生徒達のいなくなった校庭は、いつもの二倍の広さに見えるなと、ぼんやり見つめていると、机の上に出しっぱなしになっていた携帯電話が震えた。 もう就業時間は過ぎているしいいかと、着信の電話に出る。相手は大学時代からの親友、鳥羽だった。 『これからちょっと出れねぇ? いつもの飲み屋でみんなが集まることになったんだ』 それはまた突然だなと戸惑う。 「でも、もうすぐ一学期終了で、その時に集まるじゃないか」 学期終了時に大学時代の仲間で集まって打ち上げをするのは、卒業して以来、ずっと恒例になっていることで、今回ももう予定が立っている。 『それがさぁ、いや、これは集まってからのお楽しみだな。とにかく出てこいよ。すげー楽しめるから』 思わせぶりに告げられて、これで断ったとしても、鳥羽のことだからしつこく誘ってくるに違いない。 今はあまり出かけたい気分ではないが、少し顔を出して義理を果たせばいいかと、行くことを約束する。 洋也にも出かけることを連絡すると、楽しんでおいでと言ってくれた。 迎えに行こうかと言われたのだが、あまり遅くなるつもりはなく、中尾もいるからと断った。 校門を出たところで横付けされた車に乗り込んで、行き先の変更をお願いする。 「中尾さんは何時まで勤務なんですか?」 帰る時間を決めてしまおうかと、そんな質問をする。 「安藤さんが自宅に入られるまでですよ」 最初からそれは言われていたことだと思い出す。 「えっと……でも、今から飲みに行って、遅くなったとしたら、かなりの勤務時間になりますよね?」 普通のサラリーマンと違うことはわかっていても、そんなに長い時間をお世話になることは申し訳なく感じる。 「大丈夫です。もし、自分が疲れたら、交代の要員もいますから」 「えっと、それじゃあ、帰りはタクシーを呼びますから」 そこまでしてもらうのは、どうしても気がひけてしまう。 「それこそ駄目ですよ。僕達は安藤さんを守ることが役目ですから」 「あ……すみません」 気遣ったつもりが相手に迷惑をかけてしまう。最近はこんなことばかりだと、気持ちが沈んでしまう。 「謝らないで下さい。安藤さんに窮屈な思いをさせてしまっていることは変わりないですから」 それこそ、原因は自分にある。きちんと線引きができなかった事が悔やまれる。 一旦断ったのだから、全て拒絶すれば良かったのだ。 「自己責任ですから……」 結局は心の弱さなのだ。 他人に言われた一言が心の隅に引っかかり、それを流すことが出来ない。 「相手が非常識だっただけですよ。安藤先生に責任なんてありません」 確かに一般的な親の愛情の範囲を軽く越えている。 しかし、思いやりを感じると同時に、甘やかされている自分に自己嫌悪も感じてしまう。 今は、周囲の優しさが重荷に感じられてしまうのだ。特に、洋也の深い愛情に応えられない自分が嫌だ。 「店の入り口まで同伴します。外で待機していますので、何かあれば連絡ください」 優しい笑顔に、秋良は何とか笑顔を造って頷いた。 店に入るなり鳥羽に呼ばれた。 先に集まっていた連中は、もう飲み始めていた。その陽気さに溶け込めなくて、身体が引けてしまう。 「秋良、秋山がさー、結婚するんだってさ!」 鳥羽の大きな声に、言われた本人が赤くなって頭を掻く。 「ええっ、そうなんだ、おめでとう」 目出度い話題に、秋良はそれまでの憂鬱を忘れて、心からおめでとうを言う。 秋山はますます照れてしまった。 「その上さ、なんとさ、年明けには赤ちゃんが生まれるんだぜ? 教師がそれはありかよって話じゃね?」 そう言いながらも、鳥羽も嬉しそうだし、本人はそれはまだオフレコでと慌てているが、満面の笑顔だ。とても喜んでいるのがわかる。 そこからはもう、他の客が少ないこともあって、秋山本人よりも周りで盛り上がってしまう。 早めに帰ろうと思っていた秋良も、それにつられて、ついつい杯が進んでいた。 「お、おい、鳥羽。お前が止めねーから」 鳥羽はもっぱら秋山をからかうことに熱中し、別の友人に袖を引っ張られるまで、秋良のことを忘れてしまっていた。 「え? え、おい。誰だよ、秋良に飲ませた奴!」 教師になって一年目、秋良の愚痴に付き合って飲ませすぎ、そのまま鳶に油揚げを奪われたことは、まだみんなの記憶には新しい出来事である。 もちろん、今はその相手を受け入れて、秋良との友情も変わりなく続けているが、ちょっとしたトラウマではある。 秋良自身も落ち着く相手を得て、深酒をすることなどなくなっていたので、安心しきっていた。 「飲ませてねーよ。ってか、いつの間にかこうなってて」 秋良は大きなグラスを片手に、まだ飲もうとしている。 「秋良、もうやめろって」 鳥羽は慌ててグラスを取り上げる。 秋良の身体のことも心配だが、それ以上に気にかかるのは、秋良を愛する人の存在だ。 多少は文句を言われても、口出しするなと突っぱねる気は満々だが、秋良の行動に対して制限をかけられてしまえばどうしようもない。 「なんだよー、飲ませろよー。祝い酒なんだろー?」 絡み酒だ。座った目つきで鳥羽を睨む。 「これ以上は駄目。洋也さんに怒られるだろ」 それで納得するかと思った秋良は、むっと唇を突き出した。 「いいよな〜結婚しちゃえば、離婚なんて心配ないんだろ〜?」 テーブルに顎をくっつけるように沈み込んで、秋良はブツブツと零す。 「甘えて、わがまま言ったくらいじゃ、別れる心配しなくてもいいんだー」 その時、みんなの頭に浮かんだのは、どの口がそれを言いますか?という台詞だ。 だが、懸命にも口に出さなかった。絶対に絡まれる。 「喧嘩したのか?」 鳥羽が横に座り、話を聞く態勢に移ったので、他のメンバーはこれ幸いと他のテーブルに移ってしまう。 「喧嘩なんてしてない」 「だよなー。いつもは喧嘩じゃなくって、お前が一方的に洋也さんに難癖つけてるだけだもんなー」 「そんなことしてない」 ぷっくらと頬を膨らませる。 今夜の秋良は非常に子どもっぽいと、鳥羽は苦笑すると同時に、本当はかなり深刻なのではないかと気になり始めた。 「何かわがままを言って怒らせたのか?」 秋良が星を取ってといえば本当に取ってしまいそうな相手に、怒らせるほどのわがままって存在するだろうかと疑問が浮かぶ。 きっと秋良が勘違いをしているだけだろう。ならばその勘違いを正せばいいだけだ。 「わがまま……なのかなぁ」 ぐすっと鼻をすすって、またグラスに手を伸ばした。 手元のグラスはこっそりウーロン茶に変えておいたのだが、気がついて怒るかと思ったが、既に飲みすぎている秋良は、味の違いがわからなかったようだ。 想像以上に酔っているようだ。 「洋也さんと籍を入れたいのか? それなら方法はあるぞ」 秋良がグズグズとわけを話さないので、鳥羽は思い当たる部分をついてみる。 それでも言わないところを見ると、これはいよいよやばい部分なのではないかと勘付いた。 「結婚すればぁ……相手できなくても……離婚になったりしないよな?」 一気にウーロン茶を飲み下した秋良は、どんっとテーブルにグラスを置いて、そんなことを口にした。 隣のテーブルの面々が、そうっと秋良を振り返る。 いや、それは、一応離婚事由の対象になるのではと思いながら、もちろん指摘はしない。泣かれたりしたら大変だ。 「嫌なときは断ればいいじゃん。無理強いされたら俺のところに逃げて来い」 「……………………違う」 何が違うんだ。全くわからない……というより、鳥羽はあまりわかりたくなかった。 「だけどさ、洋也はすればいいと思うんだ」 話が飛びすぎて、繋がりが見えない。いや、これは、俺が理解しようとする努力を放棄しているからか? と友人達を見るが、みんなも首を傾げるだけだ。 「薬とか飲めばいいのかな? ほら、あれ、なんていう薬?」 バ? ブ? と言いながら、薬の名前を思い出そうとしているようだ。 「鳥羽、持ってる?」 「持ってるわけねーだろ」 軽く頭痛を覚える。 「ってか、もしかして、お前が出来なくて、洋也さんにはしてもいいって言ったのか?」 秋良仕様鳥羽脳内辞書で補完すると、そういう語訳が成立してしまう。 「……いい案だと思ったんだけど」 「そりゃ洋也さんが怒って当たり前だ、ボケ」 こつんと軽く頭を叩くと、秋良はじわりと目に涙をためて鳥羽を睨んだ。 「なんでだよー。洋也は出来るじゃないか。だって、浮気とかされるより、そっちがいいじゃないか」 はーっと溜め息がこぼれる。 その思い違いというか、変な心配をとりあえずやめろと怒鳴る。 「どうして僕ばっかり怒られるのさ」 「怒ってない」 鳥羽のグラスを取ろうとしてきたので、本日の主役であったはずの秋山に、代わりのウーロン茶をもってこいと合図する。 これはもう明日になれば記憶もないだろうと思われたので、本人の前で堂々と洋也に電話をかけた。 「洋也さん? 迎えに来てもらえます? 潰れました」 送っていってもいいが、それよりは顔を見て言ってやりたい。 「潰れてない! 鳥羽のバカ!」 秋良の抗議の声が電話の向こうに届いたようだ。 「気がついたら飲みすぎてました。すみません」 一応、それについては謝っておく。 『すぐに出ますが、大丈夫なようなら、飲ませてやってください』 気落ちしたような声に、言いたかったことが薄れていく。やはり、夫婦の喧嘩に口出しなどするものじゃないなと肩を落とす。 秋良が鳥羽にバカだ嫌いだと愚痴をこぼしながら、ほとんどシートに沈み込みそうになった時、洋也が店にやってきた。一人の青年を連れてきている。 その男に鳥羽も見覚えがあった。なにやらまた、騒動があったらしい。 「秋良、帰るよ」 軽く挨拶をした洋也が、秋良の肩を抱くと、秋良は酔いの回った目で見上げて、嫌だと抵抗する。 「もう少し飲む?」 「……飲む」 「でも、みんなが困ってるから、また今度にすれば?」 頭を揺らしながら、秋良は少し考えて、うんと頷いた。 そんな大虎を軽々と抱き上げて、洋也はすみませんでしたと帰って行った。 秋良についていただろうボディーガードが慌ててドアを開けている。 パタンとドアが閉まり、盛大な溜め息が全員の口から出た。 「さぁ、飲みなおすぞー! 潰れたものの勝ち!」 酔い逃げ上等と鳥羽が叫び、みんなはまたグラスを手に取った。 次頁……………… |