「先生、お時間が出来たのでしたら、ご連絡いただきたかったですわ」
 島津百合子はにこやかに話しかけてきた。どうやら彼女は一人でエレベーターで下りてきたらしく、洋也に話しかけてくるのに、連れの心配はしていないようだった。
 だからと言って、こちらも一人と思われるのは心外なので、洋也は一歩引いて触れんばかりに伸ばされた百合子の手を避けた。
「いかがでしょう、これからお食事にお誘いしてもよろしいかしら?」
「友人たちと来ていますので」
 洋也はさっさとエレベーターに乗り込もうとしたが、百合子ははじめて秋良と鳥羽に気がついたようで、驚いて見つめている秋良ににっこりと微笑んだ。
 秋良はさらにびっくりして、どうしていいのかわからずに洋也を見た。
「もしよろしければ今夜はミツヤ先生をお借りしたいのですけれど。私は先生の仕事の関係でずっとお誘いしていたんですのよ」
 秋良に向かって当然のように話しかける百合子に洋也は表情に怒りを滲ませて、秋良と百合子の間に立ちはだかった。
「個人的な外出に口を挟まれる契約ではなかったはずですが」
 秋良を背中に隠したのは、秋良を隠したかったからではない。自分の怒りに染まった顔を秋良に見られたくなかったからだ。
 不穏な空気を察した鳥羽は、止めていたエレベーターから降りた。
「でも、先生」
「どこの誰かはわかりませんけどね、俺たちに洋也さんを借りたいっていうのは間違いなんじゃないの? 本人が断ってるのに、俺たちが貸し出せるもんじゃないでしょ」
「と、鳥羽」
 平然と言い返す鳥羽に、秋良は洋也の仕事に差し支えないかと心配になる。
 鳥羽を引き止めようとする秋良を、洋也は手を差し出して制した。
「仕事は順調に進んでいます。約束の日にはお届けできるでしょう。今後、緊急の連絡以外はお断りいたします」
 きっぱりと言ってさっさとエレベーターに乗ろうとする洋也と、クスッと笑いながら後に続いた鳥羽に彼女は怒りと羞恥で顔を赤くした。
「そんなことを仰ってよろしいの? こちらがプログラムの出来が悪いと判断したら、先生の欲しがってらっしゃるもの、手に入りませんわよ」
 勢いで言ってしまったのだろう。その気持ちはわからないでもないが、そんな子供じみた脅しが通じる相手ではなかった。
「そうですか。では、もうプログラム自体もお断りしましょう」
 二人の前に立ち、洋也は百合子を見下ろした。
「よろしいんですの?」
 精一杯の虚勢を張って、もう引き下がれないとばかりに百合子は顎を上げた。
「かまいませんよ。こちらとしては今回の仕事で、穏便な入手方法が見つかったと喜んでいたのですが、そちらがそのつもりなら、最初の予定通りに進めるだけです」
「あれは門外不出です!」
「桂陽プランニングの株を13%取得しています。吉田氏、後藤氏、井出氏、松本氏、中山氏の五名がいざというときには私に株を無条件で譲ってくださると約束してくれています。これで既に50%を越えますが、譲渡は無理でも、舛田氏、柳氏、辻本氏が総会では私につくと約束してくださった。これで60%を軽く越えますね。桂陽プランニングが私のものになれば、あれを持ち出すのも、私の自由だ」
 洋也のあげる名前を、父親付きの秘書をしていた百合子は聞き覚えがあるらしく、徐々に顔色をなくし、唇を震わせ始めた。
「そ、そんな、馬鹿な……」
「なんなら、今から会社に戻って確かめてみてはどうですか? 私は嘘は言ってませんよ」
「一体どれだけの価値があるというの、あんなもの」
「その価値を決めるのは、使う者でしょう。そして一番価値をわかっていないのはあなただ」
 百合子は悔しそうに唇を噛んだ。
「明日の朝、私の新しい担当の方から連絡が来ない場合、株の取得に向けて動き出すことにします。どちらを選ぶのかは、かえって島津社長と相談なさることですね」
 話は終わったとばかりに、また背中を向けた洋也に、彼女は最後の強がりを見せた。
「先生、結婚なさっていると仰いましたけれど、入籍はされていないのですね。何か理由があるんでしょうか?」
 洋也はゆっくり振り返った。
「調べたのですか」
「プロフィールを調べさせていただいただけですわ。信用調査の範囲内です」
「今すぐ調査を打ち切ることですね」
「調べられたら困ることがおありなんでしょう?」
「洋也さん、俺たち、先に行ってるから」
 睨みあう二人に、鳥羽が秋良を隠すようにエレベーターのボタンを押した。
 エレベーターのドアはすぐに開いた。
「すぐに行きます」
 俯いた秋良の顔は見えなかったが、今は鳥羽に任せることにした。
 ドアが閉じるのを待って、洋也は今までにない冷たい視線を百合子に向けた。
「会社をなくしてもいいんですね?」 「そうなる前に、さっきの八人に貴方の隠したい事情を説明して、株の譲渡を阻止するんです」
「どこまでも甘いお嬢さんだ」
 洋也は馬鹿にする様に笑った。
「なんですって」
「やってみるといい。どれだけの秘密があろうと、築いた信頼が崩れるような関係ではないことだけは明言しておきましょう。あなたがすべてを失わないためには、明日の朝、私の新しい担当が、あなたたちの調べた信用調査書と調査の打ち切り契約書を持ってくることです」
「それだけ調べられたくないってことだわよね!」
「だから、調べればいい。自由にすればいい。ただしこちらはあなたの調べたものを、明日の朝には全て嘘にしてしまうこともできる。私の生活には、桂陽という会社の存在全てを賭ける価値などない。理解力の低い人間は嫌いなんだ。これ以上の説明をするくらいなら、今すぐ彼らに電話をかけたほうがましだ。友人たちと楽しい食事をするために」
 これ以上は一言も口を利くまいという拒絶の姿勢で、洋也はエレベーターを呼んだ。
 秋良たちを運んだ箱はすぐに戻ってきた。
 階数ボタンを押すのにも、ドアが閉まるのにも、洋也は彼女を一顧だにもしなかった。
 完全に無視された百合子は、閉じたドアを悔しそうに見つめるだけだった。


「大丈夫なの?」
 洋也が店に入ってくるなり、秋良は立ち上がって心配そうに尋ねた。
「大丈夫だよ。彼女は愚かだけれど、社長の父親の方は、冷静に考えられるだろう」
「でも……」
 席についておしぼりを受け取った洋也は、秋良を安心させるように微笑む。先ほどの冷たい視線と同一人物とは思えない、穏やかな暖かさだった。
「まあ、家に帰って父親に怒られて終わりだよ」
 洋也はなんでもないように言った。
「いいって秋良。あんな変な女に同情する必要なんてないよ。お前、洋也さんを狙われてたんだぞ。お前こそもっと怒れよ」
「ええ? そうなの?」
 洋也は苦笑し、鳥羽は呆れ果てたように溜め息をついた。
「だって、あの人は洋也を怒らせるようなことばかり言ってたじゃないか。だから、洋也から仕事を断らせたいのかなーって、心配になったんだよ」
 なるほど見方を変えればそういう風に見えるのかと感心する。
「世の中にはさ、自分が上位に立つ関係こそ、恋愛だと勘違いしている女がいるのさ。お前は知らなくていいことだけど」
 鳥羽がしたり顔で言う。
 大学時代は鳥羽が、現在は洋也が、それぞれに醜いものから秋良の視線を外す努力をしている二人は、お互いにもう少し見せておいてくれれば良かったのにと思いつつ、自分だけはそれはしたくないと考えている。
「本当に会社を買い取るつもりだったの?」
 秋良は恐る恐るといった風に洋也を見た。
「まさか。そういう手も考えたというだけだよ。これから伸びる企業だから、買い取っても損はないだろけれど、そんなことをして忙しくはなりたくないからね」
「聞いたことのない会社名だったけど、それなりに業績はあるんですか?」
「今の社長は先見の明があるっていうのかな。流行り物を読み取る力があって、時代を先取りするプランをたてて、伸びてきた会社なんです。そして自社の利益を大切にするので、なかなかどこも出し抜けないんです」
「ふーん。だけど二代目があの女だと、その先行きも不安だよな……あ、だからか」
「だからって、何が?」  鳥羽が言いかけて止めた台詞を、秋良が聞きたがった。
 父親は娘に不安を感じ、会社を任せられる配偶者をと考え、洋也に狙いをつけた。洋也の身上調査までしたのは、そういう目論見があったからだろう。
 確かに、人を見る目も優れているが、そういう人物であっても、我が子の育て方には失敗したらしい。
「いいのさ、俺たちは知らなくても。お、飲み物が来た。乾杯しようぜ」
 ちょうど運ばれてきたビールに感謝して、鳥羽はグラスを持ち上げた。
「じゃ、二人の幸せが安泰だったことに、乾杯」
「なんだよ、それ」
 秋良が怒るのにもかまわず、鳥羽は強引にグラスを合わせて、ぐびぐびと喉を鳴らす。
「もう、強引なんだから」
 怒るように言いながらも、秋良の顔は笑っていた。洋也の仕事に問題がないのならかまわない。
 もう一度二人でグラスを合わせて、秋良もごくりとビールを飲んだ。
 





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