Physical





 仕方なく通した客間で、仕立ての良いスーツを着た男性は、いかにもな笑顔で洋也に名刺を差し出した。
 恵慈黎(ケイレイ)教育大学理事長、吉本雄一。
 白髪が混じり始めた頭をオールバックに撫で付けた吉本は、もう一人の関係者を連れてきていた。
「吉本正敏と申します。参事を務めております」
 同じ吉本という苗字もさることながら、その容姿で二人が親子であることはすぐにわかった。
「本日伺いましたのは、三池さんももうお気づきのこととは思いますが、安藤秋良先生のことなのです」
 理事長の方が話を切り出すと、参事の方がパンフレットをテーブルの上に置いた。
 先日、島永から見せてもらったものよりも、詳細に作り込んである。どうやら小学校建設の話はかなり具体的になり、発表も間近なのだろう。
「我が恵慈黎教育大学では、今後トータルアカデミックな理想の教育環境を目指し、小学校から大学院まで、将来の日本を背負って立つ優秀な人材の育成を目指す事を理念とし、来年度には大学院を、再来年度に初等教育部を開設する運びとなりました」
 父親の言葉に呼応するように、息子がパンフレットのページを繰って見せる。
「つきましては、安藤先生には是非、我が恵慈黎教育大学初等教育部にて教鞭をとっていただきたいと、お願いに上がった次第です」
「安藤は今、学校に行ってます」
 平日の午後一番、普通のサラリーマンでも家にいないことはわかりきったことである。
「話をする相手をお間違えでは?」
 何故洋也に先に会いに来たのか、厭な感じがする。
「実は今回、我々がお迎えしたいと思っている先生方には、信用調査をいたしました。それほど立ち入ったものではなく、学歴や職歴といった、ごく初歩的なものでしたが、安藤先生に関しましては、初期のところで調査会社のほうからストップがかかってしまいまして」
 そこで彼は目を細めて、ちらりと洋也を窺い見た。
 目の端がちりっと痛むような不快感を覚える。
「更に調べようとしましたが、ボディーガードがついていると報告されましては、我々も少なからず驚いてしまいまして」
 にやりと笑う。狡猾さを隠そうとする愛想笑いだが、かえって失敗していると、本人は気づいているだろうか。
「そんな相手ならば、雇用を取りやめるのが普通ではないですか?」
 しらけた気持ちで言ってやる。
 有名な大学の理事長が来たからと言って、怯む洋也ではない。まして、秋良に関することであれば、一歩も引くつもりはなかった。
「失礼なこととは思いましたが、三池さん、貴方の事も調べさせていただきました」
 ジロリと睨むと、さすがに吉本も気まずさを感じたのか、ごほんと咳払いをする。
「調査というほどのことではありません。県立大学で教授をしている友人に、少し話を聞いた程度です」
 自分と親しい相手ならば、こんな相手に口を軽くすることなどありえない。思い当たる相手がすぐには浮かばなくて、眉間に皺が寄ってしまう。
「素晴らしい研究者だとお聞きしました。友人も手放しで褒め称えておりましてね。そんな三池さんのご友人ならば、ますます安藤先生をお迎えしたくなりました」
 絵で描くならば、両手をこすり合わせた揉み手状態だろうか。
 だが、口で言うほどに、熱意は感じ取りにくい。
「ここをお調べになったのでしたらお分かりでしょう。安藤と私の関係を。それでもあなたたちは、安藤を引き抜きたいと思っておられるんですか?」
 言葉で濁すことはしない。だが、はっきりとも言わない。
 相手がどういう言葉で表現するのかを聞きたいのだ。
「個人の私生活や嗜好については尊重するというのが、我が校の方針です。豊かで安定した生活は、教育者にとっても必要なことと考えております」
 聞く限りでは優等生的な答えだと言えるだろう。
 だが、どこかで議論したとは思えない、上辺だけの返答である。
「では、保護者からそんな先生には教えて欲しくない、担任を外せと要求されたら?」
「もちろん、我が校の方針を提示し、先生をお守りいたします」
 あっさりした答え。洋也の印象では、信用するまではいかなかった。
 どんな質問にも、今の時点では耳に心地よい答えしか出さないだろう。
「そこまでの用意があるのでしたら、本人に直接話をしたらいいでしょう。私からは安藤にも貴方達にも何も申し上げることはありません」
 洋也の同居人をも突き放したような物言いに、二人は一瞬だけ身体を引いた。
 互いに顔を見合わせてから、同じような愛想笑いを洋也に向ける。
「三池さんからも推薦はしていただけないものでしょうか。我が大学は優秀人材を集め、公立ではとうてい実現できない教育環境を……」
「私に話をしても無駄です」
 びしりと話を跳ねつける。
「私からは安藤に対して、転職を勧めることも思いとどまることも、アドバイスすることは一切ありません。本人次第です。貴方がたが本当に安藤に来て欲しいとお望みでしたら、直接アプローチしてください」
 取り付く島もない調子で言われ、二人はぐっと息を飲み込む。
「わかりました。いえ、我々は安藤先生にお話をする前に、同居なさっている貴方に、話を通すのも筋だと思ったまでのことでしてね。これで義理は果たせました。もし、安藤先生が我々のところに来てくださることになっても?」
「反対はしませんよ」
 鼻白んだように二人は立ち上がった。心の中ではこの若造がと、罵っているだろう。頬がぴくぴくとしている。
「それではお邪魔いたしました」
 表面では丁寧に取り繕い、二人は早々に辞去していく。
 門のところまでは見送った。早く立ち去って欲しかったからだ。
 玄関を閉め、溜め息をつく。
 多分、秋良がこの話を受けることはないだろう。
 しかし相手が秋良に接触し、秋良が答えを出すまでは、ガードを外すことはしないでおこうと決めた。
 自分の大学の誰が口を滑らせたのか、それを探るのが面倒だと、溜め息をついたのだった。







「良かったんですか? あんな約束をして」
 近くに待機させていた車に二人で乗り込んですぐに、正敏のほうが心配そうに尋ねた。
「約束?」
 雄一のほうは何のことか、すぐにはわからなかったらしい。
「もし、安藤教諭の性癖が保護者にばれたときには、全力で守るといったことですよ」
 学校経営者にとっては、何よりも怖いのが保護者たちである。
 特に恵慈黎教育大学は高度の教育環境を謳って生徒を集めているので、保護者たちが何か一つでも問題視して噂が広まれば、すぐに生徒離れが起こり、経営危機に陥ることになる。
「二年もあれば安藤教諭の教育テクニックを盗むことはできるだろう。その後で辞めてもらうのに、理由などいくらでも後付けできる。様は保護者の口をその間黙らせればいいだけの事だ」
「そうですね」
 正敏はほっとしてすぐにもこの問題を忘れた。
 とにかく今は、優秀な教師を集め、それを御旗にして、成績の良い生徒を集め、学校の偏差値を上げることしか頭になかった。



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