校門を出て大通りに向かうと、自然と車が横付けされる。島永調査事務所の車だ。 助手席のドアを開けようとしたところで、「安藤先生」と声がかけられた。 驚いて振り返ると、中年の男性が二人立っていた。 車からも中尾が降りてきて、秋良と男性たちの間に立つ。 「突然で申し訳ありません。私たちは怪しい者ではありません。こういう者です」 一人が恵慈黎(ケイレイ)教育大学と名前の入った名刺を差し出した。 「あぁ、先日、家にいらしたという」 参事の吉本正敏というその名刺に見覚えがあった。 洋也から、こういう人が転職の話を持ちかけてくるかもと聞き、二枚の名刺を見せてもらった。 その中の一人が今、目の前にいる。 吉本は中尾にも名刺を差し出し、危害は加えないと約束をしている。 「三池さんからお聞きになられたのですね。それでは私共も話がしやすいです。どうでしょう、少しだけお時間をいただけないでしょうか?」 「でも……」 秋良は突然の出来事に戸惑って救いを求めるように中尾を見た。 「ご心配でしたら補強要因を呼びますよ」 「無理強いはしません。本日はあくまでもご挨拶のみで失礼させていただきますし、なんでしたら、安藤先生のご自宅でも構いません」 秋良は苦笑いをもらしながら、じゃあ少しだけとつきあうことにした。家に来られることは気がすすまなかったのと、学校の近くもまた困るので、二人の車の後を中尾の車でついていってもらうことにした。 移動中に洋也に電話を入れた。 一人で大丈夫かと心配されたが、今日は挨拶だけみたいだからと断った。 「それに一人じゃないし」 洋也から話も聞かされていたし、中尾も一緒にいてくれる。自分の中では答は出ている。 だからあまり不安は感じなかった。 『中尾さんにもよろしく言っておいて』 洋也も軽く笑って電話を切った。 「中尾さんによろしくって言ってました」 「頑張ります」 二人で笑った時、前の車が方向指示器を左に出して、駐車場に入っていった。 軽く食事でもと誘われたが、それは丁寧に辞退して、コーヒーだけを頼んだ。 一応機密事項だと断られ、中尾は通路を挟んだ隣のテーブルに着かされている。 秋良の前には写真かと思うような綺麗なグラフィックのパンフレットが並べて置かれた。 「私の大学では、再来年度に初等教育部を開設する運びとなりました。そこで、是非、安藤先生には恵慈黎教育大学付属初等部で教鞭をとっていただきたいと、そのお願いにあがったわけです」 参事の吉本と一緒に座ったのは、事務長の岡下という男で、もっぱら喋るのは吉本ばかりだった。 「はぁ……」 秋良はパンフレットの一つを手に取り、中を見る。 それは生徒たちがよく見ているような、入学案内と似ているものだった。まだ実際の写真は少なく、製作途中の感は否めない。 並んだ教育理念は、いかにもな理想が掲げられている。 「安藤先生には今よりも良い待遇、年収と休暇などをお約束します。どうか前向きに考えてください」 ニコニコと愛想のいい二人に、秋良はかえって居心地の悪さを感じる。 「今すぐあれこれお話しても、安藤先生もお困りでしょうから、本日は顔つなぎまででお暇いたします。ご質問やご相談がございましたら、この岡下に何なりとご連絡ください。これから何度かこのようなお話の機会を持ちまして、お気持ちを固めていただければと思います」 まるでもう決まっていることのように言われて、秋良は慌てた。 「あの、僕はこのお話をお受けするつもりはありません」 最初から断るつもりだった。秋良は未就学児が受験をするということが既に好ましいとは思えないのだ。 「安藤先生、何もそう急にお決めにならなくても。我々も先生のご要望はお聞きするつもりです。施設、設備、教材、失礼ながら公立校では用意できないものを、お望みのままに提供できます。他にも、報酬、休暇、補助教員、メンタル面でもできる限りサポートを惜しみません。どんな不満がおありでしょうか」 不思議そうに、だが少しばかりの不満を滲ませて、吉本が聞き返してきた。 価値観の違いを埋めるのはなかなか難しそうだ。 「少しお聞きしたいのですが、どうして貴方たちは僕を引き抜こうとなどと思われたのでしょうか。僕は教職員組合にも所属していませんし、教育関係の団体や主催のものに論文を書いたり、研究発表をしたりもしていません。僕の名前がどこから出たのか、それが不思議だと思うんです」 正直な気持ちを打ち明ける。それは洋也から話を聞かされたときから、どうして自分が?とずっと感じていたことだ。 出身大学からの推薦というのが妥当かと思われたが、それならばまず大学から連絡があるだろう。 「そんなことですか」 秋良の不安をよそに、相手はむしろほっとしたように、岡下のほうが鞄から書類を取り出した。 それはパンフレットなどとは違い、数字の並んだ表だけの味気ないものだった。 「これはここ数年の私立中学、並びに高校での模擬試験の結果です。関東地域のみになります。学習塾や提携校などを通じて、それぞれの入学試験結果や定期試験の結果なども併せて、偏差値を一覧表にしてあります」 細かい数字は、点数と偏差値が記入されているらしい。 「一見ではお分かりになりにくいでしょうが、我々はこのほかに、上位生徒たちの出身校や所属塾、担任と講師という情報も得ておりまして、その中で驚くべき数字をはじき出したのが、安藤先生、あなたなんです」 「…………僕、ですか?」 とても信じられなくて、相手を見返した。 「はい。この生徒と、この生徒……」 表の中の生徒を指し示しながら、吉本が説明を加える。 「これらの生徒が安藤先生の教え子です。飛びぬけて優秀というわけではないのですが、この生徒たちはとてもバランスよく点数を取っています。変な偏りがない、真に優秀な生徒というわけですね。そして、こう言っては何ですが、私立中学に入る生徒の中には、入ってしまえば落とされることなく卒業できるという安心感からか、成績の下がる生徒も少なくないのですが、安藤先生の教え子たちは成績が下がることはなく、むしろ上がっていく生徒たちが多い。これは大変に素晴らしいことだと思っています」 「それは僕の力ではなく、生徒たちの努力によるものです」 秋良は慌てて自分に向けられた賞賛を遮った。 「えぇ、わかっております。ですが、その生徒たちの力を導き出す手腕というものに、我々は着目したのです。語弊があるかもしれませんが、私たちの設立する小学校には、元々の能力が優れた子ども達が入ってきます。その子ども達に安藤先生の指導が加われば、本当に素晴らしい、優秀な生徒が育つと期待するわけです」 にこにこと力のこもった演説をされる。一呼吸おいて、秋良は冷めたコーヒーを一口飲んだ。 「やはり、お断りします」 決意を込めた声で告げる。 「何故でしょう」 憮然とした声が聞き返してくる。断られるなど、とんでもないと思っている声だ。 「あなたたちが今指し示した生徒。この子達の名前を言えますか?」 秋良は真剣な目で相手を見返した。 「この子は違いますが、この子は恵慈黎の付属中学の生徒です」 吉本は押し黙り、事務長もわからないと首を振る。 「この子は北辻慶介君、この子は長山美鈴さん、それから早田誠君に大北俊哉君です」 他にも数人の名前を挙げていく。わずかな点数のばらつきと特徴で、すぐに教え子たちの顔が思い浮かんだ。 「僕は生徒を偏差値や平均点で順番付けして優劣を決める教育現場で何かを指導することはしたくありません。子ども達はそれぞれに名前があり、個性があり、点数を取れなくても優れた能力を持った子は大勢いる。僕はそんな子ども達の手助けがしたい。背番号をつけるような教育はしたくないんです」 相手は笑顔を消し、黙って秋良を見つめてきた。もしかしたら、かなり腹を立てているのかもしれない。 「ここに名前の載っていない生徒の中で、この子達よりももっと優秀な生徒もいました。それでも私立を選ばずに、専門学校に行った子もいます。その子は小さな頃からちゃんとした将来のビジョンを持ち、夢を叶えようと頑張っていた。だから僕はその生徒に勉強を強要したりはしなかった。一緒に夢を叶えるための道を探した。そんな教師を許してもらえる環境が、あなたたちの学校にあるとは思えないです」 「しかし……ですね」 「確かに点数という数値に表せば、とてもわかりやすいでしょう。でも、その点数を作っているのは一人一人の生徒です。さっき、名前をお聞きしたときに、たとえ一人でも、あなたの中学の一番の成績の子だけでも、名前を覚えていて欲しかったです」 「中学から大学まで、何名の生徒がいるかご存知ですか?」 黙っていた事務長が腹を立てたように聞いてきた。 「わかりません。とてもたくさんでしょうね。でも、中等部の生徒は1学年6クラス。240名ですよね。理想は高いけれど、1クラスに40名を入れておられる」 「優秀な生徒たちなので、40名でも問題なく授業は進められます。それに、能力別コースもあるので、クラスを分けて半数で授業したりもしていますよ」 「5名、いえ3名増えるだけで、教師の負担はかなり増えます。授業は粛々とすすんでも、落ち零れていく子どもをすぐに見つけることはできない。先ほど仰いましたよね、私立に入れば安心して成績の下がる子もいると。その子達がどんな気持ちで教室に座っているか、一度でも聞かれたことはありますか? 小学校でも塾でも成績の良かった子が、中学で点数という洗礼を受けさせられ、伸びようとする頭を押さえつけられる。僕はそんな小学校では何も教える事はできない」 相手が黙ったままなので、秋良は書類を丁寧にまとめ、向かいの席に差し出した。 「僕は一人一人の名前を呼んで授業がしたい。点数を取ることばかりをいいことだと教えたくない。ですから、この話はお断りします。今後ご足労いただいてもこの気持ちは変わりません。申し訳ありませんでした」 秋良が立ち上がって頭を下げると同時に、隣でも中尾が立ち上がった。 「安藤先生、でも、貴方の理想とするものは、公立校でも実現できるとは思えません。中には勉強の嫌いな、宿題すらしてこない子も多いでしょう」 立ち去りかけた秋良はその言葉を聞いてにっこり笑った。 「でも、ご存知ですか? 小学校に通っている子で、本当に勉強が好きな子も少ないですが、勉強が嫌いな子っていないんですよ。知らないことを知ったときの、できなかったことができたときの、子ども達の笑顔は100点満点を取ったときより輝いています。僕が受け持つ生徒は、みんな宿題をやってきます」 そういって秋良が立ち去るのを、二人は苦々しく見送るしか出来なかった。 「安藤さんって、怒らせるとちょっと怖いですね」 家に帰る車の中で、中尾が意外そうに打ち明ける。優しく、おとなしいイメージしかなかったのだろう。 「だってあの人たち、あそこに載っていない僕の生徒の悪口を言ったのも同然でしたから。そんなの許せませんでした」 秋良は帰ってからも、ブツブツと文句を並べ、それを洋也が苦笑しながら宥めたのだった。 それですっきり忘れられるはずだった。 もう関わりはないものと、秋良も洋也も安心しきっていた。 けれどそれからわずか一週間後、調査事務所のガードも外れたことを確認したかのように、吉本正敏が秋良の前に現われたのだった。 次頁……………… |