RAPPORT U

 
 
 好きな人がいました。

 『彼』は僕にとっては遠い人。

 誰もが眉をひそめて『彼』を避ける。

 それは『彼』が冷たいから。

 人の心さえ持ち合わせていないような冷たさが、周りの者を遠ざけていたから。

 けれど僕は知っていた。

 眉をひそめるのと同じくらい、もしくはそれ以上に、誰もが『彼』に近づきたいと願っているのだと。

 それが叶わないから、気持ちを裏返すことしかできないのだと。

 そして僕もまた、遠くから見つめるしかできなかった。

 遠い人。

 接点を持つことも出来ない人。

 『彼』の名は……。

 
 
 
 
 真崎薫は昨日支給されたばかりの白衣に着替え、名札と身分証明書を胸につけ、バインダーと封筒を手に、更衣室を出た。
 男にしては身長は低い方。Mサイズの白衣の肩がわずかに下がるくらい、身体も細かった。
 本来まっすぐで癖のない髪は、どうしても年より若く見られてしまうので、今はゆるくウェーブをかけている。それを丁寧に分け、清潔感溢れる、若い医師を演出していた。
 小さな顔を少しでも年相応に見せるように、銀縁の細めのメガネをかける。
 傍を通りかかった看護婦が、意味ありげな視線を寄越すが、それには気づかぬふりで、愛想だけは良く会釈する。
 病院の廊下は清潔に磨かれており、一歩を踏み出すときゅっと靴音が返ってくる。
 うんと一つ頷いて、薫は廊下を進み、エレベーターに乗った。
 五階で下りて右手に進む。さらに一つ角を右手に取ったところから二つめのドアをノックした。
「はい」
「失礼します」
 室内にはこれから薫が師事する教授がいた。教授は微笑みながら、薫を出迎えてくれる。
「まあ、かけなさい。ご苦労だったね、どうだった? ドイツは」
 教授は先週末、ドイツ留学から帰国したばかりの薫を労うように、肩を叩いた。大学を卒業してから三年、その間も年をとらなかったように若々しい教授を懐かしく眺めながら、薫も微笑み『ありがとうございます』と深く礼をした。
「とても勉強になりました。ドイツの精神医学会は一つの学問としてではなく、総合医学としての志向が高く、日本はまだまだ遅れていると、焦らずにはいられません」
 薫の率直な意見に、教授は満足そうに深く頷いた。
「すぐに、というわけにはいかないが、これから真崎君の学んできたものを取りいれていきたいと思っている。そのためにできること、必要な環境、意見を出してほしい。出来る限りの後押しはさせてもらうから」
「ありがとうございますっ」
 この教授が口先だけで、留学帰りの若い医師を誉めているのではないと知っているので、薫の頬は紅潮した。
 本当にしたいといえば、それだけの事をしてくれるだろう。薫が留学できるように、推薦してくれたのもこの教授である。
 どんなことでも学んで来い。貪欲に吸収して来い。後のことは心配するな。
 留学する時、これからの自分、帰国後の自分に不安でいっぱいだった時も、この人は力づけるように背中を押してくれた。
 あれから三年。
 ドイツで学び、自分がどのようにしたいのかを、まだ足りないとは思いながらも、ある程度の形は掴み取ってきたと思う。
「まずは、慣れることだな。そのためには、どんどん働いてもらうから、覚悟をしておいてくれ」
 教授は年には似合わない悪戯っぽい笑みを浮かべて、右手を差し出した。その手を握り返し、薫はようやく日本に帰ってきたのだと実感した。
 
 その日から、薫の医者としての日々が始まった。
 入院患者はまだ受け持たせてもらえないが、初診の患者や、比較的軽い患者を受け持つことになった。
 精神内科はようやくその存在を広く認められてきつつある分野である。
 精神を病む患者やその家族はそこに通うことを恥ととらえがちであるが、ストレスの多い現代の社会では、深く心を病む前に、風邪で受診するように、カウンセリングを受けに来る。
 そういう正常で健全的な学問として、認知されるようになってきている。
 薫はこうなることを見越して、学生時代から、もっとオープンな病棟をと訴えてきていた。
 それを実践するための留学でもあった。
 一週間の内、火曜日の午前と木曜日の夜が薫の外来の受持ちとなっていた。
 サラリーマンのために午後診ではなく、夜診があった。午後六時から診察は最終が十時近くになることもあったが、薫は残業も厭わなかった。
 緑を多く、広い部屋で。診察室のような器具を取り払う。
 リラックスできるように。寛げるように。
 ほっとしながら、話ができるように。
 薫の意見は少しずつ取り入れられ、そしてそれに比例するように忙しくなっていった。
 受け持つ患者が増えていき、学会などへの出張も増えていった。そこでドイツで学んできたことを発表するように頼まれることもあり、請われるままに論文も書いた。
 疲れは身体の中に溜まっていたが、気持ちには張りが出来た。
「このままだと、真崎君のカウンセリングをしなくてはならなくなる」
 教授はそんなことを冗談混じりに言った。
 薫は笑いながら、まだまだ足りないですと真剣に言い返した。
 何が自分をそんなふうに突き動かすのか、薫にもわからなかったが、そうしている自分に満足を感じていた。
 
 日常が充実していくと、薫はある人のことを頻繁に思い出すようになっていた。
 その人は、薫が医学生の頃、教授の元を良く訪ねてきていた学生だった。
 同じ大学の学生ではあったが、彼が所属しているのは医学部ではなかった。
 その彼が何故、医学部の教授を尋ねてくるのかいつも疑問に感じていた。
 すぐに薫も彼のことを知るようになった。薫より一つ年下だが、背は薫よりもはるかに高く、端整な顔立ちをしていた。
 彼は学内でも有名だった。いい意味でも、悪い意味でも。
 誰もが少し皮肉混じりに彼を評した。
『有能だが、まるでコンピューターのようで、人間味を感じない』
『アンドロイドみたいだな。無機質な奴』
 確かに薫も彼の表情らしい表情は見た事がなかった。
 いつもガラスのような硬質で冷たい瞳、整った顔立ちはピクリとも動かないようにさえ感じられた。
 アンドロイドというより、彫刻のように薫には思えた。
 けれどどんな芸術家も、彼ほどの美貌を彫刻には刻めないと思った。
 そう思うようになって、薫は彼が教授のところへ来ないかと、待ち侘びるようになっていた。
 待てば待つほど彼は来ないように感じられた。
 そしてたまに彼が来ると、その場に居合わせた幸運に感謝した。
 けれど薫ができたことは、彼が来た時に居合わせたことに内心で喜ぶことくらいだった。
 自分からは声もかけられず、そして彼から話しかけられることもなかった。
 教授と話している彼の少し低めの声を、なるべく聞いていないふりを押し通すことだった。
 教授と話している彼は、彫像のような顔に、わずかな感情を表わす。
 それを盗み見るので精一杯だった。
 自分の中に芽生えた感情に、薫は戸惑いながらも、それを大切に育てていった。
『好き』
 そう思うだけで良かった。
 彼のことは自然と耳に入ってくる。
 悪し様に教授に告げ口をする者もいたが、教授は概ね彼に友好的だった。そう、教授と学生というより、友人という関係に近いように見えた。
 薫はそれが羨ましくてならなかった。年が近い自分の方が、友人にもなれないのに、教授は自然に話していることに羨望を感じていた。
 それでも、彼はそれ以上に近い人を持たなかった。
 誰もそれ以上に、その半分さえ、彼に近づける者はいなかった。
 神様の創った気高き人。孤独さえ、彼には似合いの衣のように思えた。
 彼が自分に語りかけてくれたのは、たった一言。
『教授は?』
 薫が『出張中です』と答えると、彼は軽く頭を下げて出ていった。
 それだけ……。
 それだけを宝石のように大切に胸に抱いて、薫は今までを過ごしていた。
 あれから好きになった人はいない。付き合った人もいない。
 交際を申し込まれたこともあるけれど、彼のことを忘れられずに断わった。
 彼ももう、大学を卒業しているだろう。ならば教授を訪ねてくることもないだろう。けれど少しくらいは、卒業後の噂を耳にすることもあるのではないか。
 そんな期待を抱いていたが、薫は自分から彼の消息を尋ねることは出来なかった。
 どうしてそんなことを訊くのか、変に思われるのではないか。それが心配で聞けなかった。
 訊くチャンスもないまま、薫の日々は慌しく流れていった。
 
 火曜日、薫が午前の外来診察を終えて医局へ戻ると、教授は一人の青年と窓際で話をしていた。
 ドアから入った薫には、こちらを向いている教授の顔しか見えなかった。
 教授は楽しそうだった。にこやかに彼に話しかけている。
 薫はドキドキしながら、教授の相手をしているその人の背中を見た。
『彼』だ……。
 薫にはすぐにわかった。
 こちらを向いてくれないだろうか。そんなことを期待する。
 この日を待って、待って、待ちかねていたのに、自分からは声をかける勇気を出せない。
 ドアのところで立ち尽くすしか出来ない。
 座り込みたくなるくらい、足は小刻みに震えていた。心臓はこれほどまでというくらい、早く脈打っていた。その音がこの部屋にいる人全員に聞こえるのではないかと思うほどに。
 一歩も動けないでいる薫に、教授の方が気づいた。
「真崎君、ちょうどよかった。ちょっと来てくれないか」
 教授は彼と談笑している時の笑顔のまま、薫を手招きしながら呼んだ。
 息も止まるくらいに驚いて、薫はどうしようかと、おろおろとした。
 教授の声につられるように、彼が振り返った。
 やはり彼だった。三年分、その年月は彼を少しも変えてはいなかった。むしろ彼の上により男性らしさを塗りこめたように思う。
 彼があの時と同じように、軽く頭を下げた。間違いなく、薫に。
 ギクシャクと足を動かし、あるだけの勇気を振り絞って、薫は二人の元へと歩み寄った。
 薫が近くまでいくと、彼は立ち上がる。教授も一緒に立って、薫のことを紹介した。
「彼が先程話していた真崎君だ。学生の頃から私のゼミにいたから、君も見かけたことはあるのじゃないかな。真崎君、こちらは三池君だ。真崎君より一つ年下になるのかな。これからも時々ここにくるから、よろしく頼むよ」
「教授のところに来る学生さんは多いから、すべての人を覚えるのは難しいですよ。こうして紹介していただけたのならともかく。はじめまして、三池洋也といいます。工学部の院の方におります。よろしくお願いいたします」
 教授に言い訳をしてから、彼は丁寧に薫に自己紹介をしてくれた。
「あ、真崎薫です。よろしくおねがいします」
 慌てて薫も自己紹介をした。
 それから教授はいくつかのプロフィールを混ぜながら、薫について洋也に話をしていたが、薫はほとんど上の空で聞いていた。
 三年の間に、彼は変わっていないように見えたが、傍にいてそれは違うとわかった。
 どこがどう変わったと考えて、あることに気がついた。
 彼の表情が……。
 冷たく、誰をも寄せつけなかった彼の表情が、今でもかわらないように見えて、全然違うと思った。
 丸くなったと簡単には言えないような、優しい雰囲気が彼の周りに漂っている。
 触れれば凍てつくような視線がなくなっている。
「三年間もドイツにいらしたんですか」
 急に話しかけられ、薫は慌てた。
「はっ、はい。ボンに」
「そうですか。いいところですよね」
 口元に笑みさえ浮かべ、彼が自分に話しかけていることが信じられなくて、薫は夢を見ているような気分になった。
「行った事があるのかね?」
「はい。城を見たくて」
 教授が彼との話を奪っていったような気がして、薫は軽い失望を味わいながらも、それでも同じ会話の中にいることの幸せに酔っていた。
「彼は風来坊だからね。見かけないと思ったら、地球の裏側だ」
「今は落ちついていますよ」
「そうだろうとも」
 旅行が好きなのかと彼についての情報を得ながら、薫は静かに二人の会を聞いていた。
 だから彼が腕時計を見て、そろそろ失礼しますと腰を上げた時、とても残念に思った。
「また来いよ」
 教授が笑いながら彼を見送るのに、さりげなくドアのところまで一緒に行き、彼を見送った。
「失礼しました」
 彼は薫にも挨拶をして、出ていった。
 ふっと胸の中が暗くなったような寂しさを感じた。
「時折私のところへ顔を出していたんだが、覚えてないかね?」
 教授に聞かれ、薫は少し迷うふりをして、答えた。
「見覚えはあるように思うのですが。雰囲気が変わったのでしょうか」
 薫の答えに、教授は心当たりがあるように笑った。
「そうだな。人形に心が宿ったように。それほど彼は変わっただろうな」
 それはいい事だと思うのに、薫には何故か歓迎できない事のように感じられた。
 
 

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