『先日はありがとうございました。桂陽プランニングの島津でございます』
 その電話は週が明けてすぐにかかってきた。会社の始業時間からすぐにかけたという勢いだった。
 島津と名乗った若い女性の声に、相手が秘書をしている娘だとわかる。
「ミツヤです。ゆっくりご挨拶もできず、申し訳ありませんでした」
「いいえ、先生にアポイントを頂けただけでも大変幸運でございました。早速で申し訳ないのですが、ミーティングの打ち合わせをお願いしたいのですが、今はお時間はよろしいでしょうか」
 澱みなく進む電話に、腰かけのお嬢さんなどと思ったのは申し訳なかったかなと思い始める。
 こちらの都合を優先してくれるとのことなので、水曜日に相手の会社に出向くことにした。そうでもなければ自宅まで押し寄せてこられそうで、それだけは願い下げだった。
 仕事を受けることになるかもしれないとは、土曜日のうちに秋良に説明してある。
 あまりに早く帰ってきた洋也に、仕事を断ってすぐにパーティーを抜け出してと決めつけていた秋良は、その説明を聞いて目を丸くした。
 忙しくならないのかと心配するのに、大丈夫だと笑って安心させる。
 実際のところ、少しは忙しくなるだろうが、それよりも手に入れたいものがあったのだ。
「すぐ終わる仕事だと思うよ。楽しみにしていて」
 洋也の楽しそうな様子に、秋良は首を傾げながらも、無理するなよと言ってくれた。
 洋也の欲しかったものは多少の無理をしてでも手に入れる価値のあるものなのだが、それを秋良に明かすわけにはいかない。
 秋良の驚く顔、嬉しそうな笑顔を見たい。はにかむ感謝の言葉を聞きたい。
 だから平気だと答えた。秋良の笑顔を思い浮かべるだけで、疲れも吹き飛ぶ。
 時間を決めて電話を置こうとすると、相手が何かを言いかけたのが聞こえて、慌てて受話器を耳に戻す。
「何か?」
「明後日を楽しみにしております」
 たったそれだけのことかと思いかけて、すぐに洋也は眉を寄せる。この娘とはもう会わないはずなのではないかと思ったのだ。
 けれど、これから洋也の担当となる社員と引き合わせるのも秘書の役目だろうと思い直して、よろしくお願いしますと答え、今度こそ電話を切った。
 たったそれだけのことに妙に疲れて、洋也は難しい顔のままで、仮眠をとるために寝室へと向かう。
 桂陽の仕事を押し込むために、昨夜は秋良が眠ってから今朝まで徹夜で仕事をしていたのだ。
 仕事を夜型にすれば、捗ることはわかっていた。それを敢えて昼型にしているのは、秋良の生活時間帯に合わせるためだ。
 徹夜で仕事を詰め込んで、午前中を睡眠時間に割り振り、昼から夕方までをまた仕事に使う。そうすれば来月の末までには桂陽の仕事もやれる。
 多少の疲労は覚悟の上だ。それだけのものを桂陽は持っている。
 もちろん、洋也の要求を聞き入れてもらえなければ、仕事を受けるつもりはさらさらなかった。
 水曜日までに出来るだけの時間を作るつもりで、洋也はベッドに横になる。
 微かに残る秋良の香りに包まれて、洋也は目を閉じた。


 桂陽プランニングの本社ビルは青いガラス張りの細長いビルで、エントランスに入ればどこかのホテルと見間違うような、落ち着いた応接セットのロビーがあり、その向こうには噴水の中庭が見えた。
 受付嬢の視線にはまったく気づかないふりで自分の名前を名乗ると、話は通っていたらしく、すぐに島津百合子が現われた。今日は紺色のスーツを着ていて、きちんと秘書に見える。
「お待ちしておりました、ミツヤ先生。どうぞ、島津が首を長くして待っております」
 先に立って案内し、エレベーターではドア近くで開閉の操作をする。その働きぶりに、洋也は自分の見解を改めざるを得なかった。秘書としては、他の仕事はわからないが、先週のパーティーの件といい、社交面では合格だろう。
 案内された応接室は深いワインカラーの絨毯と、ブラウンの調度品で揃えられた、落ち着いた部屋だった。
 応接室には先に島津が来ていた。ニコニコ顔で洋也を出迎え、親しそうに握手を求めてくる。
 それに軽く返しながら、勧められるままにソファーに座る。
「わざわざお越しいただいて申し訳ありません」
 洋也の前に島津と百合子が並んで座る。テーブルの上には書類が乗せられているが、担当となる社員が現われる様子はない。
「私はどなたと打ち合わせればよいのでしょうか」
 止めなければどこまでも続く洋也への賛辞と、自社の自慢に辟易して尋ねると、あぁと島津は自分の娘を手で示した。
「これが先生の担当となります。詳しい仕事内容や、報酬については、百合子と打ち合わせください」
 平然と話す島津に、洋也は驚きを押し隠して、問い直した。
「お嬢様は社長付きの秘書をなさっているのでは?」
「これもそろそろきちんとした仕事をしたいといいましてね。大丈夫です、大学も出ていますし、社内の仕事なら、どこでもやれるだけのことは仕込んであります」
 豪快に笑って請け負われてしまうが、洋也としてはどうにも納得がいかない。
「どうぞよろしくお願いいたします」
 二人は既にそのつもりらしく、百合子もにっこり微笑んで、何の危惧もないようだ。
 かろうじて洋也をこの部屋にとどめているのは、日本ではこの会社しか洋也の欲しいものを持っていないという、一点のみだ。それがなければ、洋也はこの時点で席を立っていただろう。いや、そもそもパーティーでとりつくしまもなく断っていたはずなのだ。
「それでは、仕事の内容と、納入期限、報酬について、ご説明願えますか」
 洋也としては思いっきり不機嫌になったつもりだが、相手はその変化に気づかなかったらしい。
 百合子はすらすらと、依頼内容、それについての期限、規約、契約についての詳細な点、報酬について説明する。
 とてもスムーズに説明は進んだが、それは誰かが作成した企画書を読んでいるに過ぎないように思われた。
「いかがでしょうか。お引き受けいただけますでしょうか」
 もう微塵も断られるとは思っていない口振りに、僅かな不快感を感じるが、ひたすらに堪えて、洋也はここへ来た目的を慎重に話し始めた。
「作成するプログラムと、納入期限について依存はありません。報酬も提示していただいた額が本来私の受けているものと大差なく、問題もないのですが、一つ提案といいますか、お願いがあります」
 そう切り出すと、島津親子ははじめて不安そうに顔を見合わせた。
「御社がお持ちのPシステム。門外不出だとはお聞きしていますが、それを報酬として24時間、私に貸していただきたいのです」
 百合子は何のことだったかわからなかったらしい。不思議そうに父親を見る。
 島津は唇を固く結んで、何かを考え込んでいるようだ。
「先生はあれをどのようにお使いになるつもりですか」
 今まで愛想はどこへいったのか、ひどく慎重に、こちらを伺っているのがわかった。
「個人的な興味です」
「あれは……、まだ発表はしていないものです」
「ええ、知っております。ですから、このようにお願いしているのです」
「先生はPシステムを持っているうちの会社だから、今日こうして打ち合わせの場を持ってくださったのですね」
 島津の顔は困惑に変わっていた。
「そうです」
 洋也は隠さずにその質問を肯定した。
「あれを貸し出すのを断れば、この仕事は断られるのでしょうな」
「申し訳ありませんが、以前から引き受けている仕事がありますので、それを優先したいと思っています」
「お父様、Pシステムってなんですの?」
「社内では父親と呼ぶんじゃない」
 好奇心から口を挟んだ百合子を、島津は嗜めた。ただ娘に甘い馬鹿社長ではないとわかって、ほっとする面もあるが、そういうけじめは今洋也が頼んでいる事を飲んでもらうには不利だと告げている。
「先生がご覧になるのですか?」
「はい。一晩貸していただければ、口外はしないと約束します」
 島津はまだ難しい顔をしていた。やはり無理だったろうかと、諦めの気持ちが働く。
「今回の仕事は先生にお願いするのが、一番速く正確だと思っています。実は他にお願いした場合、先生にお願いする数倍の時間を要する、なのにそれは正確さに欠ける。先生に仕事を受けていただくメリットと、あれをお貸しするリスクを冷静に考えた場合、やはりこの仕事を受けていただきたい。……そうですな……誓約書を書いていただくことになりますが、それでも宜しいですか?」
 洋也はほっとして、誓約書くらいならもちろん書くと返事をした。
 契約書にその項目を書き入れてもらい、洋也も誓約書を書いて、署名捺印する。
「先生はご結婚されているのですか?」
 署名の際に洋也の左手薬指に指輪を見つけて、百合子が不思議そうに聞いてきた。
 公にはもちろん結婚していないというプロフィールが流れているので、不思議に思われても仕方なかった。先日のパーティーでも同伴者はなく、一人だったので余計にそう思われたのだろう。
「はい」
「プロフィールを拝見した時には独身だと書かれていましたが」
「最近のことですから。それが何か? 独身でないと、仕事は取り消されますか?」
 いつ結婚したとははっきり言わずに、質問を切り返した。自分はいいが、相手の事を詮索されるのは避けたかった。
「いいえ。ただ、驚いただけですから」
 百合子は少し残念そうに、署名を終えた書類を受け取り、綺麗に揃えたのだった。








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