Physical





 子どもを数字でしか見ていないんだよ、生徒を進学率の道具だと思ってるのかな、背番号つけて呼んでるんじゃないかと疑っちゃうよ。
 秋良の愚痴は食事の間にも続いていた。
 最初はうんうんと聞きながら、食事が済んだ後はソファーに並んで座り、宥めるふりをしながら甘やかす。
「本当にむかついたんだ」
 洋也の胸に擦り寄りながら、最後の言葉を零したときには、蝶はくもの巣に絡め捕られたようなものだった。
 優しく髪を撫でながら、こめかみにキスをすると、秋良の腕は洋也の背中に回される。
「最初から秋良は断ると思っていたよ」
「……うん」
 洋也ならわかってくれるという安心感と信頼は、秋良を幸福な酩酊へと誘う。
 指先で顎を持ち上げると抵抗は感じられず、唇をしっとりと合わせる。
 舌先をくすぐると、秋良がわずかに逃げようとする。
 一度は唇を離して逃がしてやり、すぐに強めに抱き寄せた。
「洋也……」
 ここじゃ嫌だという甘えのサイン。
 しっかりと抱き上げると、縋りつくように首に抱きついてくる。
 もう可愛くて仕方がない。
 ひそやかに微笑んで、愛しい人をベッドまで運ぶ。
 静かに下ろすと、目が誘うように見上げてくる。
 ぞくりと背筋に震えが走る。
 何度抱いても、どれだけ深く繋がっても、欲望に終わりは見えない。それどころか、さらに渇望が深くなる。
 焦りを押し隠し、優しくキスをしながらシャツのボタンを外す。
「洋也……シャワー浴びてない……」
 慎ましやかな人は、自分の身体が綺麗ではないと気にしている。
「あとで一緒に入ろう。今は、秋良の香りを楽しませて」
 こんなことを言えば恋人がひどく恥ずかしがることはわかっていても、それでも言わずにはいられない。
 甘い匂いを吸い込むように口接ければ、秋良の体温が上がったような気がした。
「やめ……」
 いつもはその言葉さえ楽しめるのだが、今夜はそんな余裕はなかった。
 抱きしめたい。強く。干からびたような渇きが洋也を襲う。
「ん……や……」
 秋良の堪えるような喘ぎが渇望を煽る。
「秋良……愛してる…」
 どれだけ言っても足りない。言葉で秋良の身体を満たしたい。
 秋良を掴み捕ったはずなのに、手足をもがれたように飢えているのは洋也のほうだった。







 恵慈黎(ケイレイ)教育大学の吉本の誘いを秋良が断り、その週末で島永の護衛も終了した。
 洋也はもう少し付いていてもらうほうがいいのではと提案したが、相手が暴力的なイメージを嫌う学校であることと、島永の調査でもしつこい勧誘は他にはないとのことだったので、打ち切りにした。
 秋良は平常通りに出勤し、子ども達と平和に過ごしていた。
 金曜日の放課後、秋良は教育委員会から提出書類について不備があったので、できれば即日で訂正印を押しに来て欲しいと連絡を受け、何がまずかったのと首を傾げながら市役所に向かった。
 書類は不備と言われれば不備だが、たいていは問題もなく通っていたもので、それでも一応間違いではあるので訂正印を押して、すぐに市役所を出た。
 このまま帰宅しようか、一度学校に戻ってやろうと思っていた仕事を片付けてしまおうかと迷っていたら、安藤先生と声をかけられた。
 誰だろうと振り向くと、そこに吉本正敏が立っていて、酷く驚いた。
「こんにちは。先日は失礼しました」
「いえ、僕のほうこそ大変失礼しました」
 洋也に愚痴を吐きまくった秋良は、多少はすっきりして、吉本と挨拶を交わせた。
「こんな所でお会いできるとは思いませんでした。どうでしょう、食事でもご一緒していただけませんか」
 強引な空気を感じさせつつ、態度だけは丁寧さを崩さない。
「いや、でも……」
「実は先日の先生のご指導方法に感銘を受けましてね。いえ、もう、我が校にお誘いするのは諦めました。スカウトの話は一切いたしません。ただ、私共の間違いをきっぱりと指摘してくださったことに感動しまして。これからは我が校も生徒第一主義に方向転換できるようにと、考えていたところなんです」
「はぁ……」
 勢いよく話されて、相槌の暇も感じられない。
「ですが、先日のお話はあまりにも短かった。もっと詳しくお話を聞けばよかったと、そればかり後悔していましてね。なんとかしてもう一度お会いできないものかと、そればかり考えていました」
 熱心に、愛想良く語りかけられて、秋良は退路を見つけようと必死になっていた。
「是非一度、また今度などと言っていたらいつになるかわかりません。今日、こうしてお会いできたのも縁です。是非ともお食事に誘わせてください」
 逃げようとする秋良の背中を、なかば掴むように押して、吉本は自分のペースに引きずり込んだ。
「でも、僕は、一度学校に戻ろうと思ってまして」
「もう今から戻っても、たいしたことはできませんよ。中途半端になってしまいますよ?」
「あ、あの……、家で食事を作ってくれてますから」
「おぉ、そうですねー。でも、軽い食事くらいなら大丈夫じゃないですか? そんなにお引き止めはしません」
 さぁさぁと背中を押される。そうしているうちに、吉本の車がやってきてしまった。
「すぐにお返しします。帰りは家までお送りしますよ」
 絶対に諦めないという空気を感じて、秋良は溜め息をつきながら、車に乗ってしまった。







 移動の車中では、教師の引き抜きは思うほど進んでいないということや、最近の大学生が甘い考えをしているなどということを話していた。秋良は話のスピードについていけず、ただ頷くことのほうが多かったが。
 途中で家に連絡を入れたいのだと申し出るが、吉本は私のほうからしておきますからと、前の席に座った秘書らしき人物に、食事中に連絡しておくようにと命じた。
「ここです。ここの料理は美味しくてね。ずっと贔屓にしているんですよ」
 車が着いたのは、秋良も洋也と来た事のある、和食とフレンチを融合させた創作料理のレストランだった。
 洋也と来るとウェイティングルームに通されるのだが、今はすぐにテーブルに案内された。
 フロアも奥庭に面した場所ではなく、街路樹に面した表側だった。
 こちら側もフロアがあったのかとキョロキョロしていたら、吉本はそれが場慣れしていない田舎者とでも思ったのか、はははと鷹揚に笑い、ボーイにも尊大な態度で早くしろと命令した。
 その様子を見て早く帰りたいなと思っていると、案内されたテーブルに先客があったのに、秋良は立ち止まった。
 白いクロスのかかった丸テーブルには、若い女性が一人で座っていた。
「あの……吉本さん?」
「あぁ、これは私の娘の十和子です。昨年女子大を卒業しましてね、今は家事見習いをさせています。十和子、安藤秋良先生だ」
 女性はゆっくりと立ち上がり、何も言わずに頭を下げた。そしてまたそのまま座る。
「いや、どうも、この子は極度の恥ずかしがりでしてね。初対面の人には人見知りをして何も話せなくなるようです」
 だったらどうして連れて来るんだよと言いたかったが、元々は娘と二人で食事をするつもりだったのかもしれないと思い直した。
「でしたら僕のほうがお邪魔ですよね」
 娘が嫌がって、これはお流れということになってくれないかと、わずかばかりの期待を抱く。
「いえいえ、人見知りしているだけで、娘も安藤先生にはお会いしたがっていたんですよ」
 そうは言うが、十和子は表情も変えずに、ただじっと座っているだけだ。愛想笑いもしない。
「こちらで勝手にコースを決めさせていただきましたよ」
 アペリティフから始まり、コースがよどみなく運ばれ始める。
「あの、一度家に連絡を入れておきたいのですが」
 スープを飲んだところで、このままコースになだれ込めば連絡もままならないと思い、秋良は一度席を立とうと思った。
 吉本は先ほどから娘の話しかしないし、十和子といえば人形のように表情もないままで、黙々と食事をしている。
「大丈夫です。秘書が連絡しましたので。帰りも責任を持ってお送りすると申し上げましたら、快くご承諾くださったそうですよ」
 そこまで言われて、嫌だ連絡するとは言いにくく、秋良は落ち着かないまま、とりあえずは早く終わらせようと食事のペースを上げた。
「ところで先生、そろそろ周りも結婚を勧める頃合じゃないですか?」
 メインディッシュが終わったところで、吉本がおもむろに切り出した。
「吉本さんもご存知なんでしょう? 僕と三池の関係を」
 避けていた話題をふられ、嫌な感じを抱きつつも、吉本は知っているはずだと牽制した。
「でも、周りには公表なさってないでしょう? それなら色々と縁談も出てくる頃だ」
「今のところはありませんが、あっても断ります」
「理由を聞かれたら? 色々と面倒でしょう」
 何が言いたいのだろうと、秋良は返事をせずにフォークを置いた。
「どうでしょう、この十和子と結婚しませんか?」
「そんな無理なこと……」
 自分の名前が出ても、十和子は興味もなさそうで、ナプキンで口元を拭いている。
「もちろん、実際に結婚生活を送れとは言いません。安藤先生は今までの生活のままでいいんです。いわば、偽装結婚ですね」
 思いもかけない内容に、驚愕ばかりが大きい。
「この子は人見知りが激しく、そして男性恐怖症なんです。結婚も絶対にしたくないというんですよ」
 秋良が疑惑いっぱいで十和子を見ると、彼女ははじめて秋良を見て、そして造られたような笑顔を見せて頷いた。
 綺麗な女性だとは思うが、あまり生気は感じられず、彼女自身が造られた物のような無機質さを感じる。
「だったら……」
「ですが、子どもは欲しいというんです」
 秋良は後ろへと身を引き、椅子がガタンと鳴る。
「結婚は嫌がるわけで、精子バンクも考えたのですが、吉本家の娘に私生児を産ませるわけにもいかないですしね。そこで考えたのですよ。安藤先生は男性にしてはとても柔らかなイメージのあるかただし、心に決めた人とは書類上の結婚はできない。この子とどうしろとは言いません。体外受精でいいんです。子どもが生まれたらすぐに離婚してくださってかまいません。どうですか、先生にとっても、そんなに悪いことではないでしょう? 男性がいつまでも独り身でいると周りはやかましく言うでしょう。でも離婚歴があると、結婚を勧められても言い訳もできます」
 話の途中で眩暈がするようだった。
 グルグルと足元が回っているような不安と不快と、怒りを感じた。
「できません、そんなこと」
 立ち上がっていた。
 どんなに失礼であっても、このまま帰るつもりだった。
「先生の生徒、今は6年生ですよね。何人、うちの中等部を受けるでしょうか。うちだけじゃなく、私立学校連盟というのは、意外と横の繋がりもしっかりしていましてね。担任の影響で生徒に歪みがあるなどと噂が流れたら、どうなるでしょうかね」
「それは……脅しですね」
 はじめて感じる強い怒り。
 けれど、同時に受験をするのだと頑張っている生徒の顔も浮かぶ。
 テーブルの間には不穏な空気が漂っているというのに、十和子はぼんやりと外の景色を眺めている。
「脅しじゃありません。ただ、貴方にとっては何の損もない話を、どうして嫌がるのだろうと不思議なだけです」
 平然と話す男に、人間の血は流れているのだろうかと疑問すら浮かぶ。
「報酬のことでしたら、十分なことをさせていただきますよ。離婚後に一切迷惑はかけないとお約束もします」
 どれだけ話をしても、きっと通じ合うことはないだろう。
「わかりました」
 秋良が吐き出すように言うと、吉本はにっこり笑った。
 その笑顔に向かって、秋良はきっぱりと言った。
「僕は学校を辞めます。そうすれば、子ども達は無関係になる。だからこのお話はお断りします」



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