危惧していた時間に鳴り始める電話に、洋也はあからさまに顔を顰めた。
 ディスプレイに表示される番号は、予想通りの相手。
 これが仕事先の相手でなければ、そのまま綺麗さっぱり無視するのだが、もしかしたら今度こそ本当に大事な用件があるのかもしれないと思うと、居留守を使うこともできずに電話に出ることになる。
『おはようございます、先生。桂陽の島津でございます』
 毎日判で押したように同じ挨拶で始まる電話に、洋也は「何か?」と冷たい返事をする。
 普通の相手ならそれで怯んでくれるのだが、彼女はそんなことなどまったく意に介さないので、洋也はうんざりしてしまう。
『お忙しい中申し訳ございません。先生、今夜のご都合はいかがでしょう。社長の島津がぜひ先生をお連れしたい美味しいワインのお店があると申しまして』
「申し訳ありませんが、仕事が立て込んでいるので」
 毎日毎日、料理を変え場所を変えての誘いが入る。それに対して毎日全く同じ文句で断るのだが、どうして嫌がっていると通じないのか、洋也は自分の断り方が間違っているのかと、らしくもない不安を感じてしまうほどだ。
『たまの息抜きはどうですか? あまり根をつめられると良くありませんわ』
 この言葉もいつも同じだ。暢気そうな声を聞くと、苛立ちが増していく。
「もう慣れていますので。それでは忙しいので失礼します」
 固定式の電話であればガチャンと置くような勢いで電話を切る。
 一度この電話が嫌さに、用件があればメールにしてくれと提案したのだが、メールは苦手なんですとあっさり過ぎるほど、簡単に断られてしまった。
 洋也は自分がとても冷たい人間である事を知っていた。そしてそれを利用する術もわかっている。
 冷たくしていればすぐに相手が離れていく。それでいいと思っていた。必要以上の付き合いなど願い下げなのだ。
 できる事なら、全てメールで済ませてしまいたいと思っているくらいだ。
 どうして彼女には通じないのか、かえって不思議に感じてしまう。いっそ呼び出しに応じて、その理由を尋ねたいと思ってしまうくらいに。
 そこまで考えて、嫌な気分になる。それこそ、相手の作戦のような気がしてくる。
 ただの接待など毛頭受けるつもりはなく、これからも断る方向に変わりはないことを自己確認する。
 そうして派手な溜め息をついたところに、秋良からの電話が入った。
『ごめん、洋也、忙しいよね?』
 出るなりいきなり尋ねられて、洋也は少しばかり驚いてしまう。秋良らしくないといえば秋良らしくない。
「どうした? 何かあった?」
 何かあったのだろうかと心配になり始める。本人が電話で勢いよく喋っているので、秋良の身に何かあったというわけではないのだろうけれど。
『研修会があってさ。他の先生が行くはずだったんだけど、急に都合が悪くなって、僕が出ることになったんだ』
「遅くなるの? 何時でも迎えにいけるよ」
『こんにちはー、洋也さん』
 突然割り込んできた明るい声に、洋也はなるほどと納得した。
 電話の向こうでは、秋良が勝手に取るなよと騒いでいる。
「どうも。これから食事に行かれますか? 迎えには行きますけど」
『そうじゃなくて、たまには一緒にどうです?』
 洋也は忙しいんだってばと秋良の咎める声が聞こえた。
 仕事の進行具合を考えて、洋也はいいですよと返事をした。夜中にコツコツと仕事をこなしているので、少しの余裕はできていた。
『ほら、大丈夫だって』
 鳥羽の声が遠くになって、続いて秋良の声が聞こえてきた。
『本当に大丈夫なの? 無理しないで断っていいのに』
「たまには息抜きもしたいよ。せっかくだから出かけるよ。どこに何時に行けばいい?」
 秋良たちのいる場所と待ち合わせの時間を決めて電話を切った。


 帰りの事を考えてアウディーではなく、タクシーを拾って待ち合わせの場所へと急いだ。
 二人は研修会が終わってからやってくることになっていて、少し早くついてしまった洋也は、喫茶店に入るほどでもないと判断して、待ち合わせの目印である駅前のモニュメントの前に立った。
 天秤をイメージしたモニュメントを見て、秋良の誕生日の事を考える。
 仕事は順調に進んでいる。
 毎日かかってくる電話は腹立たしいが、報酬が目の前に見えてきて、苛立ちも消えていく。
 すっかり日を落とした秋の夕暮れは、軽めの上着を羽織っていても、少しばかり肌寒く感じる。
 秋良が出かけるときの服装を思い出して、もう一枚持って来れば良かったかなと後悔する。車に乗れば問題はないだろうが、寒がりな彼に暖かいものを着せてやりたいと思う。
 いざとなれば自分のを着せればいいかと思い直して、洋也は腕時計を見た。約束の時間はもうすぐである。
 二人がやってくる通りへと顔を上げると、近くで感嘆の声が上がる。
 日本人じゃないわよねという言葉が聞こえてくる。
 本人は声を潜めているつもりらしいが、少し興奮気味の声は十分に洋也の耳に届いた。
 失礼だなと思いつつも、そんな好奇の視線には悲しいことに慣れてしまっている。
 自分では日本人のつもりだが、年々どこかしら日本人らしくなくなっていってるようにも思う。身体の中に八分の一は、外国人の血が混じっていて、父親に似ている分、日本人離れしていっているのかもしれない。
 しかしあからさまに言われることは少ない。
 どうせ睨んでも、自分を見たと勘違いして騒がれるだけなので、ここは完璧に聞こえなかった振りをする。
 ちょうどその時に通りの向こうから秋良と鳥羽が歩いてるのが見えた。
 まだ洋也には気づいていないらしく、二人で楽しそうに話をしている。
 学生時代という特殊な時間を共有し、信頼しきっている相手に向ける秋良の笑顔を見て、洋也の胸中は複雑になる。
 自分にだって秋良は満開と言っていい笑顔を向けてくれるが、親友という名前に相当するあの笑顔を、一生手にすることはできない。
 もちろん恋人であって、親友でいたいわけではないのだけれど、隣の芝生はどこまでも青く見えるものなのだろう。特に、秋良に関することは。
 そんなことを考えていると、秋良の方が早く洋也に気づいた。
 笑顔が洋也を捕らえて、今までとは違う笑顔になる。
 外で待ち合わせるということは滅多にないので、少し恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに微笑まれて、今さっきの悩みは綺麗に消えてしまう。
「ごめん、待った?」
「いや、そんなには」
「久しぶりです、洋也さん」
 二人の間にも遠慮なく割り込む声に、洋也は微苦笑を向ける。
「誘ってくれてありがとう」
 常にはライバルであり、時には心強い協力者であり、そして良き理解者である秋良の親友は、ニヤリと笑う。
「いつもの飲み会だと他の面子がいるから誘えなかったんだけど、今夜は二人きりだし、せっかくだからゆっくり飲みたかったんですよ。一緒だと迎えの心配しなくていいし」
「だから、洋也は仕事で忙しいんだってば、もう」
 仲が良い故の軽い諍いに、洋也は軽やかに笑う。
「大丈夫だよ。たまには息抜きがしたいから、出かけられて嬉しいんだよ」
「本当に?」
 心配そうに自分を見上げる秋良に、洋也は安心させるように頷く。
「この近くに鉄板焼きの美味しい店があるんですけど、そこでいいですか?」
 二人の間にも遠慮なく割り込んでくる声に、洋也は苦笑しながらも快諾する。
 三人で揃って移動する。鳥羽が先に立って、そのあとを洋也と秋良が並んで歩く。
「もう買い物済ませちゃってたんじゃないの?」
「いいよ、明日に回せるものばかりだから」
「おいおい、その所帯臭い会話は、家に帰ってからにしてくださーい」
 鳥羽のからかいに二人は顔を見合わせて笑い出す。
「だいたいさぁ、そろそろ倦怠期なんじゃないの? どうしてそうも仲がいいかなぁ」
「鳥羽っ! もーーー」
 前を歩く鳥羽の背中をドンと叩く。
「いてーな、この野郎」
 振り向きざまに秋良の頭を軽く叩こうとするが、秋良は既に洋也の背中に隠れていた。
「ずるいぞ、お前」
「だって、鳥羽は手加減しないじゃないか」
「誤解ですよ、洋也さん、ちゃんと手加減してますって」
 洋也は二人の言動に堪えきれずに笑い出す。
「でも、秋良のことは叩いてほしくないな」
「あーあ、鉄壁の要塞だなぁ」
 鳥羽は呆れたようにまた歩き始めた。
 この近くと言ったように、程なく三人は飲食店のテナントが入ったビルに到着する。
「ここの3階ですから。予約入れてあるんで、待たずに食べられますよ」
 鳥羽がエレベーターのボタンを押した。
「煙草臭いと嫌だなぁ」
 秋良がポツリと呟く。
「もちろん、店内禁煙の店だよ。いつも、そういう店を選んでやってるだろうが」
「えっ、そうなの?」
「これですよ、もう」
 鳥羽は両手を広げて肩を竦め、首を振って洋也を見上げた。
 洋也はクスッと笑って、同じ苦労を味わう同士と視線を合わせる。
 洋也の場合はそれを分かってもらえなくても、その空間で秋良が笑ってくれているだけで幸せだと感じられるが、鳥羽の場合はそれをネタにして、秋良をからかうことに楽しみを見出している。
 エレベーターが到着しドアが開いて、三人は降りてくる人に通路を譲る。
 空になった箱に乗り込もうとしたところで、突然声をかけられた。
「ミツヤ先生?」
 こんな所で聞くとは思わなかった名前に、洋也は思わず足を止めてしまった。
 先に乗り込んでいた鳥羽も、ドアの「開」のボタンを押したまま、驚いたようにドアの外を見ていた。
 振り返った洋也は、今最も会いたくない相手を見つけて、それまでの和やかな表情を消して、冷たい視線を相手に向けた。
 けれどそんな洋也の無表情など気にも止めずに、島津百合子はこの偶然を喜ぶようににこやかな笑みを洋也に向けていた。






NEXT