Celestial −1−






 夕焼けの赤い色が窓を一枚の絵のように照らし出す秋の夕暮れ。陽が落ちると途端に肌寒さを感じるようになる。
 白い猫はそれでも陽だまりを見つけては、その場所で丸くなって、糸のように目を閉じて深く眠っている。
 その風景を眺め、もうすぐ秋良が帰ってくるだろうと思った時、洋也の携帯が振動で着信を報せた。
 画面を見ると、珍しい名前が表示されている。本人から直接洋也にかけてくることがとても稀である。30件は表示される着信履歴の中に、その名前を見つけられることは少ないだろう。
「はい。洋也です」
 父、史也からの電話に、自分の名前を名乗って応答した。
『今、忙しいか?』
「いいえ、特には」
 母親を通しての電話ではなく、その上洋也の忙しさを気にするあたり、話は長くなりそうだと感じた。
『来週の土曜日の夜なんだが、一緒にうちの会社のパーティーに出て欲しいんだが、無理だろうか』
「パーティー、ですか?」
 あまりに唐突な申し出に、洋也は戸惑ってしまう。
 父親は外資系IT企業の日本支社長をしていて、海外への出張や関連事業でのパーティー出席も多いが、同伴者が必要な場合はいつも妻を伴って出かけている。
 両親は結婚して銀婚式も越したのだが、今でも新婚のように仲が良い。
 だから喧嘩をしたとも思えないし、自分がパーティーに誘われる理由に思いあたりがない。
『実は招待客の中に今後の取引に重要な人物がいるんだが、その人が洋也の仕事のことを知っていてね、紹介だけでもしてくれないかと申し出があったんだ。どうやら仕事を依頼したいらしい』
「仕事……ですか」
 父親が直接電話をかけてきた理由がわかったような気がした。
 これは、母親を介していい話ではないだろう。
『あぁ、仕事については、君の判断に任せる。断ってくれても私の業務の方に差し支えはない。それについての配慮はまったく必要ない。ただ、パーティーで顔合わせだけでも済ませられれば、少しばかり打ち解けられて話を進めやすいというだけなんだ。気が進まないか?』
 逡巡はするが、断るだけの理由もなかった。
「わかりました。来週の土曜日ですね。時間前に家の方に行きます」
『悪かったね。ママと一緒に来てくれると助かるよ』
 簡単な時間の打ち合わせは母親とすることにして、洋也は電話を切った。
 秋良の小学校が休みの土曜日に出かけるのは、正直なところ気が進まなかったが、これは親孝行だと言い聞かせて出席することにする。
 仕事は自分の判断で断ってもいいということだが、それについて父親の言葉に裏はないだろう。本当に断っても問題はないと思われた。
 完全に断るつもりで、洋也は母親に電話をかけた。
 そこでパーティーに出席するための服を買ってやると張り切る母親に、仕事を断るより苦労して辞退を申し出て、ようやく電話を置いた。
 散々愛想のない子だと責められたが、それについては自覚があるので、又の機会に買ってもらうからということで折り合いをつけた。
 あの調子では、当日に服が用意されているかもしれないが、文句の出ないだけの服装で迎えに行けば、何とか諦めてくれるかもしれない。諦めてくれることを期待するしかないというのが、少しばかり情けないところであるが。
 電話を終えてからはっと時計を見れば、もう間もなく秋良が帰ってくる時間である。
 今日は秋良の希望で、キーマカレーとナンというメニューである。
 ナンの生地は既に成型してあるが、カレーの方は煮込みが足りないので、慌てて火をつける。
 カレーが出来上がるまでに、サラダやスープなどのサイドメニューとカレーのトッピングを用意する。
 スープが出来上がったところで、ミルクがむっくりと起き上がって玄関へと走っていくのが見えた。
 多分もう5分ほどで秋良が帰ってくる。
 愛しい人は家に入るなり、リクエスト通りのメニューの香りに気がついて、喜んでくれるだろう。その笑顔を思い浮かべて、洋也も淡い笑みを唇に刻み、もう一度スープ鍋に火をつけた。



「土曜日の夜に出かけることになったんだ。父さんの会社のパーティーなんだけど」
「へぇ、珍しいね」
 夕食の時に経緯を説明すると、秋良は驚きながらもニコニコと聞いていた。
「秋良も一緒に行かない?」
 今更人が増えたところで問題はないだろうと思われた。外部のものが入ってもいいということは、レセプションの意味は少なく、取引関係を集めた簡単なパーティーなのだろう。
「えー、嫌だよ。パーティーなんて。堅苦しそうだし。留守番してる」
 この答えは予想していたので、洋也は苦笑しながらも、それ以上は誘わなかった。
「なるべく早く帰ってくるよ」
「無理しなくていいよ。お父さんの頼みなんだから、ちゃんとしないと」
 秋良にしても洋也の行動はある程度予想できた。一応の顔は立てるだろうが、挨拶だけをしてその場で仕事を断り、すぐにも帰ってきそうな気がして、駄目だよと笑う。
「だってスケジュールは本当に一杯なんだから、どうしてもって言われても受けられないんだ」
 実際に、秋良の夏休みにあわせて仕事を調整した分、9月からずっと忙しい状態が続いている。
 そんな洋也を、受け持ちの生徒みたいだなと笑いながら、秋良は本当に生徒に対する時のように、少しだけ怖い顔をする。
「だからね、その断り方が大切なんだよ。できません、って素気無く断るより、本当は受けたいんだけど、申し分けなく断るっていう言い方が、大人ってもんなんだよ」
 秋良の少しだけ怖い顔も、可愛いと思いながら見つめる相手には、あまり効果はないのだが、洋也は微笑みながら、わかったと告げたのだった。


 パーティーはホテルのバンケットルームを借りて開かれていた。
 午後5時に母親を迎えに行くと、ちょうど会社から迎えの車が着いたところで、イブニングを着た彼女と一緒にホテルへと送られた。入り口で待っていた父親と一緒に会場へ入ると、乾杯までにはまだ少し時間があるようで、史也は香那子を連れて招待客への挨拶に行ってしまった。
 仕方なく一人で壁の花になっていると、洋也を見知っている幾人かが声をかけてくる。
 中には何とか仕事の依頼を取り付けようとする者もいたが、忙しいからと断るのだが、向こうも必死なのか、何故このパーティーに来ているのかと、史也の会社との繋がりを知りたがる質問に辟易した。
 日頃どこの会社のパーティーにも出席しないので、よほどコネクションのある人物がいるのだろうと探られているらしい。別に親子関係をばらしても、史也が堤防になってくれるだろうからばらしても良かったのだが、どんな繋がりがあるのかわからない相手ではそれも憚られて、適当に受け流していた。
 とにかく、今以上に忙しくなることだけは避けたかった。寝る間は惜しくないが、秋良との時間だけは死守したいのが本音だった。
 ようやく数人を諦めさせた頃、パーティーが始まった。
 数人の挨拶のあと、ホストの史也が来場の感謝を述べて乾杯になった。
 あとは食事を楽しむもよし、会話を楽しむもよし、商談をするもよしの、立食パーティーである。
「洋也」
 史也が二人の人物を引き連れて、洋也の前にやってきた。
 一人は史也と変わらぬ年齢の男で、恰幅の良い身体を窮屈そうにタキシードに収めている。その横に立つのは20代半ばのイブニングドレスの女性だった。
「桂陽プランニングの島津さんだ。息子の洋也です」
 史也の紹介に右手を差し出される。軽く握手をすると、自己紹介と共に名刺を差し出された。
「はじめまして。ずっとあなたとお会いしたいと思っていました」
 ニコニコと笑う顔は、パーティーの熱気のためか、薄っすらと汗ばんでいる。
「父がお世話になっております」
 洋也も仕事用の名刺を差し出した。まだ洋也との接触を諦めきれない幾人かが近くで成り行きを見守っていて、軽いどよめきが起こった。その名刺を渡してもらえなかった人たちが、悔しそうに島津を見ていた。
「いやぁ、ずっと探してミツヤ先生が、三池社長の息子さんだとわかったときには、大変驚きました。同時に、なるほど優秀なお子さんをお持ちだと納得もしましたがね。今回はご無理を申し上げました。あ、そうだ、これは娘の百合子です。私付きの秘書として仕事をさせております」
 ようやく紹介を受けた百合子がにっこり笑って頭を下げた。名前を意識してなのか、ピンクのドレスの裾模様は百合の花が刺繍してある。
 内心でそれは秘書の服装ではないだろうと思いながらも、娘だと紹介されて、妙に納得もした。パーティーに同伴させているのだから、年の離れた妻だと思ったのだが、秘書というのは名ばかりの、腰かけ仕事の娘だったというわけだ。それなら秘書に相応しくないドレスの意味もわかった。
 しかし、洋也が気になっていたのは、島津の会社だった。
 最初から仕事は断るつもりだったので、会社名を聞いていなかったが、桂陽の名前を聞いて、僅かながら興味を引かれた。
「このような席で申し上げるのは無粋で申し訳ないのだが、どうしても先生にお願いしたいことがございまして、後ほど会合をお願いしてもよろしいでしょうか」
 洋也はその時、今後の予定を素早く計算していた。相手の仕事の内容にもよるだろうが、初めての取引の相手に、それほど重大な仕事は依頼しないだろう。それならば、詰めこみようによっては、こなせないこともないかもしれない。
「週明けでしたら、少し時間がとれます。それでよろしいですか?」
 横で史也がいいのか?と驚いている様子が伝わってきた。史也にしても、洋也がこの仕事を受けるとは到底予想していなかったのだろう。
 周りの反応はそれ以上だった。早くも洋也たちの話が終わるのを待ち構えている気迫が伝わってきた。
「では、日時は改めまして、この百合子からご連絡させていただきます」
 百合子がにっこり笑うが、洋也はお願いしますと返事をしただけだった。
 史也は周りの空気を察して、ちょうど二人の元へ戻ってきた香那子を洋也にエスコートさせることにした。
 洋也は香那子の手をとって、素早くパーティー会場を後にした。
「いいの? 仕事を受けてしまって」
 車の中で香那子が心配そうに尋ねてくる。
「まだ受けるとは決めていない。報酬次第かな」
「あら、お金に困っているわけじゃないでしょう?」
 とぼけた調子で聞く香那子に洋也は無言で笑った。
「嫌な子ねぇ。でも、気をつけなさいよ」
「何が?」
「あの社長の目的は、洋也の仕事というより、洋也自身なのじゃないかしら。あの娘さんの気合いの入ったドレスが気になるの」
「ただの秘書だよ。僕が仕事をする相手は秘書じゃない。多分、今後は営業か企画の人間がくるよ」
 もう顔も名前も思い出せない相手のことを、洋也は気にもしていなかったが、女性特有の勘は当たるものだ。
 香那子のこの心配が的外れではないことを、洋也はすぐに思い出すことになる。





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