何事もなかったように翌朝を迎え、ごく普通に洋也に送り出される。 ほっとすると同時に、洋也に気を遣わせているのだと申し訳なさも感じる。 浅い眠りで寝返りを繰り返す秋良を、安心させるように優しく包み込んでくれた。 恋人の体温と匂いは、秋良の大好きなものだ。包まれるだけで気持ちよく眠れるものだ。 実際、すぐに眠りに引き込まれるものの、それは浅く、夢ともいえないような夢にうなされて、すぐに目が覚めてしまう。そして寝返りを打っては洋也に抱き寄せられた。 あれでは洋也もちゃんと眠れなかっただろうと思う。 けれど、目覚めたときから眠そうな素振りは一切なく、いつもと全く変わらぬ様子で送り出してくれた。きっと帰宅したときも変わらないままだろう。 吉本のあの言葉を思い出してさえいなければ、秋良も帰る頃には昨夜の出来事など、ほんの笑い話だったかもしれない。 でも駄目だ。気持ち悪い。 自覚してなかった精神的な傷を、自ら刻みつけてしまった。もう気づかなかったことには出来そうにもない。 ……気持ち悪いのだ。 身体を繋げる行為が、ではなく、自分の身体に起こる反応が気持ち悪い。 特別なことではなく、今まで普通にしてきたことなのに、むしろ心まで全部、洋也と繋がれることは喜びであることは間違いがないのに、自分の身体が気持ち悪い。 これが自分一人のことなら、秋良はたいして問題とも思わなかっただろうし、困っていなかっただろう。特に問題だとも捉えずに済ませていただろう。 しかし、愛する人がいて、一緒に暮らしていて、相手に望まれる行為であるということが、秋良を焦らせていた。 このままでいいはずがない。何とかしなければ。 洋也はきっと秋良に無理強いなどしない。秋良が無理だと言えば、たとえ言えなくとも今回の場合、身体が反応しないので隠しようもなく、洋也は今朝のように何事もなく見せて、秋良に負担のないように振舞ってくれる。 洋也が嫌いなのではない。拒否したいわけでもない。 むしろ、抱き合いたいと思う。 今は自分の身体が気持ち悪いのだ。……洋也にも見せたくない、こんな自分は。 色々と思い悩み、解決など見出せそうになく、秋良は暗い気持ちに沈んでいた。 表面上は穏やかに、秋良自身も時には忘れるくらい平和な数日を過ごした。 変わらぬ日常を過ごしていると、自分の悩みも、もしかすると思い過ごしなのじゃないかと思えてくる。 元々は他人から言われた不快な一言に過ぎない。自分が嫌なのではなく、ちゃんと相手に不快感をぶつけるべきだとすら思うようになった。 自分は怒って当然なのだという、ごく自然な結論へとたどり着く。 だからと言ってもちろん、もう一度吉本に会うのは絶対に嫌だ。色んな手続きもちゃんと弁護士がしてくれていて、あとは何の問題もない。 あーせいせいしたっ、と心の中で相手を罵り、これで終わりだと決め付けた。 だから、ベッドの中で抱き寄せられ、おやすみのキス以上に口接けが深くなっていったときも、秋良は不快感や不安などは感じていなかった。 洋也の手がパジャマの上から撫でるだけの愛撫を繰り返している間も、今夜は焦らすんだな程度に思っていた。 自分のほうから洋也の背中にしがみつき、身体を密着させる。 「愛してる……」 優しい声が耳に届く。 その声が好き。愛してると言われると、知ってるよと笑いたくなるくらい幸せだ。 でも言ってもらいたい。恥ずかしいけれど、その声を聞きたい。 耳朶を甘く噛まれると、喉の奥で自分の声が震える。 何度も何度も繰り返してきた行為だ。心配なことなど何もない。 深い青の中、揺れる淡い光の中、自分の身体を辿る手は洋也のものだと知っている。身体が知っている。 なのに……。 パジャマのゴムを潜り、洋也の手がその場所に伸びてきたとき、全身に鳥肌が立った。 ざわりと体温が下がるのを感じた。 「ち…、違う……」 ピタリと止まった洋也の手に、慌てて首を振ったが、声が喉に絡まった。 「そのまま……続けて」 なんでもないんだと言う秋良を、洋也は優しく抱きしめた。 「無理しなくていいんだよ」 労わるように髪を撫でられ、こめかみにキスをされても、泣きたくなる気持ちを晴らすことはできない。 「無理じゃないよ。だから、続けようよ」 焦る秋良に、洋也はトントンと背中を叩く。 「今夜はもう寝よう」 駄々をこねる子供を宥めるような声。 きっと洋也は明日の朝もいつもと変わらぬ調子でおはようを言い、いってらっしゃいと送り出してくれるのだろう。ほんのわずかも秋良を責めないで。 「いいよ、しようよ」 秋良はむきになって洋也のパジャマに手をかけたが、その手をやんわりと止められた。 「洋也!」 むっとして手を引き抜こうとするが、強く握られて敵わない。 「秋良、いいから」 「良くないよ。だって……ずっと……してなかっただろ」 「だから、今夜もしなくてもいい」 洋也は秋良に無理をしなくていいからと言おうとしてくれているのだとはわかっていても、それを冷静に受け止められなかった。 むしろ慰められているような、惨めな気持ちになっていた。 「洋也はしたいんだろ」 静かに首を振り否定されると、余計にむきになってしまいそうだった。 「じゃあ、僕とはもうしたくないんだ」 「そんな意味じゃないよ。秋良に無理をさせたくない」 「だから無理じゃないってば。や…やってれば、……その気になるよ、きっと」 意地になって洋也のパジャマのボタンを外す。 「秋良、もう今夜は」 やはりその手を優しく、けれどきっぱりと止められて、秋良は泣きたくなった。 違うのに。嫌なんじゃないのに。 洋也に伝える言葉を選べなくなり、どうやって気持ちを伝えればいいのか、わけがわからなくなっていた。 「あ、あのさ、洋也はできるじゃないか」 「何を……」 泣き出しそうな秋良の言葉の意味を探ろうと、洋也が目を細めて見つめてくる。 「僕が……そのさ……できなくても、洋也は、……できるじゃないか。うしろだけ使えば……」 驚きに目を開き、洋也はすぐに眉を寄せて、がばっと起き上がった。 秋良がこの身体を使え、お前だけ気持ちよくなれと、差し出そうとしていることがわかった。 そこまでしようとしている秋良が痛ましく、自分の欲望の深さが憎かった。 ここ数日の秋良は悩みも晴れてきた様子で、笑顔にも曇りがなくなって、それでほっとすると同時に、もう少しの猶予も持てず手を伸ばした自分の浅はかさに憤った。 「洋也……」 不安そうに洋也の背中を見つめる秋良に、はっとして振り返る。 「洋也……あの……あのさ」 さっきまでむきになって洋也のパジャマを脱がせようと伸びてきていた手が、今はぎゅっと手元のシーツを握りしめている。 洋也は愛しさと憐れさで胸がいっぱいになった。そして自分の愚かしさで頭が沸騰しそうだったのが、そんな場合じゃないと目を覚ました。 秋良を抱き寄せると、腕の中で細い身体が小さく震えていた。 痩せている……。今頃気づいたことがまた悔しかった。 秋良はほとんど洋也に気づかせず、多分自覚もないままに悩みを胸の奥に沈み込ませ、知らず知らず心を蝕ませていったのだろう。 「秋良。僕は秋良を抱きたいよ。毎日でも、毎晩でも」 「だから……」 背中に回され、必死で握りしめてくる手が哀しい。 「でもそれはね、僕の欲望を処理するためだけにしていることじゃないだろう?」 それはきっと通じているはずだ。秋良だって、本当はわかってくれているはずだ。 「僕は秋良にも気持ち良くなって欲しい。身体だけじゃなく、心の中全部を抱きしめて、幸せだと感じて欲しい」 「いつも……そう思ってるよ」 涙声が必死で気持ちを伝えようとしている。 泣かせている自分が呪わしい。 「だったら、どうして自分の体を大切にしてくれないんだ。道具のように扱わないで欲しい」 秋良の気持ちはわかる。そこまでしてと思ってくれる気持ちは嬉しいが、同時に苦しいのだ。こんなに自分が苦しいのなら、秋良が苦しくないはずがない。 「だって……」 「一生しなくたっていいんだよ。僕は秋良を性処理の相手にしようなんて思ったことはないし、これからも絶対にしない。セックスしなくても、一緒に暮らしていられることのほうが大切なんだ。負担を一方だけが背負うなら、一緒に暮らす意味なんてないだろう? 秋良の荷物を僕も分けてもらいたいし、寄り添って生きていきたいんだ」 しがみついてくる身体が愛しい。ただただ愛しい。 「秋良、愛してるよ。大好きだよ」 どれだけ言えば、繰り返せば、この気持ちが伝わるだろう。この心ごと、秋良に渡してしまえたらいいのに。 「荷物を持ってって言ったら……全部持つくせに……」 幾度か涙を飲み込んでこらえたあと、泣いた自分を誤魔化すように、秋良が洋也の言葉を訂正した。 「持たせてくれるなら、全部持つよ、当然」 冗談に答えるように言ったが、まぎれもない本音だ。 秋良が何の屈託なく笑っていられる日常。 それを奪う者がいたら、絶対に許さない。 強く抱きしめ、洋也は頭に浮かんだ人物を、暗闇の中に睨みつけていた。 次頁……………… |