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  「僕は学校を辞めます」
 秋良は席を立った。
 そんなことができるはずがないと、吉本は余裕の表情でにやりと笑った。
「君ね……」
 ガチャンと音がして、あっと声があがる。
「も、申し訳ありません」
 秋良の肩から胸にかけて、じっとりと濡れていた。
 ウェイターが頭を下げたところに、フロアチーフがやってきた。
「君、なんという不始末だ」
 なんともない吉本が怒りをぶつける。
「申し訳ございません。お召し物を整えさせていただきたいので、どうぞこちらに」
「いえ、大丈夫です、これくらい」
 秋良は自分のハンカチで濡れたところを軽く拭くが、じっとりとしみこんだそれは、すぐには乾きそうになかった。
「代わりのお召し物や羽織っていただくものもございますので、お越し願えませんでしょうか。店長もお詫びを申し上げたいとのことでございますので」
「安藤先生、そのままじゃあ困るでしょう。服も弁償してもらうといいよ」
 そんなつもりは全くなかったが、吉本が尊大な態度でウェイターを詰るのを見ていられず、チーフについてテーブルを離れた。
 案内されたのはスタッフルームの隣にある小さな会議室のようなところだった。
「安藤様、申し訳ございませんでした。実は、お困りのようでしたので、何かトラブルをと思いましたところ、思いもかけずたくさん水をかけてしまったようです。本当に申し訳ありません」
 店長とチーフ、ウエイターに揃って深く頭を下げられて、秋良のほうが恐縮してしまった。
「頭を上げてください。困っていたのは間違いないですから。助けていただいてありがとうございました」
「差し出がましいようですが、何かお手伝いできることがございましたらお申し付けください。着替えのほうはすぐにも用意いたします」
 何度か挨拶もした事のある店長は、秋良の事もよく覚えていてくれたらしい。
「それじゃあ、厚かましいですけど、電話を貸してもらえませんか? 迎えに来てもらいたいので」
 携帯電話はカバンの中で、それは席に置いてきてしまった。取りに戻ったら、席を離れるのは難しくなるだろう。
 すぐに電話の子機が運ばれてくる。洋也の固定電話のほうへ電話をかけた。
「あ、洋也? 悪いんだけど、迎えに来てくれるかな?」
『遅いから心配してたんだ。まだ学校?』
 本当に心配そうな声で聞かれて、秋良は首を傾げてしまう。
「吉本さんの秘書から連絡がいったよね? 食事に誘われて、レストランに来ているんだ」
 レストランの名前を告げる。
『何かトラブルがあった?』
 洋也の声が低くなる。
「うん。ちょっと……。だから、迎えに来て欲しいと思って」
『すぐに行くから』
 慌てたように電話が切られてしまう。
「多分、30分ほどで来てくれると思います。ありがとうございました」
 電話が終わったときには、着替えのシャツを差し出された。
「お借りしてもいいんですか?」
「そちらはクリーニングに出させていただきます」
「そんなにいいものじゃないんです。家で洗濯できますから」
 困っているのを助けられて、それ以上の迷惑はかけられず、秋良は丁重な申し出を辞退する。
「お席のほうには安藤様がご気分を悪くされて休んでおられるとお伝えして参ります。個室のほうに移っていただいて、ドリンクとデザートのサービスをしておきますので、三池様がお着きになるまで安心してここでお休みください」
 温かい気配りにほっとするが、そこまで迷惑をかけるのが申し訳なく感じる。
「でも……」
 着替えが済んだところに、一人の男性が案内されてきた。
「中尾さん」
 その人の顔を見て、秋良は驚いて名前を呼んだ。
「申し訳ありません。一番近くにいたのが私なんです。島永も十分ほどで到着の予定です」
 どうやら洋也は、自分が到着するまでに秋良の安全のため、できる限りのことをしていてくれたらしい。
「すみません……ご迷惑をかけて」
 先週まで二週間近く秋良の護衛をしてくれていた中尾は、自分が離れたことを酷く後悔しているようだった。
「いいえ。こちらの判断ミスです。大丈夫でしたか?」
 秋良はほっとしたように笑った。
「もう大丈夫です」
 秋良は自分を力づけるように頷いて立ち上がった。
「安藤さん?」
 中尾が不思議そうに名前を呼ぶ。
「これ以上はご迷惑をおかけできませんから。僕がちゃんと断って、吉本さんたちには帰ってもらうようにします」
「三池さんが来られてからでもいいのではないですか?」
 心配顔の中尾に待つように提案されるが、秋良は静かに首を横に振った。
「でも、断るのは僕ですから」
 秋良はそう言って、中尾を安心させるように笑った。







 それでもせめて立ち会うだけでもと、同席するのを求めてきた。
 秋良もそのほうが心強く感じたので、一緒についてきてもらうことにした。
 まず店長がお詫びをということで個室に入り、吉本に謝罪をした。
 その後に入ってきた秋良が中尾を連れてきたことで、店長に向けかけた抗議を驚きと共に飲み込んだ。
「安藤君、どういうつもりだね」
 それまでの好意的な態度を消し、秋良を睨んでくる。
 娘のほうは秋良たちをちらりと見ただけで、後は興味もなさそうに自分の爪を触り始めた。
「先ほどのお返事を」
「関係ない者は出て行ってもらいたい」
「中尾さんは僕の立会人です。関係ないと仰るなら、個人的な話に僕の職業をにおわせないで欲しかったです」
 はっきり告げると、吉本は不愉快そうにしながらも、出て行けというゴリ押しはできなかったようだ。
「こちらは何一つ君の不利になるようなことは言っていない。君に教師を辞めるとも思えない」
「いいえ、辞められます。僕は大切な人をたとえどんな形であれ裏切ることはできない。そのために生徒たちにわずかでも不利益なことがあるのだったら、自分ひとりの我慢くらい、迷わずに受け入れられます」
 真っ直ぐな姿勢、揺るがない瞳。決意の込められた唇。どれもが凛々しく、美しかった。
「だから吉本さんのお話はお断りします。そのために妨害があるのならば、僕は教師を辞めます」
 きっぱりと告げて、秋良はすっと頭を下げた。
「そういえばこちらが引き下がるとでも思っているのかね」
「その場合は、こちらも全力で対抗します」
 忌々しげに唇をゆがめる吉本に、秋良が返事をしようと口を開きかけた時、背中越しに厳しい声がかけられた。
 驚いて振り返ると、洋也が島永を連れてドアを潜ってきた。
「洋也……」
「そちらが本当に安藤に対して、職業上の圧力をかけた場合、どんな内容であれ、即座にそれに対向する手段をとります」
「そんなことをすれば、君たちの関係だって公けになるだろう」
 吉本は洋也の迫力に飲まれつつも、負けはしないとばかりに貫禄を見せつけようとしている。
「かまいません。そのために辞める覚悟もあると、先ほど申し上げました」
 秋良が落ち着いた口調で反論する。
 洋也が背中に手を添えてくれているので、心強くいられる。
「吉本さん、私の大学の西山教授ですが、私立学校連盟の理事を退任される意向のようです。以後は恵慈黎(ケイレイ)教育大学への便宜は図れないでしょう」
 洋也の評価に聞いたという人物を探り当てるのは造作もないことだった。学長を通して圧力をかけるまではないかと躊躇っていたのは、今までは無害だったという点だけだ。
 こちらに牙を剥いてくるというのなら、遠慮はしない。
「わかった。手を引こう」
 分が悪いと感じたのか、吉本は悔しそうにしながらも、引き際を見切ったらしい。
「明日、こちらの弁護士が伺います。念書という形を取らせていただきます」
 そこまでと驚いた吉本だったが、苦々しい表情をし、娘を立たせて帰っていった。
 彼女は最後まで秋良をちゃんと見ることもなく、本人の意思を少しも見せずに帰っていった。
 隣に立っていた洋也に肩を抱かれ、秋良は大きく息を吐き出した。
「中尾さん、島永さん、わざわざありがとうございました」
 ほっとして、秋良は駆けつけてきてくれた二人に礼を言った。
「洋也もありがとう」
「弊社の調査不足でした。ご迷惑をかけて申し訳ありませんでした」
 洋也は部屋を替えてもらい、島永と中尾に軽食を出してもらった。
「明日には弁護士に念書を書いてもらうとして、同時に調査をできる限り深く進めてください」
「そこまでしなくても……」
 洋也に負担をかけるのは申し訳なくて、秋良はもう解決するのだからと止めた。
「最初から慎重にすべきだったんだ。今度はどんなことも漏らさずにするよ」
「安藤さん、これは私たちの調査不足が原因です。信頼を回復すべく、徹底して取り組みます。それでまた窮屈だとは思うのですが……」
 秋良はすまなそうに言われて苦笑した。
「調査が済むまででいいんですよね?」
 またガードされるのだとわかり、今度もまた相手に乗せられたという負い目があるので、いらないとは言えなくなっていた。
「よろしくお願いします」
 神妙に頭を下げる秋良に、洋也はほっとしながらも、一抹の不安を拭えずにいた。
 その不安は、洋也にも、ましてや秋良自身にも、思いもかけない形で現われたのだった。






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