それからはまた、ただ日常が流れて行くだけの日々が始まった。
何も変わらず、むしろ仕事にも張りが出来て、やる気も向上していくはずなのに、一度彼に出会ってしまったら、また会いたいという想いばかりが強くなり、それがかなえられず、物足りなさを覚えてしまう。
甘えるなよと自分を叱りつけながら、しっかりしろと言い聞かせるように、日々のノルマをこなして行った。
それに、そうした日を積み重ねていれば、また彼に会えるかもしれないという期待もあった。
そんなある日、薫は教授に呼び出された。
「突然呼び出してすまないね」
薫は内心びくびくしながら、教授のもとを訪れた。最近、やる気がないぞと叱られるのではないかと怖れていた。
しかし教授は朗らかに薫を迎えてくれた。注意を受けるのではないとわかって、ほっとしながらも、それではなんの話だろうと緊張する。
「実は、来月から長期の出張が入ってね。私の受け持ちの患者の幾人かを君に頼みたいんだ」
教授の申し出に薫は緊張を隠せなかった。
教授が受け持つ患者と言えば、それなりに地位のある人か、コネのある人、もしくは難しい症例。
そんな患者を自分などの駆け出しが受け持ってもいいのだろうか。
薫の緊張を見て取ってか、教授は優しい笑みを浮かべた。
「そんなに大袈裟に考えてくれなくてもいいよ。どちらかと言えば、定期検診の人ばかりで、むしろ君にはつまらない仕事になるだろう。もちろん、何かあれば、他の先生が助けてくれる事になっているから」
それを聞いて薫は肩の力を少し抜いた。けれど、大変な仕事であることには違いがない。
「たとえ、簡単な面接だとしても、私に務まるでしょうか」
「大丈夫だよ。むしろ私より、君の方がうまくいくと思える患者を選ばせてもらったから」
教授の言葉に、薫は覚悟を決めた。やりがいのある仕事になるという期待にも胸が膨らんだ。
「それじゃ、この五人をお願いするよ」
教授は5件のファイルを差し出した。それを両手で受け取る。ずっしりと重く感じたのは、薫が緊張しているからだろうか。
「どちらかというと、アフターケアの人が中心なんだ。何かストレスを抱えていないか、それを中心に面接をして欲しい」
いくつかの注意点を聞きながら、薫はその注意をメモに書きとめた。
「それじゃあ、よろしく頼むよ」
「頑張ります」
教授に肩を叩かれ、薫は笑う。やる気が身体中に漲っているのを感じた。
その日の夜、薫は医局でカルテをチェックしていた。
カルテを持ち帰る事はできないので、今夜は泊まり込むつもりだった。
一人暮しなので、帰宅を気にしなくていいのは幸いだった。
5人分のカルテを、初診の頃から辿るのは、並大抵の事ではなかった。特に入院経験の患者は、その分カルテも膨大である。
助かったのは、書き込んだ教授のドイツ語がわかりやすく丁寧に書かれていた事で、すらすらと読めたことだろうか。
酷い医者になると、自分にしか読めない、悪戯書きとしか読めない文字を書く。曰く、患者に見られても困らないからだと嘯いているが、それではみんなが困るからとよく教授達に注意を受けている。
カルテの管理もどんどんパソコンに打ちこむようになってきているが、それでも実際の診療には、まだ従来の紙のカルテが主流を占めている。
文字でしか伝わらない思いもある。特に、精神医療の現場では。
それが笠原教授の理念でもあり、薫もその考えに同意している。
5人目のカルテをめくり始めて、薫は眉を寄せた。
……何か、おかしい。
ぱらぱらと先をめくり、微かに感じた異常が、確信へと変わった。
……カルテが改竄されている。
表紙に戻って名前を確認した。
『安藤秋良』
年齢は薫より、一つ下。職業は教師となっている。
一昨年に初診があり、入院しているのだが、その入院の記録があまりにも曖昧だった。
病名は『逆行性健忘症』、巷で言われる、記憶喪失の事である。原因は交通事故による頭部打撲。
だが、外科から精神内科に回されたのは、事故の翌日。
1日経ってから記憶喪失である事がわかるものだろうか?
それに……。
カルテに記録されている投薬は、どう考えても、逆行性健忘症には相応しくないと思われるものばかりだ。
病名を詐称したものの、投薬は誤魔化せない。薫のような新米医師にも、ありありとわかる妙なカルテであった。
教授の意図はなんだろう。
薫はまずそのことに疑問を抱いた。
薫が見抜けないと思ったのだろうか。それとも、薫だから見逃してくれると思ったのだろうか。
どちらにしても、白い紙に落とされた一点の墨のように、それはじわりと薫の心に染み込んだ。
患者はその後も、何度か診察を受けている。
回復は順調で、診察の必要性もないかと思われたが、時折、胃の不快感を訴えている。その度に内科の診察を受けてから、教授の診察に回されている。
普通の医者から見れば、大袈裟とも思える処置だった。
……何者だ?
疑問は深くなった。
ただの教師とは思えない。入院中には保険外の高価な薬も多く使われている。いずれも安全性の高いものではあるが、若い教師に払える額とも思えなかった。
実家が裕福なのだろうか。それとも、父親とかが名士なのかも。
そういった場合、かなりの優遇を受けることはあった。
けれどそれも、カルテをここまで改竄するに当たるとは思えない。
最後までカルテを確かめて、薫はその思いをますます強くした。
次の診察予約は、一週間後となっていた。
教授の出発に合わせて、診察を早めないのは何か理由があるのだろうか。
けれど薫は疑問を抱えたまま、教授に問い質すことはしなかった。
教授の不正を暴くことにもなりかねない行為を自分がすることになる。それが怖かった。
患者に会えば、何かわかるかもしれない。それで、あきらかにおかしいと思えば、その時でいいじゃないか。
薫は悲壮な思いを固めながらも、教授を笑顔で送り出したのだった。
その患者の診察日までに、薫は入院時に病室担当になった看護婦に尋ねてみた。
「この、安藤さんて、どんな状態だったの?」
薫が訊くと、松崎という看護婦は、困ったような笑顔を浮かべた。
「えー、そうですね……」
言葉を濁して、彼女は首を傾げる。
「薬の処方が、ちょっとおかしいように思うのだけれど」
「……、でも、それは笠原先生が指示されたものですから。私たちは医療的なことはわかりません。教授にお聞きになってください」
「入院日数のわりに、早く回復してるよね。入院の後半は、体力の回復の為にいたとしか考えられないけれど」
松崎は白衣の前で手を握り締めて俯く。
「ですから、私たちはお世話するだけで、詳しいことは本当にわかりません」
二人がそんな会話をしているところへ、婦長が近づいてきた。
「どうかなさいましたか? 松崎さんが何かミスでも?」
薫は口元に手をやって、ため息を隠した。
「ミスはありませんけれど、この患者さんのことを訊いても、わからないとばかり言うもので」
薫が説明すると、婦長はカルテを覗き込んだ。そして、何か失敗を見つかったかのように、少し目を見開き、そして鼻に皺を寄せた。
「真崎先生、私たち看護婦は、患者さんの世話をするのが仕事ですから」
口ではそんなことを言うが、薫はこの婦長に、病棟のことなどを色々教わっていた。患者のことに関しても、下手な医者より詳しいのは、誰もが認めるところである。
「僕はこの患者さんが、入院中の様子を聞きたいだけなんだけれど」
薫より一回り年は上だろうという婦長は、子供をあやすような顔をする。
「先生、一昨年の事なんて、覚えてられませんよ。今入院中の患者さんのこと、聞いて下さいな。それでしたら、どんな事でも答えられます。松崎さんも私も、ね」
さ、と松崎の肩を叩いて、婦長は仕事に戻っていく。
……何故隠す。
薫はなおも不審を募らせた。
不自然なカルテ。それから目を離せなかった。
彼の診察が近づき、薫は武者震いする。
緊張の為か喉は渇き、鼓動は早くなっていた。
今、心電図を取られたら、間違いなく病気だろうなと、自分で笑う。笑おうとして、失敗する。
「安藤さん、どうぞ」
外来の看護婦が、患者を呼んだ。
「はい」
遠く聞こえてきた声は、穏やかな感じがした。
もっと神経質そうな声を想像していた薫は、その意外性に驚く。
ドアが開き、彼が入ってきた。
これで小学校の先生ができるかと思うような線の細さ。細い身体。
椅子に座っているのが笠原ではないと知った時の、戸惑った顔は、頼りなげで、癖のない髪が薫に頭を下げるのと同時に、彼の頬にかかった。
年よりはずいぶん若く見えた。学生だと言っても、薫は信じただろう。
鳶色の瞳が、薫をまっすぐに見た。そして愛想良く笑う。
「よろしくお願いします」
先ほど聞こえた声と同じで、柔らかい、心地よい声だった。
神経質というよりも、気弱なせいで胃を悪くするだろうと思われた。
なるほど、これなら苦労するだろう、とも。
「笠原は現在出張しておりまして、かわりに私が担当させて頂きます。真崎と申します、よろしく」
「あんどうあきらです、よろしくお願いいたします」
頭を下げると、髪がさらさらと音をたてるように思えた。
アキラと読むのかと、カルテの名前を見つめた。
深く息を吸いこんで、薫は口を開いた。
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