはずはない。
 その証拠に、診察にきた時も、受けつけの看護婦と親しそうに話していた。なのに、その時の看護婦に聞いても、『私は外来ですから』と言って逃げられた。
 そこで薫にはもう、集められるデータは尽きた。
 直接、本人か、教授に聞くしかないのである。しかも本人は覚えていないと言うのだから、八方塞の状態だった。
 それでも薫は、一つの方法として、催眠療法を考えていた。
 深層心理に問いかけ、本人が覚えていない事も聞き出せるかもしれない。それができれば、教授に問い詰める事もできるだろう。
 そうすれば、どのような治療が行なわれたのか、今後の精神医学において、大きな躍進となるかもしれない。
「秘密にしちゃいけないんだ」
 薫は自分に言い聞かせていた。
 教授のタブーに踏み込むかもしれない自分への力づけでもあった。
 
「あら、安藤さん、今日も診察なんですか?」
 外来の担当である看護婦が不思議そうに尋ねた。
「はい。早く信頼関係を得たいと思いまして」
 こちらの聞くことに答えてもらえないのだから、こちらも答えたりしない。しばらくの間、騙す事の辛さを薫はそうやって誤魔化した。
「…………そうですか」
 看護婦の古田は少し不満そうな表情を浮かべ、そして廊下へと患者を呼びに出た。
「安藤さーん、……あら、こんにちは。どうぞ」
 最初に秋良を呼んだ時とは少しトーンを落として、古田は患者を呼び入れた。
「こんにち…は……」
 相手を緊張させないようにと微笑を浮かべて、椅子を回して振り返った薫は、口を開けたまま固まった。
 彼がいた。
 黒いコットンセーターに、黒のジーンズ。薫と目が合うと、彼は頭を下げて、患者用の椅子に腰掛けた。
「あの……」
「お世話になります」
 低いけれどよく通る声が、まっすぐ薫にかけられた。自分だけに話しかけられているのだ。
 その喜びよりも、戸惑いのほうが大きかった。
「あの、今は予約の患者さんの診療時間なのですが……」
 安藤さんと呼びかけて、看護婦が挨拶をして入ってきたのが彼だということも忘れていた。
「安藤秋良のかわりにきました。先日の診察で何か問題があったのか、お聞きしたくて」
 洋也の言う意味を掴みかねて、薫は眉を寄せた。
「安藤さんのかわりと言うと?」
「そのままの意味ですが。前日の診察の時に、先生がとても難しそうな表情をされて、入院中の事をお聞きになったとか?」
 抑揚のない口調で、射るような視線に晒され、薫は思わず身体を引く。
「それは……、まぁ」
「僕から見て、彼はどこも問題ないように思えますし、今後の診察は従来のように三ヶ月に一度でよろしいのではないでしょうか」
「しかしですね」
「何か問題があると?」
 冷たい瞳が薫を捕らえていた。
 先日感じた彼の柔らかさは嘘だったのだろうか。
 それよりも、何故この人があの患者の事をこんなふうに……。
 その理由を考えて苦しくなる。自分の知りたくない理由のような気がして。
「それは……言えません」
「何故でしょうか」
「私には守秘義務があります。ご本人、もしくは家族の方でないと、何も申し上げられません」
 帰って欲しい。
 会いたいと思っていた人に、今帰って欲しいと願う自分に、薫は胸が痛くなった。
「本人の了解を得て、僕がここに来ていてもですか?」
「はい」
「そうですか」
 彼は立ちあがった。その威圧感に、身が竦む思いがした。
「ご本人は?」
 かろうじてそれを尋ねることはできた。
「連れてくるつもりはありませんよ」
「しかし!」
 薫も思わず立ちあがっていた。彼の胸が目の前にあった。それほど身長差があった。
「彼のご両親を連れて出直してきます。その時に説明して頂きます」
「……は?」
 薫は思わず問い返していた。出直す? 両親を連れて?
「本人か、家族でないと話して頂けないのでしょう? 本人には話して欲しくないので、ご両親を連れてくるといっているのです」
 薫はカルテに貼りつけられた入院時の誓約書に目を落とした。
 そこには保証人として、秋良の父親と兄の名前があった。
 住所は決してここから近いところではない。
「それは……、脅しですか?」
 薫は両親を連れてくるといった洋也の言葉を、脅しに近いものだと感じた。
 入院していた時の特別待遇、その後の隠匿はやはり彼の父親の力なのだろうと。
 薫が脅しなのかと問うと、洋也は唇だけで笑った。
「脅しなどではありません。純粋に先生が何をなさろうとしているのか知りたいだけです。脅すなら笠原先生の名前を出しますよ。失礼します」
 見透かしたような台詞に、薫は震えた。
 閉じられるドアを何も言えずに見つめているしかできなかった。
「先生?」
 彼が出て行くのと入れ替わりに、看護婦の古田が入ってきた。
 呆然と立ち尽くす薫に心配そうに声をかける。
「今の人……」
 薫は縋るように古田を見た。
「三池さんがどうかなさいました?」
「君は……、彼を知っているの?」
「えっ、ええ……、まあ……」
 しまったという顔をして、古田は視線を逸らした。あわてて次のカルテを用意しているようだ。
 そして、彼が次の土曜日に、安藤秋良の名前で予約を入れたことを、薫はその日の診察後に知らされたのだった。
 
 

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