『はじめまして。桂陽プランニング、企画課の入江と申します。新しくミツヤ先生の担当をさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします』
 翌朝九時にかかってきた電話は、新しい担当を名乗る若い男性の声だった。その名前に、企画書を作った人物だとわかり、洋也はほっとする。
 島津は娘の話を信じるよりも、会社の未来を取ったのだろう。百合子に話したことは決してはったりなどではなかったが、今朝早くから会社を乗っ取るために動かなくてよくなり、ほっとしたのも事実だ。
 仕事の話もスムーズに進み、毎朝の電話攻勢からも逃れられて、順調に仕上げることができた。
 出来上がったプログラムの受け渡しは、本来なら避けていたところだが、自宅で行った。
 会社に出向いて百合子の顔を見ることになるのは嫌だったし、洋也の望むものを届けて欲しかったからだ。
 Pシステムを届け、プログラムを受け取りに来た入江は、声で想像していたよりも年上で、物腰も落ち着いており、無駄口は利かない職人気質の人物だった。
 自宅でも洋也の仕事部屋を見たがったりせず、Pシステムについても取り扱いの説明をしただけで、余計な詮索は一切しなかった。
「明後日、こちらを受け取りに伺います。今回は良い仕事ができました。ありがとうございました」
 好ましい印象のまま、入江は帰っていった。


 そして翌日の10月21日。秋良の誕生日。
 秋良が出勤した後、洋也はサンルームでPシステムのセッティングをする。
 試運転も済ませてから、秋良を祝うためのディナーの準備もする。
 昼過ぎに鳥羽から『会社一つ乗っ取るほどのプレゼントって何ですか?』というメールが入り、『天上の世界』と返事を送った。
 きっと今頃は首を傾げているだろう。
 待ち侘びた頃、秋良が帰ってきた。
「ただいまー」
 多分、自分の誕生日のことはすっかり忘れている秋良は、のんびりと玄関で挨拶をする。
「おかえり」
 いつものように抱きしめ、出迎えのキスとともに、秋良の左手の薬指に指輪をはめる。指輪を交換してからの習慣だが、秋良は毎日、恥ずかしそうで、けれど嬉しそうに微笑む。
「いい匂いがするなー。何かなー」
 はにかみを隠すように、一旦は自分の部屋に着替えに行こうとする秋良を、洋也は引き止めた。
「秋良、こっち」
 肩を抱くようにしてサンルームへと誘う。
「え? ご飯じゃないの? あ、サンルームで食べる?」
 少し見当違いなことを言いながら、秋良は素直についてきてくれた。
「秋良、暗いけれど、そのまま中央に立って」
 ドアの脇で電気をつけようとする秋良を止めて、洋也はその端をめくりあげた。
 灯りの落ちたままの部屋。薄い膜をめくるようにして洋也は秋良を部屋の中央に立たせた。
「これ、何? 大きなテントみたい」
 お気に入りの場所に突如として出現したものを、秋良は大きなテントと表現した。どうしてこんなものが?と思いながら、薄暗い室内で辺りを見回した。
 部屋の中いっぱいにドーム型に広げられた薄い半透明の膜を通して、外の風景も見えるが、それでも少し圧迫感はあった。
「秋良、誕生日おめでとう」
「え? …………あ、ああっ!」
(スイッチを押せば音楽が流れます。お好みに合わせて押してください。)
 洋也がスイッチを入れると、秋良は驚いて声を上げ、そしてすぐにその声さえ飲み込んだ。
 薄い膜のドームは洋也の言葉とともに夜空に変わった。
 東京では見られないような、高原の別荘でさえもこんなには見えないだろうという、見事な星空が秋良の頭上に広がった。
 恐いほどに煌めく満天の星。
 今にも零れ落ちてきそうな乳白色の天の川。
 一等星は眩しいほどに輝き、星は一色ではないことを教えてくれる。
 それが自分の頭上や前後左右ばかりではなく、足元にまで宇宙は広がっていた。
 まるで宇宙の中に立っている……いや、今はもう、自分がどのように立っているのかも分からなくなっていた。
 五感の全てが宇宙空間の中で、自分を見失わせるように不安を感じさせる。
 大きな空の中で、自分がとてつもなく小さくなったような不安定さ。なのに宇宙で泳いでいるような浮遊感は、今までよりも自分を大きくも感じさせるのだ。
 宇宙の中に放り出されたような不思議な感覚は、胸躍るようでもあり、畏れおおいような気もした。
 ゆっくり流れるオルゴールのメロディーはホルストの惑星。
 息を止めて見つめる秋良の目の前で、銀河をゆっくりと、惑星たちが姿を現し、遠ざかっていく。その中には青い海の惑星、地球もあった。
 その地球に近づいたかと思うと、頭上の空は地球から見える星空に変わった。
 足元には打ち寄せる波の映像。
 教科書で見たことのある星座が線で結ばれ、浮かんでは消えていく。
 声もなくして見上げていた秋良は、いつしか涙を流していた。
 その涙を長い指先が拭う。
「都会の灯りも、スモッグも取り払った、本当の星空だよ。昔の人たちは、こんな綺麗な夜空を見上げていたんだね」
 隣に立つ洋也の腕を、秋良はぎゅっと握り締めた。
「秋良?」  ハラハラと涙を流す秋良を、洋也は強く抱きしめた。
「ありがとう。洋也」
 プラネタリウムは大好きだった。一人で出かけたこともあるくらいに、好きな場所だった。洋也と出会う前は、落ち込んだときに、よく出かけていたりした。
 けれどこんな素晴らしい宙を見たことはなかった。
「気に入って貰えたら嬉しいよ。今夜しか借りられないのが残念だけど」
「ううん、もうきっと、この空のことは忘れない」
 秋良の最高の賛美に、洋也は頑張って良かったと心から思った。
 桂陽プランニングの開発課で、移動ドーム型のプラネタリウムを開発していることを知ったのは、夏の終わりの頃だった。
 まだ開発途中ではあったが、そのドーム型プラネタリウムのプログラムは、地上からのみではなく、全ての不純物を取り除いた果ての、人間の目や今の天体望遠鏡では見出せない星までをも映し出すと知って、ぜひ秋良に見せてやりたいと思ったのだ。
 しかし、それはすぐには叶いそうにもなかった。
 この天幕が非常にコストがかかり、一度に入れる人員を計算すると、一回の鑑賞費用が現存のプラネタリウムの30倍にもなるために、ほぼお蔵入りになっている状態だったのだ。
 コストダウンさせるために、今も開発課は天幕の技術改良などに取り組んでいるらしい。
 市場公開は何年後になるだろうかと考えいた洋也は、半ば本気で桂陽プランニングの買収を考えた。
 株の60%を押さえられるという手応えを感じたときに、島津の会社に対する情熱も知り、買収まではと踏み止まっていた時に、史也からの電話があったのだ。
「ここでご飯を食べようか」
 洋也の提案に、秋良は首を横に振った。
「胸がいっぱいで食べられない。ここで……ずっと、見つめていたい」
 秋良の感激ぶりに洋也は微笑んで、そっと床に座った。
 腰から下が波間に漂うように波紋が広がる。まるで波の上に漂っているように思えた。
 波間が二人を浮かべて、オルゴールの音色が優しく包む。
 膝の間に座り、洋也にもたれるようにして座り込むと、目の前に星が流れていくように感じられた。
 後ろから抱きしめる洋也と手を繋ぐ。
 波間に漂い、流れる星を眺め、包まれるのは優しい恋人の温もり。
 もう言葉は必要なかった。
 それでも、このために嫌な仕事も頑張ってくれた洋也に、一言だけは伝えたかった。
「洋也、大好き」
 洋也は愛する人の秘めやかな告白に、微笑んで優しいキスを返した。






おわり